彼の過去
すいません。投稿遅れました。このシーンは何度も書き直しました、、、。ですが上々の出だしになったように思われます。読んでみてください。
その日、彼は朝から一篇の掌編を書上げるつもりでいました。前日寝る前に思考に耽っておりますと、一つの良い着想を得たので忘れてしまわないように手近のノートに書きつけて明日これを形にしようと考えていたのです。その作品の構想を私は今でも鮮明に覚えていますが、彼の美的価値観という名の看守によく調教された囚人のような作品でありました。今から思えば、その他の作品も個性無き囚人でありましたが、それらに比べれば、その掌篇は模範囚と呼ぶべき彼の自分の美的価値観への朴訥な崇拝が如実に表れておりました。
では、彼の美的価値観とは何ぞやというような疑問が浮かぶように思われます。私にはそれを上手く言ってみせることはできませんが、三島由紀夫の言葉を借りるならば「選別」というものが根本にあるように思われます。三島氏の「選別」とは、芸術家が自分の美的感性に反応する物にのみ注意して目を向け、それ以外の事柄を容赦なく切り捨てていくことを指した言葉であります。彼の美的価値観それ自身に対する言及は、彼本人にしか分かりません。ですがその価値観の成立は「選別」によってなされているように思われます。
話を元に戻しますが、実際このような掌篇を書くという彼の予定は潰えました。
夜も明けきらぬ頃でしたが突然彼の部屋の扉が勢いよく開かれたのです。勢いよく回転した扉が壁に衝突する音が彼を飛び起させました。彼は元来周囲に物音一つない程静かな部屋で無ければ眠れず、扉越しに誰かが廊下を歩く足音がするだけで目が覚めてしまうのでした。彼の部屋には、1階部分がソファになっていて2階部分が網目状の底部に支えられた寝床である便利な家具が置かれています。その2階部分に彼は布団を敷いて寝ていましたが、彼の部屋は天井が低く朝起き上がると体が布団から半直角起き上がっただけで、頭が当たってしまいます。ですから、その時彼は驚き飛び起きて思いっきり頭を天井にぶつけ、反動で舌を強く噛んでしまいましたが、構わず何事かと執拗に辺りを見回し身構えました。
「起きて!」
部屋に入ってきたその声の主は、彼の体を一心不乱に揺すぶりました。時間帯を弁えないヒステリックな高い声。既に起きているのに彼の体を揺さぶり続ける状況判断力の無さ。こういう人間としての幼さは母のものだなと彼は思いましたし、次第に夜目がきいてくるとそれは母であることがわかりました。
彼女は泣きこそしていませんでしたが、口元はひくひくと引き攣り少し荒い呼吸をしていました。
「さっき電話がきたんだけど……爺ちゃんが死んじゃったんだって」
「……そっか」
「そっか、じゃないわよ!明日朝から葬儀が行われるみたいだから、寝ていないですぐに帰省の準備してちょうだい。喪服は入学式のスーツを使えば良いから、クローゼットの中を探してみて」
「もしかして準備出来たら田舎の方に行くとか?」
「当たり前でしょ!葬儀は明日の朝だけどなるべく早く会場入りして、葬儀の準備手伝ったりしなきゃいけないから」
彼女はそれだけ言うと、一人慌ただしく部屋を出ていき、扉越しにも分かるほどドタドタと大きな音を立てて階段を下りていきました。
台風が去った後の様に、部屋は辺りの闇に相まって静けさに包まれました。彼も呆然としていましたが、階下で母が父に大きな声で事情を説明し始める声が聞える頃には彼も頭が少しずつ動くようになりました。状況をうまく呑み込み整理しながら、彼の中でまず湧き上がってきた感情は怒りでした。それは、今日小説を書こうという予定が暴力的に潰された事への反発でした。幼い母。更に、予定を狂わせておきながら、そんなことも露知らず喚く先程の母親の姿を想起し、彼は怒りで歯を強く噛み合わせました。
それでも我慢して彼が旅行の準備に取り掛かることが出来たのは、亡くなった母型の祖父(お義父さんではなく爺ちゃんと呼んでいたところからそう考えました)に幼いころ大変良くしてもらった記憶が彼の中にあったからです。
彼は小学生のころから作文が好きでしたし、実際に卓越した文章力を有していました。担任の先生は、彼の作文を見てその文章力を個人面談の時に彼の母に「彼は将来一流の物書きになるやもしれません」と言った程です。祖父は文筆家でありましたから、両親は田舎に帰るたびに祖父に文章指導をしてやるよう頼みました。祖父はそれを喜んで引き受けましたし、彼もそこで沢山の添削を受けて格段に文章力が上がりました。また、本を沢山与えました。「源氏物語」などの古典的名著ばかりで今日まで彼は何度も読み返しましたし、それらの本は今でも彼の部屋の書棚にあります。
文筆家以外にも彼は、母方の実家のあるM県T町の町長を務めておりました。聞いたところによれば、文筆業の方に専念し役所に顔こそ出すものの、権力者として威張ることもなく家に帰れば明るく振舞い妻とよろしくやったということです。役人としてはよろしくないのかもしれませんが、彼は祖父の威張らないところを好ましく思っておりました。
それは彼の家族に対する反発から涵養されたものでありました。父は若くして名の通った大学の教授を務めていました。元々は国立の研究所で一研究者として働いていましたが、数年前に大学から業績を認められて教授として招聘されたのです。
研究者時代は、仕事も余念がなくその上居酒屋で後輩の悩みを聞いてやるなど面倒見も良いようでした。畢竟人望もあり、母はそんな父を好きになって結婚したようですし彼も自然とそんな父に憧憬を抱いていた時期もありました。しかし大学教授と言う研究者でありながら教育者という立場に立ってから、父は変わりました。
彼は、昔から夕食の食卓でいつも家族に仕事の話を聞かせることが習慣でした。ある日、家に帰ってきた父の表情は硬く何も言わずに鞄を下してパジャマに着替えました。食事をとっている最中も同じ表情のまま決して喋りませんでした。最初、その様子を見て、自分が何か気に障ることをしてしまったかと彼は縮み上がりました。
やがて父が口を開きます。彼は開口一番「お前は俺の研究室の学生みたいになるんじゃないぞ」と言いました。あまりに唐突なことであったから訳も分からず、「それってどんな学生?」と彼は尋ねました。すると父はよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに饒舌にある学生の名前を出して非難し始めたのです。
彼の話を要約すれば、その学生を非難する理由は彼が父に従わないことがあったからでした。そこに教育者としての姿はありません。父は徹底的な権力者以外の何物でもありませんでした。終いには「学生はロボットで良いのだ。馬鹿に意志など必要ない」などと言い出す始末です。
彼は話しながら次第に、岩礁に打ち付ける瀑布の飛沫のように荒々しく感情的になりはじめました。「あの馬鹿が!」学生が自分に従わなかった瞬間でもフラッシュバックしたのか。父は、話している最中に突然持っている箸を工事現場で道路を掘削するドリルのように小刻みに机に叩き付けると、母は泣きそうでした。
「あの男は研究者になることを心から望んでいるようだが、俺の見立てではあいつにそんな才能は無い。無理だね。今度皆の前でそう言ってやるか」
父の浮かべた相手の気持ちに対する思慮の一つも感じられない軽薄な笑みに、少しの慄然とそれを上回る怒りを感じました。もう限界だ。食卓は滅茶苦茶でした。あれから父は箸が折れるまで叩き付け、母はまるで自分が怒られているように震えて拳を握りしめていました。何を食べているのかもわかりませんし、食べ物が、机や天井から下がる電灯のゆらゆらと揺れる光に似た単なる色の何かにしか見えませんでした。それを口に入れることは気持ちの悪いことでした。それでも彼は耐えながら食事を済ませると、急いで自室へと戻るために2階に駆け上がりました。
彼の父への憧れはこうして完全に破壊されました。怒りはなく、ただただ寂しいと彼は思いました。研究者時代の父。優しくて仕事にも一生懸命だった。憧れの対象。でも今はそんな姿どこにも見当たらない。それは大学に入って消えたのかもしれないし、偽りの姿だったのかもしれない。もうどっちでもどっでもよかった。
階下から父の怒鳴り声が聞えて来て、彼は泣きそうになりました。母の「もうやめてって言ってるでしょ」という叫び声が覆いかぶさるように響きます。馬鹿だ、どうして反抗する。その反抗こそ彼が最も忌み嫌うものであるというのに。彼女は父の話の何を聞いていたんだ。そこまで思って彼はふと気付きました。母は、父が話を始めて食卓の空気が壊れてからずっと震えていたことに。もしかしたら彼女は父の話など一切聞いておらず、ただ楽しい雰囲気を父の非難で壊したことに対する怒りに支配されていたのでは。それがちょうど今堰を切ったように溢れているのでは。
だとしたら幼いこと極まりない。彼はそう冷めた思いで階下を覗き込みました。あの二人と血が繋がっている。その事実だけで彼は吐き気を催しました。父の傲慢さも母の幼さも受け継いでいるかもしれない。そうではないと思いたいけれど。階下は、廊下に通じる扉の隙間から煌々と漏れ出した、食卓の電灯の光に淡く包み込まれ悲しいほどに幻想的で脆いものでした。父の傲慢さの権化である低く侮蔑的な内容しか持たない怒鳴り声。母の感情任せの幼さが如実に表れた、貧弱な語彙に基づく貧弱な反抗、そして嫌味たらしい高い声。それらは汚濁した音の大河となって、階下を飲み込み2階へと侵入しました。
彼はそのまま自室へ戻る気が起きず、逃げるように横のベランダに出ました。季節は夏だったこともあって、外の熱気が彼の体に纏わりつきます。家の周り、この地域一帯は山に囲まれている為、蝉の大合唱が直接感じられました。このベランダのちょうど真下がリビングになっていて、風通しの良い網戸だけでは両親の怒鳴り声を遮ることはできません。階下の喧騒が暑さや辺りの蝉の鳴き声と共に彼の体にのしかかります。彼は額の汗を中指で一滴掬うと、右のこめかみに塗り付けました。強く。強く。頭蓋の感触が感じられるほどに。しかし喧騒は一向にやみません。やがて頭痛が始まり、彼は耐えきれず空を見上げると動きが止まりました。
暗く淀み、前後の概念はおろか形すらない空。そこに月が、日本国旗の日の丸のように堂々と形を持って浮かんでいました。昼が晴天だったこともあって空には雲一つなく、星の輝きも月光の壮大さの前には到底かないませんでした。その姿に彼は心奪われ、静かに彼の目からは泪が流れ落ちました。
美しい。あまりに美しい。これ程美しかったものを今迄見たことがない。
もう彼の耳に階下の喧騒などは一切入りませんでした。彼はこれこそが自分が求めていた光なのだと直感的に感じました。月光は手すりにベールのような光の梯子を掛けてくれる。それに乗って月に行ってしまいたい。でも手を伸ばしても掴むことさえできません。
それがなんだか悔しくて、親指と人差し指で丸を作り片眼を閉じて、開いた方の目で見ると月は丸の中に綺麗に収まりました。その時彼は思いました。この月の様に美しいものを見つけて心を慰めていきたい。本当ならばそのまま自分の物にしてしまいたいのだけれど、それは土台無理な話だから、せめてそういうものを選別する感性だけでも身に着けよう。それはあの両親の子供という事実に対する反発の意味が一番強い様に、今なら思います。何にせよこれが彼の「選別」という美的価値観をもつ切掛けなのです。