届いた手紙
ようやく物語が始まります。あらかじめ言っておきますが、この作品は伏線がそれなりにあるので、一度最後まで読み切ってももう一度読み返すことをお勧めします。(それだけの内容になっていると良いのですが・・・。)
ある日、東京都渋谷にある小さな出版社の郵便受けに、一通の封筒が投函された。偶然その封筒を手にしたある編集者は、怪訝そうな目を向ける。一見、何の変哲もない縦長の茶封筒。表にはこの出版社の名前と住所が明記されている。だが、裏返してみると、左下には本来あるべき送り主の名前が書かれていなかったのだ。
休憩時間中、出版社の休憩室で、彼はその封筒を前にして長考したのち、ついにその封筒をどうするか結論を下せなかった。当初は、その封筒は誰かの悪戯とし捨ててしまおうかと考えたのである。ところが、すぐに自分の一存で手紙を捨てることが彼の不安材料となる。それは何も彼が優柔不断だからではない。彼はまだ編集者として新米であり、今日まで仕事の不手際から良く編集長に叱責されていたのだ。そのため社への封筒を勝手に捨てることを、例えそれが誰の目から見ても正規の封筒ではなかったとしても、彼は編集長の怒りの形相を思い浮かべてしまい、できなかった。
そういう訳で彼は長いことその封筒をどうすることもできずにいる。誰かに相談することは出来ない。人一人いない休憩室から見た真向いの仕事場では、鉄火場と言う形容がピッタリな程、編集長を始め編集者達が目まぐるしく動き回っていた。彼の出版社は仕事部屋も狭ければ、従業員も少ない。それでいて一人の編集者が三人の作家を担当している。それでも出版社の小説部門は仕事が少ないと言われる始末で、他の部門は比較にならないというのだが。
「おーい、もう休憩時間終わりだぞ。仕事に取り掛かってくれよな。例の案件、早いとこ処理しちゃってくれ」
編集長の自分を呼ぶ声がして、ふと腕時計を見ると針は休憩時間の終わりを告げていた。
早く行かなければ、また編集長に叱られてしまう。彼は封筒のことを考えるのをやめ、それをポケットに突っ込むと急いで休憩室を出た。
仕事を終えると、彼は急いで自宅に直帰する。最近一人暮らしを始めたばかりで、食事は買ってきた惣菜で済ませ、風呂を沸かすのも面倒なのでシャワーを浴びた。
そうして、リビングで彼は、食べ終わった後捨てられずに放置された菓子の袋やコードが絡まったゲームのコントローラーが散らかった机に、ごみを床に落としながら無理やりスペースを作って先程の茶封筒を置き、対峙していた。結局仕事が終わるまで誰かに相談する暇もなかった。仕事が終わってからは、皆居酒屋に行ってしまって話を切り出すタイミングがない。こうして封筒をどうすることもできず家に持ち帰ってきてしまったのである。
とりあえず、封筒を軽く上下に揺すってみるとカサカサという音がした。彼はこれは紙同士が擦れる音だとすぐに判断し、封筒の中身が紙であると判じた。
とすれば悪戯か、脅迫状だろうか。脅迫状だとしたら、こんな小さな会社に何のためにと様々な疑問が彼の頭の中に湧いた。
よし、社の為に俺がこの封筒を検閲してやるんだ。そう彼が、封筒を開封する踏ん切りをつけられたのが、考えが煮詰まらず飲み始めた酒を飲み切って、出来上がった頃だった。どれほど疑問を抱いてみたところで、結局どんどん不安になっていくだけだ。それに、実際に封筒の中身を見た方が早いのである。辺りを軽く見まわすような動作をしてから、彼は鋏で慎重に開封した。
封筒の中から出てきたのは、一通の便箋と一枚の写真であった。便箋は幾重にも折り畳まれ、それを開くという動作が、酩酊した彼にとっては何となく億劫だった。それ故、彼は写真の方を先に見たのである。
人間は写真を見ると、まずそこに映っている人間の顔を無意識的に認識するという。彼も例外ではない。そして写真から一瞬で本能的に死の匂いを感じた。
確かに死体が映っている。彼は驚愕の余り、言葉を失う。そして嫌がらせのための封筒なのでは、という疑惑が彼の頭をよぎった。
しかしそれは一瞬で消え去ることになる。写真をよく観察すると、それは死体というより亡くなった人間の写真だった。
背景はぼんやりと暗い。写真の大部分を斜めに撮られた棺が占める。清廉な白さ。中には白ユリや山百合、睡蓮など色とりどりの花がひしめき合う。
その花園の中に人の顔があった。
死特有の冷たさを纏う顔の白さ。だが髪は若々しく黒い。顔全体の肉は削げ、額や頬には、地割れのように、深い亀裂が刻み込まれている。
それでも顔は若さを失っていない。濃く太い眉。懸崖のような鼻梁。強く結ばれた唇。全てが生前の老人の壮健さを伺わせる。
何より編集者の疑惑を払拭したのは、写真の四隅に映りこむ人たちの手だった。
たくさんの手。
大きい手。
小さい手。
皺の多い手。
皺の無い手。
それらは死神の手ではない。どれもが老人の死を悼み嘆く手だ。棺の中の花を包む手の輪郭に湛えられた優しさが何よりの証左だった。
その編集者の鋭い感受性が、彼を写真から離さなかった。写真の隅々まで黙々と覗き込む。何かを読み取ろうとするように。
それから、写真から顔を上げたときにはすっかり酔いも冷め、代わりに不思議な昂揚感が彼を包んでいた。便箋に対する興味が湧いていたのである。便箋と手紙の間にはどのような関係があるのだろう。もしかしてこの封筒は、亡くなった老人本人が死後にあの世から書いて投函したのではないだろうか。もちろんそんなことは有り得ないが、昂揚した彼の、豊かな想像力はそんな「有り得ない」という枠に当てはまらない。
そんな彼の想像力の高まりに呼応するように、心臓が早鐘を打つ。息苦しさに突き動かされて、便箋を丁寧に開くと彼はゆっくりと一行目から文面に目を通し始めた。