幸せの人
いつの頃からだろうか、私は空を飛びたかった。
翼が欲しい。
翼があれば広い空をどこまでも行ける、どんなところにだってたどり着ける。
雨の日の朝、私がたどり着いたのは天国でした。
気が付いたらまばゆい光の中、羽が舞散る場所にいた。
遠くの方に虹が見えて、そっちに行こうと走り出したら、私の体がふわりと浮いたの。
背中に手を伸ばすともこもこしたものがあって、自由に動かすことが出来た。
羽だ。
私はすぐにわかった。
死んじゃったんだ、私。
お菊おばあさんとは、会ってすぐに仲良くなった。
虹の麓のどこまでも広がる花畑で、お菊おばあさんは言ったの。
「可哀想にね。でも大丈夫、ここは全然寂しくないからね」
お菊おばあさんはいとおしそうに私の頭を撫でた。私の方が背が高いから、お菊おばあさんは空を飛んでいた。
「ありがとう、天国がきれいな所でほっとしました」
天国に来れて良かった。こんなにキレイだとは思わなかった。本当に背中に羽が生えるんだ。私、今、天使って言うのかな。
「でも若くしてこっちに来るのは不安だったんじゃないかい? いいことを教えてあげよう。あの虹の中に行くとね、元の世界に降りて行けるんだよ」
途端に私、頭の中が真っ白になった。それから、くるくる頭が回転して、皆に会わなくちゃ、って思ったんだ。
「お菊おばあさん、私、ちょっと行って来る」
「わかったよ。行ってらっしゃい」
お菊おばあさんはしわしわな顔で笑った。
そして、私は虹の中に飛び込んで、下へ下へ降りて行った。
霊安室に、私はいた。
私の体は、私のものではなくなって、ベットの上に横たわっている。
私はさらにその上でぽかんと浮かんでいる。
椅子に座っている男の人と女の人。
私の、お父さんとお母さんだった人だ。
羽を動かして、近くに寄ってみる。
二人とも、痩せたなあ。
年を取った。
目に隈がある。
赤い目、だけどどこかしっかりとした真っ黒い目。
そうだ。私は……、私は壁を通り抜けて外に出た。
やってみたら、出来るもんだ。
そう。ここは病院。私は、ここで幼い頃から長い時間を過ごしてた。
いつ死ぬかわからないと病院の先生に言われながら、長い時間が経った。
花畑も虹も見ることの出来ない、病室の片隅に住んでいた。
病室には友達がいた。
そうだ、友達に会いに行こう。
病室の私がいたベットには知らない女の人がいた。年は私と同じくらいかなあ。
入院しているのに、よく笑う。
話しかけている。相手はメグちゃんだ。
私の隣のベットの子。
メグちゃんは、少し痩せたみたい。
あれ、でも、私と話す時より楽しそう? ずっと笑顔だ。大きな笑い声なんかも聞こえる。
私も仲間に入れてよ。
「コホン、えー、メグちゃんの長年の友です」
やっぱり、私の声は 届かないみたい。私、天使か幽霊なんだもんね。生きてる人には、声が聞こえないんだ。
ショックだな。でもメグちゃんが笑えるのは新しい友達のお陰だ。笑わなくちゃ。
微笑んだ。顔がひきつった。変だな。
これでメグちゃんは私がいなくても大丈夫。
私も、安心して天国に戻れる。
そろそろ天国に戻らなくちゃ。
その前にもう一度だけ、両親に会おう。私は病室を出た。
真っ白な部屋をいくつも抜けて、真っ白な廊下に行き着いた。沢山の人が歩いている。
真っ白い服の人が角を曲がった。あの、後ろ姿は。
私は真っ白い服装の人を追いかけた。
ナースステーションがあった。そこにいたのは真っ白い服の人達。皆、皆、見たことのある看護師さんよ。
その中でも、特に仲良くしてくれたのがユイちゃん。私は、名前で呼んでいた。とても優しいお姉さん。
ユイちゃんの所に飛んで行くと、目のお化粧が少し崩れているのがわかった。
泣いていたんだ。
ドキン。いつも笑顔のユイちゃん。私が泣かせてしまったのかしら。
ありがとうユイちゃん、ごめんねユイちゃん。
白い服を来た男の人とユイちゃんは話をしている。
「話があるから、少しいいかい」
男の人が言う。
この男の人、そうだ、山本先生!
昔、山本先生が担当医師だった時もあったなあ。
二人は、誰もいない廊下に行った。
「君の気持ちはわかるよ、こんな時に言うべきじゃないとわかっている」
山本先生はユイちゃんを抱きしめた。
私は、驚いた。
「君のことを守りたい。いつも側にいたい。こんな時だからこそ。僕の大事な人」
ユイちゃんは堪えていたものを吐き出すように泣き出した。
そうか、山本先生、ユイちゃんが好きだったんだ。そしてユイちゃんも、きっと。
二人は結ばれるんだ。私は微笑んだ。寂しいな。ユイちゃんを取られた気持ち。だけど、これで幸せになれるね。
霊安室に向かう途中、顔がずっと冷たかった。涙が止まらなかった。
霊安室には人が増えていた。おじさんやおばあさんが駆け付けてきたみたい。
「間に合わなかった…」
おじさんが言った。
おばさんが私の体に近付き頭を撫でた。
「今まで辛かったでしょう。やっと楽になったのね」
辛かった? 私、辛かったのかな。辛い人生で私は終わってしまったのかな?
皆、次の人生に向けて歩いている。その中で私は時が止まってしまった。辛いこともあった。だけど、やっぱり…。
「楽になっただなんて、言わないで!」
静かにしていたお母さんが叫ぶのと、私が叫んだのは同時だった。
俯いていたお母さんが、顔を上げた。お父さんも顔をぐちゃぐちゃにして、泣きながら前を見てる。
そっか。
私は、やっぱりこの両親の子どもなんだ。
そしてこの両親の子どもで良かったって思っている。
お父さん、お母さん、生んでくれてありがとう。このまま終わりなんてやだよ。
ガラ、ガララ!
雷が突然鳴った。
ザアア……。
そうだ、今日は朝から雨の音がした。
そして目覚めたら、雨はやんでいて、光の中にいた。
嫌だ!
予感がして、私は両親の近くへ駆け出した。でも、羽が、勝手に動く。走れば走るほど、羽が羽ばたいて、上へ上へ浮かんで行く。
皆から、私は遠ざかって行く。
待って!
メグちゃん、ユイちゃん、山本先生、お父さん、お母さん…。
瞬きをしたら、私はまた光の中にいた。目の前にお菊おばあさんがにっこりと笑っている。私の顔はベトベトで今も一筋涙がこぼれた。
お菊おばあさんが、涙を拭ってくれた。
「もう一つだけ、特別に。あんたにだけ、特別にね」
お菊おばあさんは、目を閉じて、と言った。
「今までのことを全部話してごらん。それは魔法の呪文だよ。呪文を唱えて、終わりが来た時、生きていたいと思えたら、願いが叶うんだ」
私は泣きながら、声をひっくり返しながら、呪文を唱えた。
「あの時、本当は私も思ってたんです。やっと楽になったって。だけど、やっぱりダメだった。この子には幸せになって欲しくて、生きていて欲しくて。
この子が目覚めなくなって二年が経ちました。目覚めないこと、人並みの幸せをあげられないことが辛かった。いっそ、死んだ方がこの子の為だと思いました。
でも、ダメね。やっぱり私はこの子が生きていていることが幸せなんです。こうして、目覚めなくても、語りかけたり、見守っていると心が安らぐんです。
還って来てくれて良かった…。
山本さん、いつもありがとう」
「優子さんもきっと幸せなんじゃないでしょうか。素敵な家族が一緒なんだもの…」
ユイはそっと優子を撫でた。
優子のお母さんは泣いていた。きっと辛いだろう、だけどそれは幸せの涙でもあるのだとユイは思うのだった。