四月病
「…死にたい」
炬燵の中に身体を突っ込んで、先輩はそんなことを口にする。
手入れをしていないのが良く分かる長い髪が振り乱れ、炬燵布団の中から変な毛玉の生き物が飛び出しているかのように見える――ゴミが散乱している薄暗い部屋の中では、それはまるで新種の虫のようで、知らない人が見れば飛び上がってしまうんじゃないか、と危惧してしまう。
僕はため息をつきつつ、炬燵周りのゴミをゴミ袋に放り込んでいく。
その足を彼女の手が掴み、留めようとするものの、僕の動きを止めるほどの強制力を持ってはいない。
部屋中のゴミをとりあえず片づけ終えた。散乱する雑誌は納める本棚もない為、そのまま放置しておくしかない――僕は彼女の頭の前に座り込み、そっと手を伸ばした。
と、むくり、とその頭が起きる。
絶世の美少女と高校の時分には謳われたものである彼女の顔が、そこにはある。無気力以外の、どんな言葉で指し示せば良いものか。或は、あらゆる複雑な感情がまじりあった挙句に――それこそ、水彩画で筆に付着した絵の具を落とすためのバケツの中の水と同じように――そのように落ち着かざるを得なくなってしまった無表情で、彼女は僕を見つめ返している。
「どうして死にたいんです?」
彼女の中では結論が出ているのだろうか。
うむ、と彼女は炬燵から身体を出して、僕と向かい合った。
果たしてこれはいつから洗濯されていないのだろうか、不穏な気配立ち込めるジャージの上下をかさかさと小刻みに揺らしつつ、彼女は口を開く。
「四月病だ」
タイトルの伏線を回収しつつ、彼女は口にする。
「私が大学に入って一年が経過したわけだが、全く友達が出来ない。そもそも、対人スキルが皆無なうえに、家事が出来ない私を遠方に放り出した両親の頭が理解出来ない。大体、このアパート、大学からどれだけ離れているんだ。私も最初は頑張って登校をしていたが、毎日はとても無理だ。頑張れば講義についていくことは可能だっただろう。けれども、それも、今となっては怪しいものだ――」
そこまで一息で口にする。
つまり、だ。
彼女の言う四月病と言うのは、無為に一年を過ごしてしまったが為に、とても追いきれない負債を抱え込んでしまった現状に対しての打開策を見いだせない状況を指すらしい。
五月病と言うのは、急激な環境の変化に対応することが出来ず、憂鬱な気分になったりすることを指すのだと、どこかで見聞きしたことがあるが、彼女の病は、それとは根本的に違うものらしい。
「なるほど…」
頷きつつ、彼女を見つめる。基本的に表情の変化の乏しい彼女を理解することは、彼女を良く知る人物でない限りは難しい。
彼女は社交性のある人とはとても言えないので、そういう人間の数は限られている。傍目の容姿から近づいてくる人間の分母が大きいにも関わらず、分子が片手の指で足りる程度なのは、伏せた彼女の表情の向こうにある感情と無縁ではあるまい。
駄目人間なのに、酷く、プライドが高い。
彼女を良く知ってしまった人物の中には、そんな彼女に愛想をつかしてしまったパターンも少なくはない。いや、そもそも、彼女のそのナイーブな内面を知る関係にまで行き着く人も多くはないのだけれども。
彼女が口に出す弱音は大概、普通の人には乗り越えられる類のものだ。
それら全てを撥ね飛ばすことが出来なければ、とても社会の荒波を乗り越えていくことなどは出来やしない。いや、学生生活だって乗り切れやしない。…そう、そうなのだ。高校までは、親元で暮らすことが出来ていたので、彼女とて普通に乗り切ることが出来ていたように見えた…のだけども。
「そうですね。先輩を一人にしたのは、親御さんの失態と言わざるを得ません」
ぐしゅぐしゅ、と終いには泣き出してしまった先輩の姿を見れば、元より、学生生活を平穏無事に、何の欠落もなく乗り切れる可能性など、果てしなくゼロに近いことは分かり切っていたことなのだ。しかし、親御さんが遠方の大学に娘を送ることを決めたのは何故か。
「でも、それって、先輩が押し切ったことですよね?」
「うん」
あっさりと頷く先輩の顔には、先ほどまで全て他人の所為にしていたことへの罪悪感が少なからず浮かんでいた。恐らくは、この一年間もの間、無為な時間を過ごしつつ、彼女は自分を責め続けていたのではないだろうか――本人以外にとっては、それがどうした、で済まされることなのではあるが。
「とりあえず、これからどうすればいいのか、考えましょう」
「決まってるじゃないか。もう取り返しがつかないんだ。私はこのまま土に還るよ」
再び床にへばりつくように伏せた彼女の姿を眺め、既視感を覚える。
どこかで同じような光景を見たことがあるような気がする。一体何だろう。この感覚は、一体、何だろう。
高校の時分には、幾度となく、彼女の情けない姿は見せ続けられてきた。それは今更だ。今更、そんなことを再認識することもない。だとすれば、一体。
そうか。
高校からの帰宅時、駅のホームで見た吐き捨てられたガムの跡。
へばりつき、固まった、それ。
今、俺の眼前にいる先輩の姿はまさにそれだった。
打ち捨てられれば、そのままに、それがさも、当たり前の日常の中の景観になる、それ。
先輩も今のままで、当たり前に、そのままになってしまうのではないだろうか。
(今まで生きてきた中でもっとしょうもない思考をしてしまった)
「正直、このまま先輩が白骨化してくれるなら、それはそれで面白いとは思うんですが、多分、先輩はそんな根性もないでしょうし、流石に居た堪れないので、助けてあげますよ」
「マジすか?」
顔だけ起こして見上げてくる。プライドは高いが背に腹変えられなくなれば平然と他人に縋る。本当に何故、この人のご両親は自分の手元から離してしまったのだろう。
「出来うる限りは」
美人は得だと思う。ずるいとすら思う。内面は甘ったれた自立心の欠片もないような人間であっても、救いたいと思わせる魅力を有している。
いや、或は、それは、自分が単純にお人よしなだけなのだろうか。正直言って、先輩に惹かれてはいることは否定出来ないが、彼女の容姿がもしも十人並みのものであっても――いや、人の平均を下回るものであったとしても、自分はやはり彼女に手を差し伸べようと言う気になったのではないだろうか。
「そうか…。そうか…!」
むくり、と彼女は身を起こした。
そして、立ち上がり、座ったままの僕を見下ろした。
「また、一緒に学校生活を送ることが出来るんだな…!」
腕組みをして偉そうに振る舞う彼女には、先ほどまでの諦観は見当たらない。
最早やや懐かしく感じる駅の風景も、遠くなっていく。
それでも、どこか、甘く、切ない思いが胸を去来するのは、否定できない事実だった。
きっと、目の前の人は、布団から、自分へと、くっつく先を変えただけなのだろうが。
そして、それは見ようによっては、緩慢なる死を甘受しようとする姿よりもずっと見苦しいものなのであろうが。
彼女の言葉に喜びを感じている自分がいることもまた、事実だった。
残念ながら、彼女がいない一年もの間、変な病を患っていたらしい僕にとっては、好ましいものであるのだと。
認めざるを得なかった。これは酷く、不本意なことではあるのだけれども。
続かない。




