第一話_ツクモガミ
○ ツクモガミ ○
付喪神――その言葉にわたしは、憶えがあった。やはりわたしはそれを知っていた。わたしの知識の中にその言葉はあった。
付喪神というのは、いわゆる妖怪の一種だ。長い間、大切に使われてきた物が人知れず意思を宿し、やがては自律して活動するようになる。いわゆる妖怪変化。中でも鏡の付喪神である「雲外鏡」や瀬戸物の「瀬戸大将」あたりはよく知られた者たちだろう。
その付喪神と、彼女はわたしが同類だと言う。
人の姿をしているわたしを、彼女は付喪神だと言う。
「少し、齟齬があるようだね」
首を傾げるわたしを大人しく笑って彼女はそれを話してくれた。
◆
長い間大切に使われ続けた物にはやがて魂が宿る。
そうして魂を宿した存在のことを付喪神と呼ぶ。
人間にとっての付喪神は、知識としての付喪神はそうやって、妖怪変化の一つとして捉えられる。だが実際のところは、それに近い部分はあるが、正確ではない。何故そんなことが言えるのかというと――私も、きみと同じだからだよ。そう、付喪神だ。
私もきみ同様他人に気づかされ、知恵を授けられたに過ぎないのだが――私のことは別にいいだろう。本題に戻ろうか。
妖怪変化に近いが、妖怪変化ではない。では付喪神とはいったい何なのか――あぁ、すまない。勿体ぶっても始まらないね。
付喪神というのはね、端的に言ってしまうと「感情」だよ。だから根源的には、人間に近しい存在ということになる。
そもそも人間というものもね、生まれついての「人間」というわけではないんだ。それが人間であるためには、その者へと向けられる周囲からの感情が不可欠だ。愛であり喜びであり悲しみであり怒りであり……そういった感情を注がれ、学ぶことで初めて「人間」となる。何者にも触れず何一つの感情も学ばずに育ったモノはだから、人間とは呼べない。それは人の形をしているだけの「物」とこそ呼ばれるべきだろうね。
その話はね、しかし人間に限った話ではないよ。物に対しても同じようなことが言える。何者にも触れず何一つの感情も向けられなかったのであれば、それはいつまでもただの「物」として存在し続けるだけだ。長い時間を壊されることなく大切に扱われる――それ自体は大変結構な話だろうが、それだけで自ずと、そこに自我など宿ろうはずもない。物は所詮、物なのだよ。
しかし多くの人間に触れ、大いに感情を注がれ続けた物はどうだろうか。考えるまでもない――人間が人間になるように、物もまたただの物ではなくなる。そのときにこそ付喪神は生まれるのだよ。
付喪神はまた「九十九神」とも言う。それは付喪神を生み出す「想いの数」による。百に次ぐ数、ももに次ぐ、次ぐもも、つくも――即ち「九十九」ということさ。
きみという存在も勿論、それだけの数の想いにより生まれている。
人間より感情を受けて生まれたからこそ付喪神には自我がある。人間の姿をし、彼らが備えている常識もまた持ち合わせている。これにはきみも心当たりがあるはずだ。しかし人間と異なり自分が何者であるかに関する個人の記憶を所有しない。そして大抵の人間の瞳には映らず、己の存在を認められ得ない。所詮、付喪神は感情の集合体が一人歩きしているに過ぎないからね。きみはこれにも心当たりがあるだろう。
かつてここを訪れた者に、自分を記憶を失い、それを取り戻せないまま死んだ人間であると思い込んでいる者がいた。似ているよ、確かに霊魂とも、付喪神はね。だがやはり正確ではない。付喪神はあくまで「感情」の集合体だ。そこに両者の決定的な違いがある。
感情――そう、きみも知っているように、例えば怒りや悲しみなど、感情には「名」があるね。しかしそれらには元々名などなかった。人間の胸の内にある「何か」でしかなかった。それが当然に衆知のものになったのは、どこの誰の仕業か知れないが、名を与えられたからだ。つまりだね、感情は名前を得たことによってその存在がこの世に証明されているというわけさ。
さて、付喪神は感情だ。人間と同じ姿を持ちながら、存在を認められていない名もなき感情だ。ということは、だ。名前を得たとき、付喪神には何が起きるだろうか。答えはこうだ――その者の存在は正式にこの世のものとなる。肉体を得、人間として現世に誕生することになる。
きみにこの話をした理由も、そろそろわかってくれただろう。勿論自分のことを知ってもらいたかったのもあるが、きみの人生はまだ始まってもいない、これから始まるのだと気づいて欲しかったのだよ。
あとは私の、導き手としての役目を果たすため、ここまでの話を踏まえて言おう。
旅に出なさい。旅に出て、人間に出会うのだ。この世には決して多くはないが、その資格を、力を持った人間がいる。自分を見つめることができる人間に出会うのだよ。そして名前をもらい、人間として本物の生を謳歌しなさい。
さぁ――これで、私の話は終わりにしよう。
◆