第一話_オンジン
○ オンジン ○
「ほら朝だ、起きるんだよ」
手を鳴らす音とともに語りかけられた、女のしゃがれた声でわたしは目を覚ました。
正確には「今度こそ本当に」といったところだろうか。飛び起きたわたしの体は煮え湯の中になどなく、周囲には鍋もなければ竈もない。どうやらあれは夢だったらしい。わたしがいるのは囲炉裏さえない小さな板の間だった。
――そう。夢だったの。
その事実にまずは一安心する。しかしまだ、気を抜くわけにはいかない。
体を起こしたわたしの前には、こちらを射抜くように見つめる鋭い視線がある。その主は襤褸の装束に身を包んだ女。声の印象に反して、若い女だ。それが腕など組んで、胡坐をかいて、わたしを覗き込むようにしているのだった。
――山姥?
そんなわたしの呟きに答えるように、彼女は再び口を開く。
「……山姥、か。命の恩人に随分な言い様じゃないか」
やれやれと、溜め息交じりに言った。
「恩人?」
「そうだね、どこから話せばいいものか」
彼女はおもむろに腰を上げ、すこし離れた所に座り直した。
自然とその様子を目で追ったわたしはそこでふと、先程までと目に映る景色が違うことに気がついた。闇の中に明かりが差した、と言えばいいだろうか。今は家の中がよく見渡せる。物のない、小ざっぱりした家だというのがわたしの率直な感想だった。
「私たちには道具を扱うことはできないし、触れることもできないからね」
わたしの視線に気づいた彼女が言った。
「どうして?」
「追々わかるよ」
咳払いがあった。どうやら余計な茶々を入れてくれるなという意味らしかった。
「ここはね、三途の川さ」
彼女は言った。
「三途の川?」
「尤も死者の霊魂が三文払って舟に乗り、三文払って極楽へと運んでもらう船着き場とは違う。ここは人ならざる者のために開かれた、もう一つの三途の川。光明はない、金も要らない、地獄に向かって延々と歩き続けるだけの『深瀬の闇道』さ。
先程きみが見た明かり――あれは黄泉灯篭といって、魂を彼ノ岸へと導く存在だ。この地に踏み込んだ者たちへと煌めき、黄泉路へと誘い込む。あれに魅入られたら、もうおしまいだ。決して追いつくことのできない明かりに翻弄されている内に、気づけば閻魔の御前。私はあれに目をつけられたきみを引き留め、匿ったという次第さ」
「それで、命の恩人?」
「その通り。私がいなければ今頃、きみは黄泉の国の者に成り下がっていた。自分のことなど何一つ知らないまま――ね。生まれたばかりなのだろう、きみは? だからあれについて行こうとしたのだろう?」
淡々と、訳知り顔で話す彼女の瞳の奥に、不意に鋭い光が宿ったようにわたしは感じた。
「わたしのことを知っているの?」
「きみのことは知らない。だが、きみのような者のことはよく知っている」
「わたしのような……? よくわからない」
「なら、つくづくここに来た甲斐があったというものだよ。この場所でそういった者たちに道を示すのが、私の役目なのだからね」
ふふ、と彼女は小さく笑う。わたしの無知を嘲るような嫌味な感じはしない、上品な笑い方だ。勿体ぶっているわけではなく、そこにはどことなく安堵の気持ちも感じられる。その証拠に、彼女が穏やかな笑みとともに続けて言うことには、
「余計な知恵をつける前に会えて、本当によかった」
この人はどうして、そんな言い方をするのだろう? そんな顔をするのだろう? 今ここで出会ったばかりのわたしを相手に、できるのだろう? 考えはするけれど、そればかりは、わたしには知る由もないことだ。
でも――そんな態度を取られたら、彼女の前では正直に振る舞わなければならないと、自然とそんな気持ちになる。大切な話をするつもりなのだろう、居住まいを正した彼女に合わせて、わたしも姿勢を正す。
それを微笑ましく眺めた彼女は、静かに口を開いた。
よく聞きなさい、付喪神――と。