第一話_カマユデノケイ
○ カマユデノケイ ○
自我というものも知識というものもあるのに、自分自身に関する記憶の一切が欠如している――そんなわたしには、潜在的に恐ろしいと思うものがあった。かの天下人豊臣秀吉が、盗賊石川五右衛門とその長子を処刑するにあたって用いた、「釜茹で」という刑罰だ。
生きたまま釜で茹でられたら――人間、どうなってしまうのだろう。
一瞬で、命を失ってしまうだろうか。
だとしたらまだ、いい。それは苦しむ暇もないということだから。
わたしが恐れているのはだから、要は、そうではない場合だ。
全身大火傷。しかし命の灯火はまだ消えていない。激しい痛みに襲われながらその者は、残る意識で思うのだ。痛い。熱い。苦しい。そして願う――早く死にたい、と。
死ぬことを願い、手の届く位置にそれを見据えておきながら、それが叶わない。そんな惨い生き方があるだろうか。それを思えばこそ、わたしはその釜茹でという残虐を特に恐れている。そしてその血も涙もない極悪非道が目前に迫っているというのもまた、何物にも代え難く恐ろしい話ではあった。
鍋――だ。
目を開けたわたしは一見してその存在に気がついた。釜ではなく鍋であるわけだけれど、その程度の差異にはこの際、目を瞑る。一言で鍋といっても、そこいらに転がっているような雪平や寸胴では断じてない。例えば杜氏が使うような、大人五人ばかりが手を繋いだくらいの周が優にある鍋だ。持ち手もないものをどうやってそこまで運んだのかは知れないけれど、兎に角、大きい鍋。それがまた、これまた大きな竈に置かれて燃え盛る炎から熱烈歓迎を受けている。ぐつぐつと小気味よい音を立てている。わたしはそれを、一段高い場所から俯瞰しているのだった。
赤く煮え滾る鍋の中には、至る所に堆く積まれたしゃれこうべが覗く。わたしより先に、この熱過ぎる歓待を受けた者たちの成れの果てだろう。食われたのだと、わたしは直感的に思った。食せる部分が食われ、そうでない部分がそのまま残されているのだ。果たして煮殺されてから食われたか。或いは食い殺されてから煮られたか。でなければ――煮られながら、食われながら、殺されたか。何にせよ安らかな死は与えられなかっただろう。お気の毒にと、心の中で合掌せずにはいられない。
何故「心の中で」かというと、それはずばり、わたしの体の自由が奪われているからだ。気を失っている間に、どうやら簀巻きにされたわたしは何者か――恐らくわたしを背後から襲った女の脇に抱えられている。それは言い換えて、生殺与奪の全権をこの者に握られているという意味でもあった。
この者は――恐らく躊躇などしないだろう。わたしの目に映る現状が、鍋の中の髑髏の数がそれを物語っている。だからもう間もなく、わたしをそこへと放り込むだろう。その証拠に自分の体が今、逃げ出したい意思に反して鍋へと傾くのを感じた。
心なしか勢いを増した真っ赤な猛り――その中にふと、髑髏とは異なる白が目に留まった。しゃれこうべより二回りほど大きなそれは紛れもない、わたしの夜道を先導してくれた者の姿であった。一足先に食人鬼の餌食となり、ぷかぷかと鍋の縁を揺蕩うばかりとなったそれを、わたしは見なかったことにした。
直後、体が宙に投げ出されるのを感じた。浮遊や飛行というよりは、単純な落下。何一つの感慨もなく放られたわたしは、頭から鍋へと向かっていく。
あぁ、これなら――わたしは思った。これならきっと、苦しむ時間はなさそうだ。
不思議と心が穏やかであるのは、わたし自身がそれを受け入れているからだ。どうしたことか、わたしは知っている。ここで自分が、命を失うことを知っている。最初からそういう前提の下でここを訪れていたような、奇妙な既知感さえ覚えている。
まだこの世界で何もしていない。まだ自分自身の何も知らない。
未練は尽きないけれど――既に抵抗もできない身だ。わたしは一直線に、呪われた大鍋へと迎えられたのだった。