第一話_ヨミノクチ
○ ヨミノクチ ○
一人よりは二人の方が、当然、道中は心強い。たとえそれが言葉の通じる相手だろうがそうでなかろうが、その存在感――一緒にいる者の有無の差というものはやはり大きい。
勿論、欲を言えばきちんと会話が成立する相方が欲しかったところではあるけれど、欲張りが損をするのはいつの時代もお約束だ。これも縁だから――と別段こだわることもせず、わたしはむしろ楽観的でさえあった。そう思えばこそ正体不明の卵との道中もなかなか楽しいものだった。
べとべとさんの歩みには、迷いがない。一歩一歩で右に、左に体を揺らしながら、遅くも速くもない歩調でわたしの前を歩き続ける。気のせいではなければ何度も同じ道を通っている。ただ通る度に曲がる方向であったり、進む方向が違う。どこへ向かっているのか知れないけれど、どうやら目的地というものはあるようだ。それを思えば、或いはこの卵は最初からわたしを呼ぶつもりで来たのかもしれなかった。
でもいったい、どれだけ歩けばいいのだろう。
気づけば雲が晴れ、真円を描く白銀が彼方に南中している。遠く澄み渡る空に星流の彩りは遙か。真夜中の里わにやわらかい光が降り注ぐ。虫らは鈴めき声高らかに鳴き、草木には露光る。透き通る夜気に、人の身であれば湿れる土の匂いや花の香り、肌寒さをも感じられるに違いない。この夜の風景は実に幻想的かつ圧倒的である。
そうした言葉たちはわたしの、いったいどこから湧いてくるのだろう――歩きながら、考える。考えはするけれど、やはり答えは出ない。だからこそ今はべとべとさんについて歩いているのだけれど。
そのべとべとさんが、不意に足を止めた。何故そうしたかって、そこがどうやら、べとべとさんの目的地だからだ。
わたしの前、で足を止めたべとべとさんの前にはいつ現れたのやら、明かりも点けずに一軒の小さな家が建っている。
山奥で突如出くわした一軒家――それもお化けが案内した家だ、人間が住まうような普通の家ではないだろう。人ならざる者の住処とこそ考えるべきだ。ただその古びた物寂しい佇まいを見る限り、あまりよい印象は受けない。山姥でも待ち受けていそうな気さえする。
「べーとべとー」
そんな薄気味悪い家の中へと、べとべとさんは足で器用に戸を開けて堂々と入っていく。ここが自分の家なのだろうか――随分と慣れた様子にもその姿は映る。
先導が躊躇なく入っていくのだ、そうなったら当然、わたしだって行くしかない。その足を鈍らせるものがあるとすれば、それは開け放たれたこの家の内から漂ってくる、言い様のない感覚だ。気味が悪いとか恐怖だとか、そういった感覚は勿論ある。だがその一方で不思議な心地よさも覚えている。一見対立するような価値観が一つ胸の中に同居していることにわたしは、少なからざる脅威を感じているのだ。
とはいえこんな所に一人で残ったところで、何ができるわけでもない。ここまで来てその選択をするくらいなら、最初から何もしなかった方がよかったということになってしまう。それは他でもない、自分自身の意思決定に対する不履行だ。
よし、行こう――躊躇う自分を理詰めて打ち負かし、わたしは家に踏み込んだ。そうとも。わたしには、わたし自身の選択に対する責任がある。
家の中は、外見に反して広いつくりになっている――らしい。「らしい」というのは入ったはいいけれど、家の内部がまったく見えないことによる。月明かりのおかげで外見こそ家と知れたものの、その内は右も左も果てのわからない、本物の闇だったのだ。すぐそこにいたはずのべとべとさんの姿は既に見えない。背後にあったはずの戸口もなくなっており、わたしは前後も不覚の闇の中にぽつんと一人、自分が取り残されていることに気がついた。
「誰か、いませんか?」
呼びかけてみるも答えはなく、代わりに遠く――家の中というにはあまりに離れた距離に、いくつかの明かりが灯った。そこに何者かの存在を感じたわたしは、
「おーい」
手を振りつつもう一度、呼びかける。遠い明かりはそれに応えるよう、ちらちらと揺らめいた。間違いない、いつの間にかそこまで歩みを進めたべとべとさんか、或いはこの家に入るにあたってアイツが声をかけた何者か。何にせよあの明かりの下には誰かがおり、その者にはわたしの声が聞こえていると考えてよさそうだ。
あぁ、あそこに行けば――。
安堵を覚えたのもしかし束の間。灯された明かりは間もなく、無情にも遠ざかっていく。わたしが呑気に立ち止まってなどいるから、気を悪くしてしまったのだろうか。それとも最初からわたしに気づいてなどいなかったのだろうか――考えている暇はない。そんな悠長なことをしている暇があるなら一刻も早く、追いかけるべきだ。
いや、追いかけなければならない――。
闇の中を、無茶を承知で駆け出すわたし。しかし実際には、できていない。駆け出さんとするわたしの手を、そこで背後から掴む者があったのだ。
「――」
思わずよろけたわたしに対する、それはまさに一瞬の早業だった。声をあげる暇すら与えられることなく背後から抱きすくめられ、口を塞がれ、わたしはいる。続けていったい何が起きたものか、かろうじて理解に務めるわたしの耳元で若くない、しゃがれた女の、押し殺したような声がこう言った。
「動くな。そして声を出すな」
内容自体は至ってありきたりな、脅しの文句。刃物でも突きつけなければ子どもだって驚かないだろう、陳腐な脅迫だ。ただ言い訳にはなるけれど、この真っ暗闇の中で不意を衝かれ――状況が状況ではあった。だから「動くな」も「声を出すな」も、言われるまでもないことだった。
そうとも、言われるまでもない。
わたしはその瞬間に、意識を失っていた。