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狂ったように叫んでいた女が静かになったのを確認すると、ネロはそれまでの表情をガラリと変え、身体を半回転し地面を蹴る。
「クリムッ」
そして、最愛の人の名を呼びながら、その身体を思い切り抱き締めた。
「ネ、ネロ……痛いの」
クリムはそんなネロに眉を下げ思わず苦笑してしまったが、ネロはクリムの訴えを受け入れず、むしろより強い力でクリムを抱き締めるのだった。そこに、ネロの言葉には表せない思いがすべて込められている。
「……ってこんなことしてる場合じゃないな、治療……っ、ビアンコ、急いでロレーナ呼んで!」
暫くそのままでいたのだが、唐突に我にかえるとネロは慌てたように言った。クリムは女にナイフで刺され負傷している。その治療をしなければ、と思ったのだ。クリムよりも、自分の方がよっぽど重傷な筈なのだが。
「ロレーナさんを呼ぶのは構いませんが、ずっとここにいるつもりですか、アホ主。先ずは帰るべきじゃないでしょうか」
ビアンコは呆れたように言う。その頭の中に『帰る』という選択肢が全くないことを見抜いていたのだ。
「あ、ああ、そうだな。じゃあビアンコ、クリムとブランテを連れて家に帰って、それから直ぐにロレーナを呼んでくれ。俺はコイツらをアドルフォに押し付けてくるから……」
「帰れ!」
休むつもりなど微塵もないネロに、ビアンコは思わず乱暴に叫んでネロとクリムを自宅へ強制転送した。呆れてものも言えない。魔力で補強しているだけで、本来ならば立つことすらままならないことを忘れているのだろうか、と頭を抱えたくなった。
「ありゃあ、ロレーナを呼ぶついでにスメールチも呼んだ方がいいだろうな」
「あれ? 主についていかなかったんですか?」
「たまには二人きりにさせてやろうと思ってな。ネロに憑いてるってことはビアンコちゃんに憑いてるでもイコールなんだよ、俺は」
さ、コイツら運ぼうぜ。とブランテは笑って見せた。もっとも、ブランテは物理的に降れることはできないので運ぶことは全てビアンコの仕事になってしまうのだが。
「……じゃあ、アドルフォさんに説明をお願いします」
「任しとけって」
そして二人は、地面に倒れた一味を連れて騎士団基地へと向かうのだった。
家へ強制転送された二人は顔を見合わせると思わず笑った。
「どうしようか……血は一応止まってるみたいだけど」
「俺に治療魔法が使えたら良かったのにな」とネロが言うと、クリムは「私も使えなかったからお互い様なの」なんて苦笑した。それから、突っ立ってるのもなんなのでソファーに座って待っていようと思い至る。
「……あれ?」
ソファーに一歩踏み出すと、ネロの身体はぐらりと傾いた。そしてそのままクリムに寄り掛かってしまう。
「大丈夫なの?」
「ああ、うん。ごめん、直ぐにどくから」
口ではそんなことを言うが、ネロの身体は一向に動こうとしない。それどころか、クリムに預けている体重がどんどん増していった。
「……っ、おかしい、な……」
ネロの視界か、或いは脳はぐらぐらと揺れている。最早、上下左右の正しい認識は出来ない。目がかすみ、意識があるのか無いのかもあやふやな状態だった。
そんなネロをソファーに寝かせてやりたかったのだが、クリム一人の力ではとてもネロを運べそうになかった。それどころか、この場から一歩も動くことができない。成人男性の体重がまるまるかかっているのだ。倒れてしまっていないだけ良かったといえる。
「ロレーナさん連れてきましたよ、主……って、何クリムさんを襲ってるんですか」
「ああ、ビアンコ。良かったの」
影を使って転送し、タイミングよく帰ってきたビアンコにクリムは安堵のため息をついた。対照的にビアンコは心の底から呆れたようなため息をついているのだが、クリムはそれを一切無視して「私より先にネロの治療をお願いしたいの」と言うのだった。