第8章
名古屋から特急電車で二時間余り、そこからバスで三十分ほど乗って、週刊誌に掲載されていた信州の高原のホテルに着いた。
思ったほど大きなホテルではなく、人目につきやすいかなと少し心配したが、フロントでのチェックインには何のトラブルもなく、他の人からじろじろ見られるようなこともなかった。
ボーイが荷物をカートに積んでエレベーターに案内する。二人きりになり気まずかったがボーイは淡々と「美咲」を部屋まで案内し、荷物を部屋に運び入れてから電気のスイッチの使い方やフロントの電話番号などを事務的に説明し、「ごゆっくりおくつろぎ下さい」と笑顔で言って部屋を出て行った。
ようやく一人となった「美咲」は、早速カーテンを開けてみる。窓の外には向こうの高い山から草原が連なり、澄み切った青空の下に広がる眩しいほど鮮やかな緑の絨毯が広がっていて、「美咲」は乙女ちっくな感動を覚えた。
そして振り返ると壁に姿見が掛っていて、そこには美しい女性が映っている。
不思議なことに、昨日のことなど遠い昔のことのようにしか思えない。昨日と今日とは完全に切り離されていて、今の自分の方が自然に思える。そして、これから新しい人生がスタートしていくのかもしれないと思った。
達也はベッドに腰掛けて、ドレッサーの鏡に写し出された自身の姿に見入る。
カーディガンを脱いで花柄のノースリーブのワンピース姿となってすらりとした腕を出すと、女らしさが余計に強調された。新幹線の中での興奮を思い出して、少しためらいながらもスカートの裾をまくってショーツを見せると、前面の布は湿っていて、薄いナイロン生地の向こうに、不自然な塊が浮かび上がっている。
ワンピースをずらし胸を肌蹴てみると、可愛らしいブラジャーが顔を覗かす。
「いけない、いけない」
しかし達也にはもう止められない。
今までにない快感を味わいながら、自分の人生をリセットしたような気がした。そして甘い余韻に浸りながら、昨日からの疲れがどっと出たのか、そのままベッドの上で寝入ってしまったようだった。
夢の中で達也は一人の女子高生だった。仲の良い女友達がいて、たわいのないおしゃべりに興じている。彼氏の話題であるようだ。
達也にも彼氏がいて、それは達也本人だった。髪を茶色に染めたヤンきーの達也という彼氏に、女友達は「最低―」とか言う。女子高生の達也も、女の子が言う通り彼氏として達也は最低だなと思っている。
夢の中の達也という彼氏は、すでに達也自身ではなくなっていて、達也の本体はもう女子高生に移り変っている。
達也という彼氏は女友達の間でけちょんけちょんにけなされ、散々な男と見られていて、彼氏は仕方なく夢から消え去るしかなかった。
目が覚めると部屋の中は暗く、窓の外は夕暮れに染まり、草原は無彩色の神秘的な奥行きへと変わっていた。
達也は起き上がったが、昨日からあまりにもくるくると色々なことが起きていて、自分がどこにいるのか、何をしているのかもしばらく思い出せなかった。
ふと自分の体を見ると花柄のワンピースに包まれていて、胸のあたりが締め付けられて少し息苦しい。達也はようやく状況を思い出し、立ち上がってカーテンを閉めて部屋の明かりを付けてからテレビのスイッチを入れた。
丁度ニュースが始まるところで、達也は自分のことが報じられないか食い入るように見ていたが、全国ニュースでは報道されず、この地域のローカルニュースでも取り上げられていなかった。
きっと自分のいた地域では大きく報道されているのだろうが、とりあえずここまでそのニュースは届いていないようだと安心した。
達也はワンピースと下着を脱ぎ、ウィッグを外してからバスルームに入ってシャワーを浴びた。
ファンデーションを丁寧に流し落してスッピンとなり鏡をのぞいて見ると元の達也に戻り、少し残念な気になった。
しかしそれから丹念に全身を洗って、バスタオルを胸から巻きつけて鏡台の前に座り、ウィッグを被ってブラシで丁寧にとくと、再び美しい乙女が浮かび上がってくる。
達也は旅行バッグから真新しい下着を取り出し身に付けた。薄いピンクのブラジャーとお揃いのショーツ、そしてキャミソールを頭からかぶり、再び鏡の前に座る。可愛らしい下着のせいで、さっきより幼く見える女性が写し出されていた。
買ってきた化粧品でメイクを始める。
ショッピングセンターの化粧品売り場を物色しているとき、店員にメイクのお試しを勧められて、さすがにそれは断ったが、そのときにこう言われた。
「もう少しナチュラルに仕上げた方がよろしいかもしれませんよ、もっとお若くみえるから」
そのアドバイスを思い出し、買ってきたメイクの本を見ながら丁寧に仕上げて行った。最後に薄いピンクのルージュを引くと、確かにさっきより何歳かは年下の、可愛い女性が出来上がった。
達也はワンピースに皺がないかを確かめてから再び着て、新しいストッキングを履いた。
鏡に全身を写し出してどこにも問題がないのを確認すると、達也は自分のこの姿を一人だけで終わらせるのも惜しいような気がして、部屋を出てレストランへと向かった。
受付で食事券を渡すと「お一人ですか」と尋ねられたので軽く頷くと、ボーイが窓際の席に案内してくれて椅子を引いてくれる。
達也はスカートの裾を手で押さえて座る。女性らしい身のこなしが自然に出来ていることに、自分でも驚いた。
周囲を見回してみると、確かに週刊誌に書かれていた通り、女性一人だけのテーブルもいくつか見かけた。達也はグラスでワインも注文し、フレンチのディナーを口に運ぶ。
夕方までぐっすりと眠っていたせいで、部屋に戻ってからも眠気は消えていて、なかなかベッドに入る気にならなかった。
テレビを見て何度も流れるニュースを確認したが、やはり自分のことは報道されていない。フロントまで新聞を読みに行こうかと思ったが、それは目に付きそうだと考えて止めた。
達也はレストランの横にバーがあったのを思い出し、飲みに行こうかと思った。本当ならば出来るだけ人目に付かないようにするべきなのだろうが、夕食時に飲んだワインのせいもあって、達也の気分は弾んでいた。
バーの外からそっと中をうかがい、一人でカウンターの端っこで飲んでいる女性を見つけて安心して、その女性とは反対側の端っこに座る。
バーテンダーが微笑みながらおしぼりとお冷を目の前に置き、メニューを広げる。達也は「とりあえずビール」と注文しそうになったが、すんでのところで踏みとどまり、少し考えてから女性の好みそうなトロピカルなカクテルを選び注文した。
後ろのテーブル席に男女のペアが何組かいるが、静かな雰囲気で、素顔の達也であるならまず馴染めないはずだった。
達也が今まで飲んでいた店とは、悪仲間と行く居酒屋かカラオケボックス、ちゃらちゃらしたガールフレンドと行く音量を最大限に上げたクラブぐらいだ。それが今こんな落ち着いた雰囲気に不思議と染まってしまっている。
バーテンダーがカクテルを運んで来て目の前に置くと、「学生さんですか」と声をかけてきたので軽く首を振って「会社員です」と小声で答えた。
「失礼しました。お若く見えるので二十歳前の学生さんかなと思いまして、一応若く見えるお客様にはお確かめさせていただいておりまして、大変失礼いたしました」
と笑顔で言う。
達也はちょっとはにかんだように笑った。あの店員の言っていたことはお世辞じゃなくて本当だったのか。
達也は放っていて欲しかったのだが、バーテンダーが話しかけてくる。
「どちらからお越しですか? 」
「ええ」
達也はあいまいに返事する。
「この近くですと、植物園に行ってみると良いですよ」
バーテンダーは、尚も話かけてくる。
ウザイ男とはこういうやつなのだと、達也は初めて分かったような気がした。
達也はカクテル一杯でバーを出て、部屋に戻る。
あれだけ眠ったのに、余程疲れていたのか、都合良く眠気が訪れてきた。
達也はウィッグを丁寧にはずし、ワンピースを脱いでハンガーに掛け、キャミソールも取って備え付けの寝巻を付けてベッドに入り込む。
ブラジャーとショーツは取らなかった。目が覚めた時も女性でいられるようにと思いながら、達也はすぐに眠りに入り、今度は夢も見なかった。
こうして逃亡二日目の夜は、穏やかに過ぎて行ったのだった。