第4章
「おはようお父さん、今日から出張だったわよね」
「ああ明後日までね。でも近所が物騒なこんな時に、家を空けたくないんだけどね」
母親と父親の会話が聞こえてきた。
「でも大丈夫よ、子供たちもいるし。それに新聞では、単なる窃盗犯みたいよ。ちゃんとしていればそんなに刑期も長くないはずなのに、どうしてかしらね」
新聞で既に報じられているのかと驚いたが、考えてみると、やっぱり大変なことをしでかしてしまったのだと、達也は改めて思った。
「だけど逆に追い詰められたから凶悪になるということもあるから、特に和枝には十分注意するよう言っておきなさい」
「あの子は由紀ちゃんと一緒に行き帰りしているから大丈夫だと思うわ」
兄が起き出し、階段を下りて行く音が聞こえた。
「おはよう」
「俊夫、今日の試験大丈夫なの、昨日早く寝てしまったみたいだけれども」
「大丈夫、大丈夫。今日の試験は楽勝だ。試験終わってからみんなと飲み会に行くから、今日は晩ごはんいらないからね」
「はいはい」
妹も起き出し、皆がそろって朝食の席に着いた様だ。
「おかあさん、今日予備校の補習があって、いつもより遅くなるから」
「由紀ちゃんも一緒?」
「由紀ちゃんは前の模試が良かったから無いってさ」
「もう困った子ね」
「だって、学校でまだ習っていなかった所だもん」
「でも由紀ちゃんはできたんでしょ?」
「由紀ちゃんは特別だもん」
和枝と呼ばれた娘は、一向に気をかけていない様子だ。
「お母さんも、今日お得意さんの都合で遅くなってしまうんだけれども……。和枝ちゃん一人で帰って来させるのも心配だし」
「大丈夫よ。逃げた犯人が、まだこんな所にウロウロしているわけないし、お巡りさんがたくさんいるならば、かえってその方が安全じゃない」
確かにその通りかもしれないが、逃げた犯人はこんな所でウロウロしている。
「そうだ、お父さんもお兄ちゃんも晩ごはんいらないから、和枝ちゃん、駅前で待ち合わせして、外食してから一緒に帰りましょう」
「やったあ! じゃあイタリアーノのパスタね。デザートもとっていい?」
「はいはい」
「じゃあ八時半に駅の改札口でね」
家族全員があわただしく朝食をとって出かけて行った。
念のために一時間ほど天井裏に潜んでいた達也は、天井裏から押入れに降り、音を立てないように慎重に押入れのふすまを開けて部屋に降り立ち、階段を下りてリビングに向かった。
リビングの窓は遮光カーテンが締め切りになっていて薄暗かったが、外から見られる恐れがないのでラッキーだった。
達也はリビングに誰もいないことを確かめると、我慢していたトイレに急いで入って用をたした。
昨日侵入する前に確認しておいたのだが、トイレの窓を少し開けて外の様子を見ると、ブロック塀を隔てた隣家の庭に大きな木が何本か植わっていて、隣家から気配を察せられる心配はなさそうだった。
食卓の会話では、今日は夜の九時頃まで誰も帰って来ないようだから、ゆっくりと昼間の時間を過ごすことできそうだ。とりあえずくつろいでから、ゆっくりとその後のことを考えようと、達也は考えた。
達也はトイレの横のバスルームを覗き込み、長いこと湯船につかっていないこと思い出した。
こういう時こそ気持に余裕を持たないといけない。幸いに電気温水器だから、お湯を出しても外には気付かれまい。
達也はバスタブに湯を貯めて服を脱ぎ捨て、湯船に浸かってゆっくりとくつろいだ。
髪も洗い、洗面台にあった髭剃りでここしばらくの間に伸びていた無精ひげをきれいに剃り落とした。さっぱりとして風呂から上がると、バスタオルを腰に巻きつけてリビングに戻ってから、元の服を着ようとした。
しかしいずれ逃走するにしても、今の恰好ではなく着替えた方が良いだろうと考え、今のうちに何か身に合う服がないか探しておこうと、二階の息子の部屋に向かった。
クローゼットに吊るされた衣服の中からちょっとお洒落なジャケットでもないかと探してみたが、ハンガーに掛ったジャケットはどれも大きすぎてブカブカで、これではかえって目を引いてしまう。
どうやらここの兄は、身長百八十センチ近い体格をしているようだ。百六十センチばかりしかない達也にとってはどれも大き過ぎる。
仕方なしに一階の和室に行き、洋服ダンスからこの家の父親のスーツを取り出して着てみた。だがここの父親も息子に負けず劣らずの体格で、身に合う衣服は見つからなかった。
ならば、女ものであっても、カジュアルなトレーナー位ならば目立たないだろうと思って、二階の娘の部屋に上がった。
娘の部屋はピンクのカバーが掛ったベッドがあり、白いクローゼットとチェストが六畳の部屋にデンと構えている、いかにも女子高生といった部屋だった。
達也はチェストのひきだしを下から順に開けていき、適当な衣類がないか探して、無難なトレーナーを取り出して身につけ、部屋にあった壁鏡に全身を映してみた。
風呂上がりのさっぱりとした表情で中性的なデザインのトレーナーを着こみ、腰にバスタオルを巻きつけた自分の姿がなんとなく可笑しく思えた。
ジーンズも取り出して穿いてみると、ぴったりと身に合っていて、鏡に映った自分の姿を見ると、服装だけでかなり印象が変わるなと思った。
兄の部屋にあった帽子とサングラスを着けて一階の和室に戻ってドレッサーで自分の姿を改めて見て、これならば気付かれないかもしれない。眉を描いたりしてもう少し変装すれば、ばれないのではないだろうかと思い始めた。
達也は帽子とサングラスを外し、母親のドレッサーに向かって眉をライナーで引いて形を整えると、更に違った表情になる。パウダーを使って少し肌を白くすると、益々別人の顔になってくる。
自分の顔がどんどん変わっていくのに驚くと同時に、面白くなって来た。女の子が化粧をする時の気分はこんな風なのだろうか。
しかし考えてみれば、帽子にサングラスなんて、いかにも変装していると言わんばかりだ。やっぱり無理かと諦めかけた。
他に何か変装に役に立つ物が無いかと見回すと、ドレッサーの横に、多くのウィッグがかけられているのを発見した。
この家の母親は、どうやら美容師の様である。そういえば、台の上に多くの鋏が差し込まれている。「お客さんがどうのこうの」とも言っていた。このウィッグはきっとヘアメイクの練習用なのだろう。
達也はその中からストレートの黒髪のウィッグを手に持ち、何気なく被ってみた。そして鏡を見てみると、誰がどう見ても達也とは分からない、全くの別人が鏡に写っていた。これならばいけるかも、と達也はある計画を思いついた。
何日か潜んで警官をやり過ごし、警戒の手が緩んだ頃を見計らって逃走する計画だったが、やはり、早く遠くへ逃げたいのは山々だ。
達也はウィッグを着けたまま押入れを開け、奥に押し込められていた衣装ケースの中から、ここの母親ならもう着ることのないだろう若いOL風のブラウンのスーツと白いブラウスを取り出し、娘のトレーナーとジーンズを脱いでそれに着替えてみると、ぴったりと体に合っていた。
恐る恐る全身を写し出してみると、どう見ても女性にしか見えない達也の姿が写っていた。達也はびっくりした。そして達也は、この変装で中央突破することを決意した。