第30章
達也が地下鉄に乗ろうとしていた時に、久々に奈緒美からのメールが入っていた。
「ちょー驚きなんだけど、奈緒美の所になんと刑事さん(本物だよ)が来て、亜由美の携帯がなんか犯罪に使われたかもしれないって言ってたから、亜由美に話を聞きに行くかもよ。びっくりだね。亜由美、変な人から携帯もらったんじゃないの? それとは関係ないけど冬休みには会おうね」
沙耶との楽しい旅行の余韻から、一気に現実に引き戻された。どこから足が付いたのだろうか。達也は急いで携帯の電源を切った。
平穏な生活に馴染んでしまい、逃走していることすら忘れていた。しかしやっぱり来たかという思いも同時に起こった。そんなに長続きするはずがないとも心の何処かでは思っていた。でももっとこの生活を続けたい。
奈緒美がメールを送れるくらいだから、警察はまだ亜由美が達也本人だとまでは突き止めていないはずだ。だが、ここに事情を聞きに来るのは間違いない。
達也は地下鉄に乗るのをやめ、駅からタクシーに乗って学生マンションの手前で降りた。そして近くの公園からマンションの様子をうかがい、不審な人物や車がないのを確認してから部屋に戻った。
すぐにでも警察がやって来るかもしれない。達也は旅行鞄を開けて衣類を洗濯機に放り込み、別の着替えと取っておいた清泉女子高の制服を急いで鞄に詰め直し、机のひきだしの奥に入れておいた残りのすべての現金と、机の上に置いてあったテニスサークルの合宿で写した集合写真をバッグに入れた。
書棚には大学の教科書が並び、机には試験前に一生懸命書きこんだノートが積まれている。壁にはテニスラケットが立てかけられていて、食器棚にはお気に入りのマグカップも置かれたままだった。
達也は洗濯機の回転する音を聞きながら、この部屋には二度と戻って来ないのだと思い、涙が溢れ出た。
自分を今度はどんな人物にするかと達也は考えを巡らせたが、新たな別人に成りすまそうという考えは浮かばなかった。
「女性になり、女子高生になり、大学に入学し、その後彼女はどうなるの?」
達也は亜由美という人物の成長物語の中でしか、自身の将来を考え切れなかった。それは、この一年足らずの期間が、たとえ女性としてではあるが、達也がそれまで成しえなかった「普通の」暮らしを十分に与えてくれたという満足感があったからかもしれない。
「もう逃げきれないかもしれない。でもそれでいいかも」
達也は捕まってからのことを考えた。
きっとマスコミが大騒ぎして、逃走中のことを面白おかしく報道するだろう。そして可愛らしい服や下着を引っ剥がされて、こ汚い囚人服を着せられた貧弱な男に逆戻りだ。
しかしそれよりも、今まで親しくしてくれた奈緒美や清香、沙耶や有香に嘘をついてきたことが辛かった。捕まる前に真実を告げ、謝罪と感謝の気持ちを伝えたかった。
達也は、前に絵のモデルになった時に着た、肩の出たノースリーブのワンピースに着替えた。そして、もう二度と戻ってこないこの部屋に向かって「行ってきます」と小さな声で呟いてからマンションを出て、近くのボックスから電話をかけた。
「亜由美ですけど」
「え、亜由美ちゃん、東京に旅行に行くって言ってたけどもう帰ってきたの?それで?」
相手は前に亜由美をモデルにして絵を描いてくれた美大生の高木だった。
「お願いがあるんですけど」
「何?お願いって?」
「もう一度私を描いてくれませんか」
「え、どうして?僕もいずれお願いしようと思ってはいたんだけど」
「私の本当の姿を描いて欲しいの」
「それってどういうこと?」
「脱いだ自分を描いて欲しいの」
高木はしばらく押し黙っていた。
「なんか事情があるのかな。とりあえず大学に来ないか。夏休みだから、前に絵を描いた教室は誰もいないはずだ。ぼくもそこへ行くから、三十分後に落合おう」
美大の教室に入ると、既に高木が待っていた。他に人はいない。
「どうしたんだ。何かあったの?」
「うん、私もう、この街から出て行かなくちゃいけなくなったの」
「何故?大学で何かあったの?」
「いいえ」
亜由美の瞳から大粒の涙が流れ落ちる。高木は戸惑いながらも亜由美の肩を抱いて自分の胸に引き寄せる。
「私、実は……」
「何も聞かないよ。だから君の絵を描かせてくれ」
亜由美は涙をぬぐって頷いた。
亜由美はワンピースを頭から脱いで、ショーツとキャミソールだけの姿になった。そしてキャミソールも脱ごうとしたとき高木は
「それでいいよ。君の素肌は僕のイメージで描けるから」と制した。
亜由美はキャミソール姿で窓際の椅子にポーズを付けて座る。
前に絵を描いてもらった時は、何もかもが輝いていた。この先に楽しい将来が待っているような気さえした。しかしそれはやはり錯覚だった。
亜由美は「女ひとり旅」で訪れた素敵なホテル、奈緒美や清香と過ごした楽しい高校生活、そして大学へ入ってから沙耶と過ごした充実した日々を思い出しながら、じっと涙をこらえていた。
高木は亜由美を見つめながら一心にデッサンの鉛筆を走らせる。重苦しい沈黙の時間が流れた。
一時間後、高木は「もういいよ」と言って亜由美にワンピースを手渡す。亜由美がそのデッサンを見ると、小さいながらも形の良い乳房を持つ、美しい少女が描かれていた。
亜由美はその絵を見ながら「本当の私はそうじゃないの」と高木に言う。
高木は「僕は表面ではない、君の内面の真実を描いたつもりだ」と言った。
亜由美の瞳からは再び大粒の涙がこぼれてきた。そして高木の胸に顔をうずめて泣いた。
「ありがとう、でもごめんなさい。私はもう帰ってきません。有香さんにもありがとうって伝えておいて下さい」
亜由美は高木に背を向けると、振りむくことなく教室を走って出て行った。本当のことを言えなかったが、高木はすべてを知っているような気がした。
亜由美は携帯の電源を入れて、奈緒美と清香にメールを打った。
「これから、ちょっと遠い所に行かなければならなくなっちゃったの。もう会えなくなるかもしれません。今まで仲良くしてくれて、本当にありがとう。そしてごめんなさい」
亜由美はメールを送信すると再び携帯の電源を切った。苦労して手に入れた携帯だった。しかし警察がこの携帯を唯一の手掛かりとして追っているのは間違いない。
亜由美は、少しためらいながらも携帯電話を川に投げ捨てた。そしてそれは、この一年間の思い出と、亜由美という存在そのものを消し去ることでもあった。
捕まる前に皆に真実を伝えることはできなかった。しかしこの逃走劇がマスコミに悪意に満ちて報道され、大切な人々に非難が及ぶのを何とか避けなければならない。それにはもう少しだけ時間が必要だ。
達也はタクシーを拾って駅に向かい、東京行きの新幹線に再び乗り込んだのだった。