第3章
日が暮れ始めた頃、誰かが帰ってきたようだった。玄関の開く音が聞こえる。二人らしい、話し声も聞こえる。
「すごい数の警官だったね、お母さん。わたし学校の横を走って行く犯人のバイク見たんだよ」
「え、本当? でも、そのバイクがこの近所で見つかるなんて、恐いわね。早く捕まれば良いのに」
どうやら母親と高校生の娘のようだ。娘は二階に上がって来て、達也が忍び込んだ和室の隣の洋室に入った。母親はキッチンで夕食の準備に取り掛かる。天井裏で耳を済ませていると、家人の行動が手に取るように分かった。
それから一時間ほどしてまた玄関が開く音がして「ただいま」との声がした。今度は息子らしい。
「おかえりなさい。あら、今日はお友達とコンパがあるから遅いって言ってなかったっけ?」
「その予定だったけどね。明日突然試験だって、まいったな」
息子はそう言って、二階には上がらず、そのまま一階のリビングに向かったようだった。
しばらくして父親が帰ってきた。
「おかえりなさい。早く帰れたのね」
「ああ、無理やり仕事を終わらせてきた。しかしすごい警戒だな。駅からタクシーで帰って来る途中、二回も検問で止められたよ。明日もやるのかね、まいったね」
父親は一階の和室で着替えを済ませた後、リビングに行ってテレビのスイッチを付け、その時間にやっているニュースにチャンネルを合わせた。丁度ローカルニュースでそのことが報じられていた。
耳を澄ませて聞いていると、やはり警察は既にバイクを発見し、バイクが見つかった近辺を重点的に捜索しているようだった。
「ごはんできたわよ」とお母さんの声に娘が階段を下りて行った。音楽番組らしきテレビの音も聞こえる。
達也は少し緊張を緩めて、コンビニ弁当を取り出して食べた。明日の朝までトイレに行けないので半分は残し、水も少し飲んだだけだった。
共働きの夫婦と大学生の兄と高校生の妹という家族構成なのだろう。どこにでもあるような家だ。しかしこういったごく平凡な家庭で育ったならば、自分も少しは違った人生を歩んでいたのだろうにと達也は思った。
達也が育った家庭は、両親が離婚した母子家庭で、父親とは会ったこともない。しかし世の中にはそんな家など数限りなくあり、それだけがぐれる要因ではない。
母親はアル中だった。父親と別れてからそうなったのか、それが原因で別れたのかは知らない。母親は定職につかず生活保護を受けながら、昼間から見知らぬ男を連れ込んでは、おまけに金までせびっていた。
まだ幼い達也は、時々男に小遣いをもらって外に出されたこともあったが、大概はふすまひとつ隔てた三畳の部屋で、隣の様子をひっそりとうかがって過ごさなくてはいけなかった。
だから、物音をたてずにじっとしていることは得意だった。こんなことが今役に立つとはと、達也は皮肉に感じた。
中学に上がってしばらくは陸上部に入って部活に励み、勉強もそこそこ力を注いでいたのだが、そんな母親のいる家には帰りたくなくなり、悪い仲間と交わり、高校には進学したものの、あとはお決まりの転落コースである。
階下からどっと笑い声が聞こえた。今度はお笑い番組でも見ているのだろう。
こんな絵に描いたような家族の団欒など無縁だった達也は、この家族と時間を共有しているような気がして、妙な喜びを見出していた。
しばらくしてテレビの音は消え、階段を上って来る足音の後、達也の潜む部屋のドアが開けられこの家の息子が入ってきた。
達也は息を止める。かばんをベッドに投げる音と、かばんの中から何かを取り出す音。明日の試験の勉強を始めるらしい。試験勉強で遅くまで起きていられると困ると思ったが、兄は携帯電話で誰かと話し始めた。
「明日の試験範囲はどこだっけ?」
「そこだけか。だったら楽勝じゃん。今夜は徹夜を覚悟していたんだけど、大丈夫みたいだな。じゃ明日コンパでな」
どうやら遅くまで起きていないようで達也は安心した。
やがて下の部屋からは兄の寝息が聞こえ始め、一階からも物音は消え、遠くで響くパトカーのサイレンの音がかすかに聞こえるだけとなった。
まだ付近には警官がうじゃうじゃいて自分のことを追いかけているのだろうが、とりあえず今日中にこの家に警官がやって来なかったことで、第一段階は突破した。しかし家に人がいる限り物音を立てられないから、眠ってしまうわけにはいかない。
和也は、天井裏の換気孔から朝の陽が入り込むまで、じっと目を見開いたまま、この先の逃走計画を考えていた。