第26章
四月になって桜も満開となり入学式も無事終わって、亜由美は晴れて京都の名門私立大学の大学生となった。
亜由美が入学したのは文学部の史学科だった。歴史を勉強するのが面白そうなので受験したのだが、入学時のガイダンスで必須科目の他にも色々と面白そうな講義があり、それらを登録して受講してみることにした。その一つがジェンダー論で、最初の講義で元気いっぱいの女性准教授が宣言する。
「この講義を、単位が取りやすそうだから登録したという学生、特に男子学生で、そんな人がいたならば去りなさい」。
さすがにそれで退出する学生は一人もいなかったが、亜由美はびっくりしたのと同時に強く興味をそそられて、この授業に熱心に出席して勉強するようになった。
その講義は、社会や歴史のあり様を、性差、特に女性からの視点で捉え直そうというものであった。
亜由美はその講義を熱心に聞きながら、今自分が置かれている微妙な立場を思わざるをえなかった。
授業は皆出席で、誰よりも熱心に授業に取り組んでいたし、入学金免除かつ授業料免除の特待生だったのですぐにその準教授に覚えられ、研究室を訪れるうち、その研究室に出入りする学生、全員女子学生だったが、の自主ゼミにも参加するようになっていた。
そのゼミで先輩達は、未だ男性中心の社会の問題点を、色々な事例を持ち寄って研究していた。一年生の亜由美は傍で聞いているだけのことが多かったが、ある日先輩から「鈴木さん、ファミレスでバイトしたことがあるって言ってたけど、セクシャルハラスメントに合ったことってない?」と問いかけられた。
「多分ないと思います。友達と一緒だったし、お店の人も親切だったから」
「お客さんに言い寄られたことない? だって鈴木さんってそんな雰囲気あるから」
「そんなー。まあメアド教えてとか言われたことありますが」
「やっぱり、それが気付かないセクハラなのよ」
「え、でもどうして?」
「鈴木さん、よく考えてみて。あなたは店の従業員としてお客さんに従属していて何にも言えない立場なの。それを客としての立場を利用してあなたの関心を引こうとしている。それはれっきとしたセクハラよ」
「そんなこと思いもしませんでした」
「些細なことと思っていることに、実はジェンダーの問題が潜んでいるのよ」
先輩は亜由美に熱く語りかける。
「ファミレスで可愛い制服着せられたでしょ」
「ええ」
「あれも、男性目線で客を呼びこむための営業戦略なの。まあ、これも一つのセクハラと言えるわね」
亜由美は可愛い制服を着られて嬉しかったし、奈緒美や清香、店長やお客さんにも可愛いって言われて喜んでいたけれど、そうだったんだ。
確かにストーカーみたいなお客さんもいた。亜由美は、可愛いエプロンドレスを着た自分を思い出し、赤くなった。
「あなた可愛いんだから、色々セクハラに合うかもよ。もっと敏感になって色々なジェンダーの問題を勉強していかなけりゃね」
亜由美は先輩にも結構気に入られていた。
亜由美は何かサークルもやってみようと思ってテニスサークルに入り、初めてラケットを手にした割には先輩の男子学生のちょっと熱の入った指導の甲斐もあって、メキメキと上達していった。
そのサークルで知り合った同じ学部の沙耶は、スコートからすらっと伸びた亜由美の形の良い脚を見つめながら、「絶対あの先輩、亜由美に気がある」と言ってからかった。
確かにその先輩は、練習が終わると、いつも亜由美と沙耶を食事に誘った。
毎回断るわけにはいかず何回か付き合ったが、沙耶が用事で先に帰ってしまったことがあり、その夜は、「送っていくよ」という先輩の申し出を拒むことができず、マンションの近くの公園まで一緒に歩いた。
急に雨が降り出し、二人は公園の屋根のある場所に駆け込み、ベンチに並んで腰を下ろした。
少しお酒の入った先輩は、何気なさを装って亜由美に体を寄せてきて、肩に腕を回して「僕の部屋に来ないか」と誘う。
亜由美が断ると、それ以上無理強いしなかったが、「亜由美ちゃんみたいな子が好きだな」と、耳元で囁かれ、一瞬うっとりとする。
「じゃあ、ばいばい」と別れた亜由美は、部屋に戻るなり鏡に向かて自分の姿を確かめる。
雨に濡れたシンプルな白のTシャツに、可愛らしい胸の膨らみとブラジャーのラインがくっきりと浮かぶ。
「いけない、いけない」
亜由美はゼミでの先輩とのやり取りを思い出しながら「これもセクハラなのか」と思ってみたが、そんなことはどうでも良くなってしまっていて、自分の姿にしばし見とれていた。
沙耶とは、大学を離れても一緒に行動する仲良しとなっていた。
テニスサークルの女子学生達は、サークルのメンバーからだけではなく、他のサークルや学部の男子学生からのコンパの誘いも多く、沙耶がそれを取り仕切っていたが、いつも沙耶は「みんな亜由美が目当てなのよ」と言う。
その度に亜由美ははにかんで「そんなことないよ」とうつむくしかなかったが、確かに男子学生の多くが亜由美の横に座りたがった。「これもセクハラの一つかしら」とか思ったけど、亜由美は素直に嬉しく思っていた。
沙耶には家庭教師のアルバイトも紹介してもらい、結構良い月謝で高校二年生の女の子に英語を教えることになった。
初めてだったにも関わらず教材や教え方を努力して工夫したのでその娘の成績がぐんと伸び、評判が良かったので、その子の従兄の中三の女の子の英語と国語も教えることになって、生活費をまかなえるくらいの収入を得ることができるようになった。
毎日大学に通い講義に出席し、サークルにも顔を出し、週に二回の家庭教師のバイト、そして時々沙耶と一緒に出かけるコンパや買い物。ここでも亜由美は普通の女子大生としての生活を、何の問題もなく送っていた。
学生マンションの隣に住んでいる、やはり今年入学した美大の学生有香とも仲良しになった。
彼女は浪人していたので「十九歳」の亜由美より一つ年上で、彼女には亜由美が今まで聴いたことのなかったレゲエのライブハウスとかに連れて行ってもらったりした。
そこは亜由美の通う大学の学生とは異なった雰囲気の美大生の溜まり場らしく、有香もジンフィズなどを飲みながら盛り上がっている。
さすがに「十九歳」の亜由美はグレープフルーツジュースなどを注文していたが、有香の同級生達に無理やりカクテルを飲まされそうになることもあったが、そんな時には有香は
「もう、この娘純情なんだから、あんた達みたいな不良学生と付き合っていられないんだから」
と男子学生を睨みつけた。
ある時有香の先輩の絵画専攻の男子学生から「モデルをやってくれない?」と誘われた。
亜由美が断ると有香も「やってみたら」とか言うし、その学生も「バイト代も出すから」と言って強引に誘ってくる。
「もちろん脱がないわよ」
「ああ、もちろん」
亜由美はしぶしぶ承諾し、次週から何日かの約束で美大の教室に通うことにした。
服装はノースリーブのワンピースという条件だったので、わざわざそのために街まで服を買いに出かけた。
それだけでバイト代が吹っ飛んでしまうことも気にせず、お気に入りの一着を手に入れ、美大へ行く日は肌の手入れも念入りにした。
「そこに座って」
画学生は、教室の窓際にある椅子を指さす。そして色々なポーズを試した後、「今日はデッサンだけだけど、このまま二時間くらい我慢してね」と言って、キャンバスに向かった。
画学生は途中何回か首をひねりながら、「難しいな」とため息をつく。
「亜由美ちゃんって顔は女の子女の子しているんだけど、描いてみると体のラインが中性的だよね。バランスを取るのがすごく難しい」
亜由美はドキッとし、調子に乗って、しかもノースリーブのワンピース姿で引き受けたのはまずかったと後悔した。やはり見る人が見れば分かるのかもしれない。
「え、そう。そんなの言われたの初めてだから」
「いや、そのちょっとしたギャップが魅力なのかもしれない。わかった、これで行こう」
デッサンが終わって亜由美がキャンバスを覗きこもうとしたら、画学生は慌てて隠して、
「出来あがってからね」と笑う。
何日か美大に通ってモデルを務め、ようやく完成したと言うので見せてもらおうと思ったら、「今度の学際に出品するから、その時に見に来てね。結構上手く描けたと思うから」と言われた。
五月の連休明けにその美大の学園祭があり、亜由美は沙耶も誘って行くことにした。
「実は沙耶には黙っていたけど、私をモデルに描いてくれた人がいて、その絵が展示されているそうなの。恥ずかしいけど一緒に行ってくれない」
「へー、そうなんだ。で、どんな絵?」
「それが見せてくれなかったの。だから心配で」
「大丈夫よ。よっぽど下手くそな絵描きじゃなければ、亜由美の魅力は十分伝わるはずよ」
「そんなんじゃなくて、人が私を見たらどう映るのかが心配で」
「心配ない、心配ない」
大学構内は、模擬店やらイベントでにぎわっていた。芝生のグランドに大きな張りぼてのオブジェも飾られていて、すれ違う学生の雰囲気も、亜由美達の通う大学とは随分と違っていた。
途中で有香と出会い、自分の絵がどこに展示されているのかを教えてもらう。
「あの絵ね、まだ見ていないんでしょ」
有香は思わせぶりに笑った。
「絵画棟二号館の二階に飾ってあったわよ。作者は自信作だって自慢していたけど。で、そちらはお友達?」
「ええ、ご紹介します。こちら私と同じ学部の同級生で青木沙耶さん」
「はじめまして」
「そしてこちらが私の学生マンションの隣に住んでいる佐々木有香さん。この美大のデザイン科の一年生」
有香は「一浪だから亜由美より一つ年上だけどね、よろしくね。後で私達のやっているレゲエ喫茶にも寄ってよ、ライブもあるから」と言って立ち去った。
亜由美と沙耶は二人で校舎に入り、絵の展示している教室を探した。
「ほらあそこじゃない?」と沙耶が一つの教室を指さす。恐る恐る足を踏み入れると、何人かの学生や一般の人が展示品を静かに見つめている。
二人は教室をざっと一回りして三十点ほどの作品の中から亜由美の絵を探したが、見つからない。
「出品しなかったのかな。だったらそれの方がいいわ。だって恥ずかしいじゃない」
「何言ってんのよ。さっきの有香さんも展示してあったって言ってたわよ。
作者はなんていう名前の人?」
「確か高木修二とかだったはず」
「え、あれじゃない?」
確かに「高木修二」と書かれた名札の上に、一枚の絵が掛けられていた。
「え、これ何?」
沙耶はぷっと吹き出した。
「えー、ひどい」
「窓際の少女」と名付けられたその絵は抽象画で、もちろんモデルが亜由美か誰かなんかは分からない。
「やあ来ていたの」
高木が教室に入って来た。
「あれですよね?」
「ああ」
「あれって、私がモデルじゃなくても描けたんじゃないんですか?」
「ははは、抽象的だから? でもシュールレアリズムにもモデルがあるんだよ。僕は君の内面を表現したつもりなんだ。どうかな?」
「内面って言っても」
「初めリアリスティックな絵にしようと思って君にモデルを頼んだんだけど、デッサンを始めてどうもうまくいかない。この違和感が何かなっと思って考えてみると、どうも君の表面的な美しさ、つまり現象だけに目をとらわれてしまっていて、美の本質の追求を忘れてしまっていたんだ」
「それって、亜由美がきれいだって誉めているの?」と沙耶。
手を体の前で振ってそれを否定する亜由美。
「もちろんだよ。彼女がモデルになってくれなかったら、この絵は描けなかったよ。今までで最も上手く描けたと自信をもっている。珍しく教授も誉めてくれたしね」
「うん、確かに亜由美の不思議さが表現されているわ、なるほどね」
と沙耶はもう一度注意深く絵を覗きこんだ。
「もう、うそばっかり」
「君も亜由美ちゃんの不思議な印象を感じるよね」と高木。
「ええ、女性から見ても魅力的だから」と沙耶。
「もう行こうよ。」と亜由美は沙耶の手を引っ張る。
「またモデルを頼むよ。今度は写実的に描くから」
「いえ、だめです」
亜由美は小さな声で返答して、亜由美の背中を押して教室を小走りに出て行った。
有香の話していたレゲエ喫茶に入ると、大音量で軽快な曲が流れていた。踊っている人もいる。二人でオレンジジュースを注文して飲みながら、沙耶が亜由美に何やら話しかけるが、音楽がうるさくて亜由美には聞き取れない。
「何、沙耶? もう一度言って」
沙耶は今度は亜由美に聞こえるように大きな声で言った。
「ねえ、さっきの高木さんって結構素敵じゃない?」
亜由美はまた聞こえないふりをして「え?」と聞き返すと、沙耶は頬笑みを返しただけだった。