第2章
逃走したのは田川達也、二十二歳である。
高校を中退してから中学時代の悪い仲間と万引きやバイクの窃盗を繰り返し、少年院にも入ったことがある。二十歳になってから配管工として真面目に働いた時期もあったが、何も楽しい事などなかったし、先の希望も見出せなかったのですぐに辞めた。
一度蹴躓いてしまえば、そう簡単に立ち直れないものだ。結局昔の悪い仲間に誘われて車上ねらいや空巣など、徐々に犯行をエスカレートさせながら遊興費を稼ぎ、日々の快楽を求める生活を送っていた。
達也は身長百六十センチ、体重四十六キロと、男としては華奢な身体つきで、それゆえ回りから舐められないようにと、眉は剃り落とし、髪は短髪で金色に染め、典型的な不良少年の格好をしていたが、はっきり言って、全然迫力はなかった。
だが頭の回転は速く、また盗みの技、ことに鍵をこじ開ける技術においては誰にも負けず、不良仲間は一目置いていた。
しかしそんな日を延々と続けられるわけもない。仲間の一人が捕り、彼の自白で達也にまで逮捕の手が及んでしまった。
だが起訴されたのは仲間と犯した幾つかの事件だけで、他に達也が単独で犯していた多くの窃盗については何も追及されなかった。
達也は少年時代の前歴もあるので、量刑もそれなりに重いのだろうと予想せざるを得なかった。
全く自分で播いた種なのだからどうしようもないのだが、何年になるか分からないけれど、二十歳代の一番楽しいだろう時期を刑務所で退屈に過ごし、出てくる頃にはいいオッサンになっていて、その後まともな仕事になんかつけるはずもない。
また犯罪をしでかして、刑務所に出たり入ったりする人生を送ることになるのだろうと、益々この先に希望が持てなくなってしまっていた。
リセット出来るものなら、もう一度やり直したい。すべてを消し去って、新しい人生を手に入れたい。しかし、そんなことは無理なのだろうが。
裁判のため、達也は手錠をかけられて車に乗せられ、留置場から地方裁判所に向かっていた。
前日の夜に警察署の階段で躓いて転んだ時、両手首を角にぶつけて怪我をしてしまって、痛いので警官に手錠をゆるく締めてもらうように頼んでおいた。
親切な警官はそれに応じてくれたのだが、手も小さい達也は、掌を細めると手錠を外せそうな気がした。
嘘だろうと思って更に強く引っ張ると、両手ともすっと手錠から抜けてしまった。
初めはそんな気は無かった。どうにかしたいと思っていたが、そこまでしようとは考えていなかった。しかし、偶然が重なり過ぎた。
警官は、達也の手錠が外れてしまったことにまだ気が付いてない。しかも警官の一人がトイレに行きたいという理由で、いつもの裏口ではなく、正面玄関で降ろされた。
達也は車から降りた一瞬の隙をついて、衝動的に猛ダッシュで走り出してしまっていた。そうなったらもう後戻りはできない。
裁判所の開け放された正門を駆け抜けた。
慌てた二人の警官も走って追いかけるが、中学時代に陸上の選手として県大会でも上位に入賞したことのある達也の足には追いつけない
歩道を歩いていた歩行者は驚いて道を開ける。そしてすぐに表通りから横道に入り込むと、コンビニの駐車場でエンジンをかけたままバイクに跨って携帯電話をかけている男がいた。
そいつを突き飛ばしてバイクを奪い、それに跨ってエンジンを一気にふかして猛スピードで路地を走り抜け、瞬く間に警官達の視界から消え去ってしまった。その間五分も経っていない。
幹線道路に戻って、スピードを更に上げて街の中心部を突っ切る。
前の信号が赤に変わっても止まるわけにはいかず、右方向から車が来ないのを見て左に曲がる。はるか後方からパトカーのサイレンが聞こえる。
バイクの運転には自信があったが、パトカーを振り払うのは無理だろう。当然すぐに非常線も張られるはずだ。何とかしなければならない。
達也は頭を冷やして、この先どうするべきかを考えた。
「さっきはごめん」と警察署に出頭することも考えた。
出来心だったと謝れば、少し刑期が加算されるかもしれないが、比較的軽く済むかもしれない。
しかしどうせ戻ってもこの先楽しい人生など送れるはずもないのなら、こんなチャンスを見逃す手はない。とにかく逃げ続けよう、どうせ捕まっても同じだ。ひと時でも楽しめればいいさ。そのためにはとりあえず金が必要だ。
小さな路地に曲がって速度を落とす。見ると前にバッグを抱えた女性が歩いている。
後ろからゆっくりと近づいて、その女性のショルダーバッグをひったくって再びスピードを上げて路地を駆け抜ける。バッグの中に財布があるのを確認して、財布だけを抜き取ってバッグを投げ捨てた。
このままバイクで逃げるのが無理ならば、とりあえずどこかに隠れてやり過ごし、隙を見つけて脱出する手もある。
達也は目に付いたコンビニに飛び込んで、弁当二食分とカロリーメイト三箱にミネラルウォーター二リットルを急いで買い、再びバイクに乗って走り出し、身を潜めるのに適当な場所を探す。
通りすがりの住宅街で、シャッターが開けっぱなしのガレージの奥に古い自転車があるのを見つけた。
そのガレージを少し通り過ぎてから、人気のない墓地にバイクを乗り捨てる。
そして急いでガレージに走って戻り、チェーンロックを難なく取り外してその自転車に乗って十分ほど走り、近くのため池に自転車を投げ込んだ。
自転車は完全に水没し、上から見るだけではまず見つからない。これなら臭いの痕跡もガレージの付近で断ち切れて、警察犬の追跡を逃れる時間稼ぎにはなるだろう。
達也は頭をフル回転させながら、次にとるべき行動を考えた。
パトカーの音は遠くで聞こえているが、まだ時間の余裕はある。達也は辺りを見回してから、ゆっくりと人気のない住宅街を歩き始めた。
空き巣もお手の物の達也である。すぐに留守の家を見つけ出し、あっという間にピッキングで玄関の錠を外し、誰にも見られていないことを確認して内側から錠を下ろす。
そして家の中を一通り見回してみると、一階にリビングダイニングと和室、二階に和室と洋室の二部屋がある、3LDKの築十年ほどの平凡な作りだった。
キッチンの流しにはコーヒーカップや皿が洗い桶に突っ込まれたままだったから、恐らく共働き家庭なのだろう。食器の枚数から、どうやら四人家族だろうと推測できる。
二階に上がると部屋が二部屋あり、洋室の方は若い女性の部屋、学習机の本立てに高校の教科書が立てかけられていたから女子高生なのだろう。もう一つの和室は男性の部屋で、やはり学習机があって法律の厚い本が置かれていて、どうも大学生のようである。
達也は和室のふすまを開けて押入れの中を覗き込み、そこに天井裏への入り口を見つけ、板を外して首を突っ込み、様子を観察した。
平日はこの家の住人は皆出かけてしまって留守となるだろう。しかも二階のこの部屋は和室なのにベッドが置かれているから、布団の出し入れに押し入れを開けることは滅多に無いはずだ。しかも厚手の布団に取り替えるにはまだ季節が早い。
気付かれずに過ごすにはうってつけの場所のようだ。家人が留守の間に食料をちょろまかせば、ひょっとすれば、一月くらい潜伏し続けることだって可能かもしれない。
警察は当然この辺りを徹底的に調べるだろうが、一般人の家の中まで調べることはないだろう。
二、三日この辺を探して手がかりが見つからなければ、探索の範囲を徐々に広げて行き、結果的にこの辺の監視が手薄になるに違いない。そうなってからチャンスを見計らい、この家を抜け出せば良い。
達也はここで潜み続けるという長期戦の計画を思い付き、それがうまく行きそうな気がしてきた。
やがて一台のパトカーのサイレンの音が近づいてきて、バイクを発見したのか、すぐにけたたましいサイレンの騒音に周囲は包まれ始めた。
もともとこんな風にして逃げ出すつもりなどは無かったのに、偶然が重なり過ぎた。もしここで見つかってしまったら、その時は仕方がない。
達也は結構冷めた気持ちで、その家の天井裏に隠れることを決めた。