第14章
当面の逃亡資金もあるし、携帯電話も手に入れた。達也は気持ちに余裕が出てきて、更に「女ひとり旅」を続けることにして、やはり週刊誌で紹介されていた、北陸の温泉宿を訪れた。ここは「仕事のストレスを癒す」スポットのはずだった。
名前は最初に使った「佐藤美咲」に戻し、連絡先はもちろん、手に入れた携帯番号だ。
免許証を拝借した女性を真似て、新たに買ったセミロングのカールの入ったウィッグに付け替え、少し大人びたメイクでスーツに着替え、黒ぶち眼鏡をかけて、キャリアウーマンといった感じになった。
「いらっしゃいませ」
宿のおかみが、深々とお辞儀をして迎えてくれ、係りの男性が荷物を持って、部屋に案内してくれる。
床の間の付いた八畳の和室に通されると、男性は荷物を隅に置いてから、障子を開ける。見ると川の向こうに、三十メートルほどの落差のある滝が見えた。
「あの滝は、この部屋から見るのが一番です」
男性は誇らしげに説明する。
「裏口から出て川べりに下りると、露天風呂がありますので、それもご利用になって下さい。混浴ですが」
達也が戸惑った表情を見せるとその男性は「水着を用意していますから、お使いになるならば、お申し付けください」と言う。
男性が部屋を辞し、一人になった達也は窓から滝をしばし眺めて、仕事ではないけれども、確かにここ数日のストレスが癒されていくような気がした。
あの家で拝借したブラウンのスーツを脱ぎ、浴衣に着替える。帯の締め方が分からなかったが、フロントで見かけた女性の姿を思い浮かべながら結ぶと、何とか格好がついた。
達也は浴衣姿の自分を姿見に写し出して、容姿をチェックする。黒ぶち眼鏡をかけた、ちょっと内気な女性が写っている。
中居さんが食事を運んできた。達也は浴衣の裾を気にしながら、テーブルに向かって正座する。
中居さんは、何種類もの料理を机に並べ「お酒もいかがですか?」と尋ねるので、熱燗で一合注文した。
「ごゆっくり」と言って部屋を出る。達也は刺身から手を付けるが、それ程食欲は無かった。
適当に箸を付けてお終いにしたころに、中居さんが膳を下げにやって来た。
「ごめんなさい、あまり食欲が無くて」
「いいのよ。日頃から色々とストレスがあるんでしょ。そんな時はお風呂につかるのが一番よ」
多分あの週刊誌に書かれていたからだろうが、この宿に宿泊する女性一人の客に対しては、そのような対応をすることになっているのだろう。
中居さんは食器を下げてから、水着を持ってきてくれた。見ると紺色のスクール水着で、達也の体型に合わせてくれたのだろうか、身につけてみると、ぴったりと合っていた。胸の部分も開いていなかったから、詰め物をすれば、何とか誤魔化せそうだ。
達也は髪を束ねてピンでアップし、浴衣の下にスクール水着を着けて、裏口から川べりに下りてみた。
薄明かりの中、既に何人かがお湯に浸かっていた。
達也は「女性用」と書かれた脱衣所に入って浴衣を脱ぎ、水着姿になる。その上からバスタオルを胸から巻いて、恐る恐る露天風呂に向かう。
かけ湯をしてからバスタオルをはずし、人のいない隅っこに入ってみる。
「こんなことをして大丈夫なのか?」
達也は一瞬そう思ったが、もう何でもありだ! 熱燗の程よい酔いもあり、丁度いい湯加減に、それまでの疲れがスッと引いていくような気がした。
眼鏡をしたままだったのですぐに眼鏡が曇って、視界が真っ白になる。達也は眼鏡をはずして淵に置いた。
普段ならば顔にお湯をかけてゴシゴシこするわけだが、達也はメイクを落とさないように注意しながら手で肩にお湯をかけながら、つるつるになっていく肌の感触を楽しんだ。
「すっげえ美人じゃない?」
遠くで男の声が聞こえる。
「本当だな。ちょっと話しかけてみようか」
最初は何を話しているのか分からなかったが、どうも自分の方を見て話しているようだった。達也は恐ろしくなって、慌ててお湯から出た。
「ちぇっ、逃げられた」
達也は急いで脱衣所に戻り、身体を簡単に拭いてから浴衣を羽織って部屋に逃げ込んだ。
改めて浴衣を脱いで水着姿となって、姿見に自身を写し出す。濡れた水着がぴったりと体に張り付いて、変な盛り上がりがある。
「いけない、いけない」
達也は「美人じゃない?」といっていた男の声を思い出しながら、顔を赤らめた。
逃走を始めてからまだ一週間も経っていないが、達也は最早完全に別人になりきっていることに気づいた。このままずっと女性として逃亡を続けることだって可能かもしれない。
今まで旅行などしたことのなかった達也にとって、あちこちの観光地を訪れる旅も正直言って楽しかった。しかしさすがに、ずっと旅行し続けるわけにはいかないだろう。
どこかで部屋を借りて、目立たないように暮らすのが良いだろう。しかしどこで? どうやって?
達也はこの先のことを、再び真剣に考え始めたのだった。