第12章
翌日は、その女友達と朝食を一緒に取り、彼女をホテルの玄関で見送った。彼女は本当に別れるのが寂しそうだったが、達也は「必ずメールするからまた会おうね」と言って送り出す。
昨夜からの彼女との緊張感から解放されてドッと疲れの出た達也は、ホテルを出て、近くのカフェで紅茶を飲みながら、ゆっくりとくつろぐことにした。
しかしいつまでも、そうのんびりしてばかりいるわけにもいかない。達也は次の行動を考えなければならなかった。これから逃走を続けるためにしなければならないことを、真剣に考え始めた。
逃走を続けるのに最も必要なものは何だろうかと考えた。もちろん金も必要だが、それ以上に必要となるのはIDだ。IDがなければ今の社会では、まともな生活が送れそうにない。
逆にIDさえ得られれば、田川達也とは別人として何とか暮らしていけるはずだ。どうにかしてIDを偽造しなければならない。
ならば、そのIDを最も簡単に証明してくれるものは何かと考え、やっぱり運転免許証だろうと思った。
だが、他人の免許証を盗んだとしても、盗まれた本人が紛失に気付いて再発行してしまったらそれで終わりだ。紛失届の出ている免許証なんかを使えば、すぐに足が付いてしまう。
だからと言って、架空の人物の免許証を偽造するのもリスクが高過ぎる。いくら偽造の出来栄えが精巧になったとは言っても、紙幣と同様、国家の威信をかけた証明書のはずである。
おまけに数年前からはICチップも埋め込まれていて、余計に偽造は困難なはずだ。
では実在する誰かになりすまして、本人が気付かない様にして本物の免許証を取得する方法はないだろうか。
達也は免許証を取得したときに必要だった書類を思い出そうとした。
「住民票だ」
では住民票はどうやって取得できるのか。市役所へ行って請求すれば良い。しかしその時に必要な証明書は? またこれが免許証だったりする。
では免許証を持っていない人が住民票を請求する時に使える証明書は何か? 住基カードがある。しかしこれを発行してもらうのにも免許証が必要なのだ。
そうなると無限連鎖してしまう。では免許証を持っていない人はどうやってIDを取得できるのだろうか。
達也はカフェの奥に据え付けられているパソコンをネットにつなぎ、住基カード取得に必要な証明書について調べてみた。
健康保健証や年金手帳など、免許証以外の証明書でも可能だったが、そんなものを持っているはずがない。
しかしそれらを用意しても住基カードの発行には、住民票記載の住所宛に郵送される「住民基本台帳カード交付通知書兼照会書」なるものを持参しないともらえないらしい。
確かに、海外旅行か何かで長期不在の人物の家に忍び込み、必要な身分証明書を拝借して、申請後書留で郵送されてきた書類をその家の人になり代わって受領し、それを持って住基カードを発行してもらうということは、原理的に不可能ではない。
映画やドラマなら、ホームレスの戸籍を買い取るとか、乱暴だが誰かを殺してその人物に成りすますなんてこともあるのだろうが、そんなリスクを冒すわけにはいかない。
いずれ綿密な計略をたててIDを手に入れるとしても、免許証や住民票を入手するのは当面無理だろう。だとしたら、それに代わるものは無いだろうかと考えた。
「携帯かもしれない」
振り込め詐欺のせいで、携帯を入手する場合の本人認証は厳格になってしまった。だから逆に、携帯さえ何らかの手段で手に入れることができたなら、そこそこのIDになるのではないだろうか? 携帯はあくまでも民間業者との契約だから、どこか抜け道があるのではないか。
それに、これからホテルを予約し続けるにしても、架空の連絡先ばかりでは何らかのきっかけでばれてしまい、足がつく恐れもある。それに、そもそも携帯を持っていないのは不自然だ。現にさっき別れた彼女も、達也が携帯を持っていないことに少し驚いていたではないか。
達也は携帯電話を手に入れる方法を考えた。しかし携帯を入手するにも、やはり免許証が最も有効だ。それがなくても、健康保険証と公共料金領収書という、家に忍び込めば簡単に拝借できる証明書でも可能だったが、それだけでは駄目だ。
料金支払いのためのクレジットカードか、銀行口座かが必要である。そしてクレジットカードを作るにしても当然銀行口座が必要で、その銀行口座を開設するにはまた免許証が必要だ。
プリペイド式携帯電話なら銀行口座は必要ないが、顔写真付きの証明書、つまり免許証や住基カードかパスポートが必要であるし、銀行口座が不要なだけに、より一層厳格な本人確認が要求されているようだ。
IDなんて、生まれながら誰もが自然に持っているものだと、意識したことなどなかった。しかし考えてみると、自分のIDって何だろう。
達也は自分自身、つまり田川達也のIDを証明するものに何があったかを思い出してみた。
達也は十八の時にバイクの免許証を取得した。だが健康保険証など見たこともなかったし、戸籍なども調べたことも無い。大体父親の名前すら知らないのだから。
銀行口座なども持っていなかった。ましてやクレジットカードなどもない。中学、高校では生徒手帳とかいうものがあったが、高校に入ってから、そんなものはすぐに捨てた。
結局達也が「田川達也」であると証明できるのは、運転免許証だけかもしれない。しかし皮肉なことに、「田川達也」として追われているはずの自分には、それすら無い。
達也は改めて思った。この社会でIDを持たないまま暮らしていくことは不可能であるが、そのIDとはなんと脆弱なものに過ぎないかと。
達也は運転免許証や公的な証明書の入手は当面あきらめて、携帯電話を手に入れようと決めた。今後どこかに部屋を借りて落ち着くにも、連絡先のない人間になど、誰が部屋を貸してくれるだろうか。
「闇で携帯を入手する方法はないか?」
達也は考えた。実際振り込め詐欺団などはそんな携帯を使っているから、闇ルートというのが存在するのだろう。昔の悪仲間なら知っているかもしれない。
だが闇ルートで手に入れた携帯がすでに犯罪で使われていたりしたならば、かえってその携帯から足が付く可能性もある。やはり身ぎれいな携帯が必要だ。
色々と考えを巡らしているうちに達也は、まだ高校に通っていた頃の同級生の話を思い出した。あの手なら、携帯が手に入るかもしれない。
達也はネットでその方法を調べてみた。
「これなら大丈夫だ!」
達也はその計画を進めることにした。