第1章
パトカーのサイレンが、街中に響き渡った。
六時間目の退屈な数学の授業に半分ウトウトしていた高校二年生の佐伯和枝が、びっくりして窓の外を見ると、教室から見下ろせる幹線道路を一台のバイクが猛スピードで走り抜け、少し先の交差点を左に曲がるのが見えた。
「おい佐伯、何をぼんやりして外を見ているんだ。この証明で使われる公式を答えてみろ」
黒板を見ると、知らない間に別の問題が書かれていた。
「すみません。分かりません」
「どうしようもないやつだな、これは……」
教師が苛立って何か話を続けようとした時に、チャイムが鳴った。
「じゃあ宿題だ」
和枝はほっとして「はい分かりました」と元気よく答えた。
パトカーのサイレンの音は益々大きくなり、生徒達は何があったのだろうかと窓際に集まって来たが、担任が教室に入って来て終礼が始まったので、皆大人しく席に戻った。
「教頭から連絡があって、なんでもこの近くで、護送中の犯罪者が脱走したらしい」
教室の生徒達がざわめく。
「殺人犯ですか?」
一人の生徒が質問する。逃走犯=殺人犯という図式が彼の頭の中では出来あがってしまっているようである。テレビドラマの見過ぎだ。
「いや、よくわからない」
その話はそれだけで終わり、今度の日曜日に催される学園祭の準備の段取りなどについての話し合いをしていた時、突然スピーカーから教頭の校内放送が流れ出した。
「生徒の皆さん、先ほど教育委員会から連絡があり、裁判所に移送中の犯罪容疑者が脱走して、まだ捕まっていないとのことです。またこの近所で脱走犯とみられるバイクでのひったくり事件が発生したということで、本日は安全確保のため、部活動や学園祭の準備は中止して、すみやかに帰宅するようにして下さい。なお、出来るだけ友達と一緒に帰るように。また人通りの多い道を選んで歩き、寄り道をしないように。以上」
教室は再びざわつく。
「学園祭の準備、出来ねえのかよ」
文句を言う生徒もいる。
「静かに、今聞いた通りだ。何もなければ明日は普通通り。何か変更があれば連絡網で連絡するから、注意しておくように」
終礼が終わって、同級生の由紀が「一緒に帰ろう」と和枝を誘った。由紀は和枝の近所に住む幼馴染の親友だ。
「私見たんだよ。犯人のバイクが走っていく所を」
「え、本当?」
「さっきの数学の時間、外を見ていたら下の道を猛スピードで走っているバイクがあってさ、あの交差点を信号が赤だったのに、左に曲がって行ったの。あれ絶対犯人に間違いないと思うわ」
和枝は交差点を指さした。
「だから先生の話聞いてなかったの?」
「えっ? ええ」
「左に曲がったんだったら、私達の家の方じゃない。ちょっとヤバくない?」
由紀は少し心配そうな表情を見せる。
「大丈夫よ。それより学園祭の準備も無くなったし、マックでも寄って行こうよ」
「え、でも教頭先生が」
「少しぐらい良いんじゃない。それにさっきの問題教えて。私全然ノートとっていなかったから」
「まあいいっか」
和枝と由紀の二人は、教科書を鞄に詰めて教室を出た。
先生達が「早く帰れ」と廊下を歩きながら声をかけ回っていたが、まだ多くの生徒が残っていて、大して普段と変わらない放課後の風景だった。
和枝と由紀はバイクが曲がった交差点にあるマックに寄って、アップルパイとコーラを注文して、和枝は数学の教科書とノートを広げた。
「さっきの問題の解き方教えてよ」
「うんいいよ。この円の方程式がこうだから、接線の方程式の公式を使うと……」
由紀は丁寧に解説してくれる。
「なんだ、簡単じゃん」
「先生の話を聞いていたらね」
「それはそうだけど……」
宿題はすぐ終わってしまって、逃亡犯の話題に移る。
「何やった人なのかね」
「凶悪犯とかだったら恐いんじゃない」
「どこかで人質をとって、立て篭もったりして」
「その人質の中に女性刑事がいたりして」
「テレビドラマじゃないって」
二人で大いに盛り上がっている。
「ワンセグでニュースやってるかもしれないから、見てみない」
「見てみよ」
二人が携帯の画面に見入っていた時、後ろから肩をちょんちょんと突かれて、和枝は驚いて振り返った。見ると同じクラスの佳奈子がいて、おまけに店内を見回すと、同じ高校の生徒達がいっぱいいた。誰も教頭先生の注意など聞いていない。
「高田実業の元生徒だって」
「どうして知っているの?」
高田実業とは、ここから電車で二駅離れた所にある工業高校だった。柄が悪いので有名だった。
「ネットの掲示板でもう広まっているよ、ほら。田川達也二十二歳、無職。窃盗で捕まって、裁判所に向かう途中に脱走だって」
佳奈子は携帯の画面を見せる。
「窃盗? 泥棒でしょ。そんなので、なんで逃げたのかな」
「他に余罪があるとか」
「恋人に会いたくてとか」
「それも、テレビドラマじゃないって」
三人になって、更に盛り上がる。
「あれ、これってうちの近所の墓地じゃない?」
ワンセグでローカルニュースを見ていた由紀が声を上げる。
「本当だ。でもどうして?」
和枝も驚いた。
「うちの方、大丈夫かな」
「暗くならないうちに帰ろっか」
「その方がいいかも」
和枝と由紀は、佳奈子にバイバイしてマックを出た。パトカーが何台もサイレンを鳴らしながら二人を追い越していく。
まだ明るく、人通りの多い道を歩いているから良かったが、二人の家がある住宅地に帰るには、寂しい道を通らねばならなかった。ちょっと恐くなってきた由紀が「ママに電話して迎えに来てもらおうか」と小声で提案する。
「二人だから大丈夫じゃない」
「でも」
「あっ、そうだ。うちのお母さんが丁度仕事が終わる頃だから、駅に寄ってうちのお母さんと帰らない? 電話してみるから」
和枝が母親に携帯で電話すると、母親は丁度駅に着いた所だった。二人は少し遠回りだが駅に向かい、和枝の母親と待ち合わせて三人で帰ることにした。
駅で和枝の母と合流して三人で家に向かったが、途中で何台ものパトカーや警察官とすれ違い、この一帯が普通ではないのは明らかだった。
由紀を自宅にまで送り届けてから和枝と母親が家に着いたのは、六時を過ぎていた。