八 桜の文
陽も沈み、あたりに夕闇が迫っていた。宵の空気はまだまだ冷たく、あの美事な桜の花びらも震えながら枝にしがみついている。
「灯を点けましょうね。冷えて参りましたし、火桶もお持ちいたしましょうか?」
乳母の右京は開け放っていた蔀戸を閉じながらそう言って、ぼんやりと脇息にもたれる結子を振り返った。
「姫さま……?」
薄暗がりの中、ゆるく羽織った桜萌黄*の袿に身の丈を越える髪を打ち広げ、物思いに耽っているその様子に、右京は思わず目を奪われ手を止めた。
頬にも黒髪の零れるようにかかるさまは、臈たけてまこと、お美しい───我が手で育てた姫君を、どこか誇らしいような気持ちで見つめる。皆、父 右大弁に似た一の姫の華やかな美貌をもてはやすけれど、二の姫の、亡き北の方を思い出させる楚々とした美しさには叶わぬと右京は信じているのだ。
しかし、その二の姫の様子がおかしい。
右京は困ったように一度大きく息をつき、床に置いておいた手燭を取り上げると、結子の斜め前に置かれた大殿油*に寄った。夕暮れ時の静けさの中、しゅるしゅると衣擦れの音が響く。
「姫さま、いかがなされました?」
火を灯しながらもう一度尋ねると、結子は今ようやく気がついたかのように、はっと右京を見た。
「……ああ、右京。ぼんやりしていたわ」
結子は呟くようにそう言いながら、物憂げにはらりとかかった髪を払う。右京は手燭の灯を吹き消し、冷気を遮るように几帳を動かしてから結子の僅か後ろに控えると、灯りの影が差すその顔を覗き込むようにして問うた。
「───姫さま、お訊きしてもよろしゅうございますか? あの宴の日、なんぞございましたのか?」
結子はちらりと視線を動かし、それから囁くように尋ね返した。
「……どうして?」
「あの日、急に宴に出とうないと仰せられて……それからこちら、姫さまのご様子は変でございますもの」
しかし結子は答えず、ただ瞳を逸らすばかりだ。
「姫さま。この右京に隠し事はなしですよ。どのようなことがあろうとも、右京は姫さまの味方でございますゆえ」
右京が言うと、結子は幽かな笑みを浮かべて吐息のように、そうね、と答えたが、それきりまた黙り込んでしまった。
右京はなす術もなくただ結子の横顔を見つめ、それから、何かをせねば不安を収められぬとでもいうように、そっと結子の華奢な手を取り、優しく撫でた。そして、なされるがままの結子の横顔にそっと呼びかける。
「姫さま?」
「───二の姫さま」
右京の声に重なるように、妻戸の外から密かに呼ぶ声がして、結子の肩がびくりと震えた。右京は、ゆっくりと妻戸の方を振り返り、厳しい声で問うた。
「誰ぞ?」
思わぬ声に驚いたのか、孫廂にいる者が小さく、あ……と声を零すのが聞こえた。
「何用か?」
「……あ、あの……姫さまに───」
「中の君に御用か? 構わぬ、こちらへ」
右京は有無を言わせずそう命じると、結子の手をそっと離した。すごすごと廂の間に入ってきたのは、女房の茅野だ。
「おお、茅野ではないか。中の君になんの御用か」
茅野は、薄暗い廂の床に張りつくようにひれ伏している。まだ幼いといってもいいほどに若い女房の茅野にとって、古参の右京はそれだけでも頭の上がらぬ存在であるのに、今の右京のどこか張りつめた雰囲気は、大きな秘密を抱える彼女をすっかり萎縮させてしまった。
「茅野、早う───」
「待って、右京。わたくしが話します」
茅野に言葉を促す右京を遮って、結子が脇息から身を起こした。
「……あるお方から、お文をいただいたの。それで、どなたなのか探るようにと」
まるで、自分のことをも納得させようとしているかのようなゆっくりとした言葉に、右京は、やはり、と思いこそすれ、驚きはしなかった。ただ一瞬、ざわりと何か嫌な感触が胸のうちを過るのを感じた。
「───して、いずれのお方であられたか」
右京の問いかけに、茅野はほんの僅かだけ顔を上げたが、それでも床を見つめたままに答えた。
「あの……大納言家でございました……」
茅野の消え入るような声に、右京は畳みかける。
「大納言家のどなたであろうか。確かご嫡男は右近衛少将を務めておられたかと」
「……いえ、あの……ご三男、中務大丞さま、でございます……」
茅野は言葉に詰まりながら、なんとかそう伝えた。
都の貴族の邸に勤めれば、たとえ茅野のような年端のいかぬ小娘であっても分かる、殿上人ではないその男の位が、摂関家に連なる家に生まれた姫君との恋にはどれほどの問題であるかを。茅野はまた、ひたすらに頭を床にすりつけた。
茅野の報告に、東の対には沈黙が落ちた。大殿油だけが、じじじ、と音を立てる。
やがて、結子は、は……と息を零し、緊張の糸が切れたかのように強ばった身体の力を抜いた。
右京は一切表情を崩さぬまま、しばらく何事かを考えているような様子を見せたあと、冷静に、言い含めるように言った。
「よう、分かりました。茅野、このことは他言無用。よろしいな」
「はい、もちろんでございます。……それから、あの……」
「まだ何かあるのか?」
「これを……」
茅野はおずおずと、桜の小さな枝に結ばれた文を差し出した。ゆるりとそちらに視線を向けた結子がまた、小さく息を呑む。
右京はじっと、その文に視線を落とし、それから、早う姫さまに、と呟いた。
文遣いの役目を果たすことを許された茅野は、申し訳なさそうな弱々しい笑みを浮かべながら文を手渡すと、一礼して闇に吸い込まれるように妻戸から出て行った。
「───さて」
かたんと妻戸が閉じると、右京は結子の方に向き直った。結子は届いたばかりの文を膝に載せ、見るでもなしに視線を落としている。その様子は、先ほどのように儚く心許なげだ。
「そういうことでございましたか」
右京は、独り言のようにそう、ぽつりと呟いた。
「大納言家のご三男、中務大丞さま……わたくしは存じ上げませぬが……そのお方とは、いつ?」
結子は問われても、しばらくは身じろぎもせず黙ったままだった。それから、文を見つめたまま言った。
「───宴の日、箏をいつ運ぶか右京に訊きに行ってもらった時に……。わたくしの弾く箏を、お聴きになられて」
「お声をかけてこられたのでございますか」
それには答えず、結子はその瞳から大粒の涙を零した。堪えきれずに溢れ出した涙に、右京は驚いて結子ににじり寄り、袖で包み込むようにその細い肩を抱きしめる。
「いかがなされました? 姫さまらしゅうもない」
「……分からない……」
結子は、泣きながら喘ぐように続けた。
「あの方の仰ってくださった言葉に、わたくし……」
「なんと仰られたのですか?」
右京は結子の肩を強く抱きながら、まるで赤子をあやすかのように優しくその背を撫でた。
「わたくしの箏が心に沁みたと……もっと聴きたいと……。お顔だって知らない……」
そう言ってぽろぽろと涙を零す結子を、右京は言葉もなく見つめる。
ただ、その言葉だけで、互いに見も知らぬ若いふたりの心は触れ合ったというのか───箏の音を介して。
あの時、右京が東の対を離れたのはほんの僅かな時間だった。寝殿に赴き、箏を運んで貰うために二人の女房に声をかけ、そしてまた戻った。あの、ささやかな日常の一瞬に、姫さまはその人生を変えるやもしれぬ出逢いをしたというのだろうか。
右京は、困惑の涙を流す結子の肩を撫でさすりながら目を閉じた。
きっと、そうなのだろう。ただそれだけで、その一瞬で、純粋なふたりの心は呼び合い、惹かれ合ったのだ。そのようなものではないか、恋なんて。
「……そして、お文が参ったのですね」
噛んで含めるような右京の言葉に、結子はこくんと頷いた。
「では、このお文は二度めの?」
まるで頑是ない子どものように、涙を零しながらまたこくんと頷く。そんな結子の涙を指で払って、右京は微笑んだ。
「では早う、お読みあそばしませ。右京はあちらに行っておりますゆえ」
「右京」
真っ赤になった瞳で、結子は右京を見る。
「今まであまたのお文をいただいても、ただの一度もご興味を示されなかった姫さまでございますもの。右京とて、姫さまがお幸せになられることを望んでいるのでございますよ」
そう言うと、右京もまた結子を残してそっとその場を離れた。
まるで雲の上を歩いているような覚束ぬ足取りで、ようよう自分の小さな局に向かう。すっかり日も暮れて、闇に冴え渡る冷気が鋭さを増していた。
中の君が───姫さまが、恋をなさった。
それは、結子を赤子の頃から育ててきた右京にとって、あまりにも突然だった。急に自分の手を離れ飛び立ってしまったような、この淋しさはなんであろう。
局に戻った右京は、闇に沈んだ空間でしばし立ち尽くし、それから、燭を灯すこともせぬまま円座に座り込んだ。
先ほどの結子の泣き顔が脳裏に浮かんだ。愛おしさに、ふふ、と笑みが浮かび……そして、涙も浮かんだ。
どうか、大切な姫さまがお辛い思いをすることがありませんように、と思わず手を合わせる。
大納言家のご子息であるならば、殿にとってもご不足はないはずだけれど、中務大丞といえば六位、なぜ未だ殿上できぬご身分なのか。殿……あのお父君のことだから───
不吉な予感を、右京は必死で追いやろうと祈った。
どうかどうか、姫さまの流す涙が、幸せなものだけでありますように。右京はひたすらに祈り続けた。
桜萌黄
表が萌葱、裏が赤花。
若葉と一緒に咲く山桜を表したといわれています。
大殿油
宮中や貴族の邸で使った、油の灯火。




