三 花の宴
とうに陽も落ち、寝殿の南庭からは楽の音が途切れ途切れに聴こえてきていた。時折吹く風に乗り、客人たちが笑いさざめく声も届く。
結子は薄暗い御帳台に引き籠もり、燭の灯が小さく揺れる中、ひとり脇息に寄りかかっていた。
本当なら今頃は、寝殿の御簾の内で箏の一曲でも披露させられているはずだった。結子は、ほ、とため息をついて脇息に頬を寄せる。
父の言いつけに、これほどまではっきりと背いたのは初めてだった。己を品定めされるような宴を避けられたことに安堵しながらも、どこか父に申し訳が立たぬような罪悪感に苛まれて、結子は脇息に臥せ、ぎゅっと眼を閉じる。
───大切なのは家柄でも位でもないの。ただ、貴女たちを心から想うてくださる殿方の許で穏やかに過ごしてくれることだけが、この母の願い。
いまわの際まで娘たちの行く末を案じていた母の思いを、結子は姉妹の誰よりも深く感じていた。
あまりにも違い過ぎた父と母の姿。どれほどに母が素晴らしい女であろうとも、そしてまた、他の幾人もの女人に通おうとも、父は己を想う以上に人を想うことなどなかった。
そんな夫との暮らしの果てに、娘たちに向けて語った切実な言葉を、結子は胸のうちで噛みしめる。
───貴女を心から想うてくださる方と、穏やかに。
「山吹の花色衣ぬしやたれ 問へどこたへず くちなしにして」
そっと、古今集の歌を呟いてみた。先ほどの公達に名を問われた時、咄嗟に使ったものだ。
───山吹の花色のような衣の、あの方はどなたでしょう? いくら訊ねても答えてはくれませぬ、だってくちなしなのですから。
梔子の実は、布を美しい山吹色に染める。
誰かと問われても梔子(口なし)ゆえ答えないのです、という結子の返事を、あの公達はすぐに理解してくれた。
恐らく、今までに文を寄越したこともなければ、この邸に来たこともなかったはず。
浮ついた他の公達のように戯れに声をかける女人を探していたのではなく、もしかしたら本当に邸を見てまわっていて、たまたま結子のいる対に辿り着いたのでは───
そのようなことをあれこれと考え、そして、心の中がすでにあの公達のことでいっぱいになっていることに気づく。
ああ……どうして、さっきからあの方のことばかり考えてしまうのだろう?
だいたいなぜ、宴にも出ずこんなところに隠れているの?
そうして、ふと思った。
あの方は、まだここにいらっしゃる……?
結子ははたと顔を上げた。
愚かなことだと分かっている。けれど一度芽生えた思いは打ち消しようもない。
いつだって冷静で、あまり感情を露わにしない結子の心が今、強く求めていた。今一度あの方のお姿を、と。
結子は泡立つ心を抑えかねて立ち上がると、桜*の袿を羽織り直し、そっと妻戸から顔を覗かせた。誰もいない。結子は衵扇を翳し、足音を忍ばせて渡殿を越え、寝殿の妻戸に身を滑り込ませた。
亥の刻*も近づき、すでに宴席は乱れ、酔いに任せて大声で詠ずる者、半分烏帽子も取れた姿でうたた寝する者、女房の曹司を覗こうとしている者など、なんとも言えない雰囲気が漂っている。
結子はこっそりと、蔀戸の陰に隠れて御簾越しに様子を窺った。あの方は柳*の衣を着ておられた。どこぞにいらっしゃらぬか───
方々を見てみたけれど、それらしい色目の衣は見当たらなかった。
このような宴はお嫌いと仰っておられたもの……もうお帰りになられたに違いない。
どこかでほっとする思いを抱きつつ、それでも諦めきれずに目を凝らしていると、あら、と甲高い声がした。
「お姉さま、どうなすったの? こんなところに隠れて。お加減がお悪いんじゃなくって?」
背後から突然声をかけられて、結子は息を呑んだ。三の姫任子が、自分の対に戻るところらしい。
「今頃出てこられても遅いわ。もう、わたくしたちは下がるところ。ああ……久々に楽しかったわ」
着飾った姿でうっとりと言う任子に、のろのろと振り返った結子はそう、と呟いた。
「右近少将さまに左衛門督さま。弾正尹の若宮さまもおられたわ。御文も……」
任子は胸元から数通の文をちらりと見せて、うふふと笑っている。
いつもなら、その軽薄さをたしなめたくもなるはずだが、今日の結子はそれどころではない。
右近少将、左衛門督に弾正尹宮───皆、以前から幾度となくこの邸に出入りしている、いずれ劣らぬ遊び人たちだ。話し方で分かる、あの方ではない。
「ほかには……どなたがいらしてたのかしら?」
生真面目な姉がこのようなことを、しかも任子に尋ねるのは本当に珍しい。任子は目をまるくして結子を見返した。
「なあに? お姉さまったら……そんなに気になるなら、お姉さまもお出になればよろしかったのに。ほかには……」
そこまで言って小さく首を傾げながらしばらく考えていた任子は、あっけらかんと続けた。
「もう忘れちゃった。……わたくし、もう眠いの。行っていい?」
ふあ、と欠伸をする任子に、結子は困ったように微笑んで、もちろんよ、と答えた。
女房たちを従えて西の対へと帰っていく任子の背を見送りながら、結子は小さくため息をついた。もう一度南庭を見渡してみたけれど、やはりそれらしい人は見当たらなかった。
間延びした楽の音だけが響いている。なんだか、自分がひどく馬鹿げたことをしている気がしてきた。
どこの誰かも分からぬ、どのような人かも定かではない、そのような殿方のために、己は今、何をしているのだろう?
結子は唇を噛んだ。いつもの冷静さと一緒に醒めた感覚が身体に戻ってきて、急にとてつもなく気恥ずかしくなった。
もういい……わたくしも、戻ろう。
酔った客人に見つからぬよう気をつけながら、行きと同じように扇を翳して東の対へ向かう。
遣水の上にかかる渡殿の手前から、燈された篝火の灯りに浮かぶ東の対の桜が幽かに見えた。
あの方も、あの桜を美しいと仰っておられたっけ───
そこで、結子ははっと息を呑む。
確かにさっき、かの人が立っていたあたりから立ち去る、背の高い人影があった。暗闇に、灯を受けてぼうっと浮かび上がる柳の色目。
落ち着きを取り戻したはずの結子の心の臓が、思い切り弾んだ。そのまま、人に聞こえるのではないかと思えるほど大きく早く、早鐘のように打ち続ける。息が止まりそうだ。
わたくしはここです───気づいて、と念じ、そしてまた、どうか振り向かないで───気づかないで、と祈った。自分でもどうしたいのか分からなかった。ただ立ち尽くしたまま、かの男の背を見つめた。対屋の陰に消えて見えなくなるまで。
邸で一番美事な桜の樹から、はらはらと花片が舞い落ちていた。
桜の色目
表が白、裏が赤花
この時代の布は非常に薄かったので、表に裏の色が透けて桜色に見えたことと思います。
亥の刻
現在の午後10時頃。
柳の色目
表が白、裏が薄青(今の緑)
淡い緑色に見えたと思います。