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説得  作者: 夕月 櫻
第二章
32/58

八 十三夜

 今宵は十三夜、眉月がかそけき光を放っていた紀伊守邸での宴の夜から十日。もうじき月が昇り、人々がやって来るだろう。

 雅嗣は勾欄こうらんの角に凭れ、未だ月のない空を見上げた。僅かな花片はなびらを残すのみとなった西の対の桜が、ゆるやかな風にそのかば色の若葉を震わせている。

 物思いが増えると務めに打ち込み、あまり考え込まぬようにする性分だ。そうしてこの十日をやり過ごし……ただ、ひとつだけ決めたことがある。

 ───昔の想いには囚われぬ。

 八年という時は長い。その流れの中で己が変わってきたように、中の君だってもう、あの頃の彼女ではないだろう。東の対の桜ですら、枝を伸ばし花を増やして姿を変えたではないか。


「……さま、中将さま」


 そう、あの桜も姿を変え……より美しくなっていた。では、中の君は───

 そんなことを考えた瞬間、雅嗣ははたと視線を上げ、そして頭を振った。また、何を馬鹿げたことを。


「若君!」


 噛みつくように呼ばわれて、雅嗣はようやく我に返る。勾欄の下から見上げるように、康清が睨みつけていた。


「ああ……康清」

「何をぼうっとしておられたんですか? 何度もお呼びいたしましたのに」

「 ……いや、少し考えごとをしていた」


 はあ、と康清は怪訝な様子で首を傾げ、それから気を取り直したように言った。


「お客人がおみえです。そろそろ東の対の方へ」

「紀伊守か?」

「ええ……それに、右衛門佐うえもんのすけさま、式部大丞しきぶのたいじょうさまもすでにお待ちでございますよ」


 早う、と康清が急かし、雅嗣はゆるりと腰をあげた。そこへ、康清がそっと近寄る。


「若君、あの……」

「うん?」

「紀伊守さまご一行の中に、見覚えある女房がいたのですが……」


 少しばかり言いにくそうに、康清はもごもごと続けた。


「ええ、懐かしい顔です。あの……かつてここにおられた御方の……」


 すでに康清に背を向けていた雅嗣は、振り返ることなくちらりと視線だけを動かした。その背に向かって、康清が続ける。


「おれの見間違いでなければ、確かに茅野かやのどのか、と」

「……」

「若君、これはいったい───」

「まあ、そういうことだ。わたしは気にしておらぬゆえ、おまえも気にするな」


 中の君に再会したことを、康清には伝えていなかったのだ。さぞ、驚いたことだろう。黙り込んだ康清の、物問いたげな視線を背に痛いほど感じながら、雅嗣はそのまま東の対に向かった。




 そこはまだ、結子の知る二条堀川邸のままだった。

 やしきを出てまだほんのひと月しか過ぎていないのだから、当然といえば当然なのだけれど、それでも結子は嬉しかった。

 邸のそこここに漂う懐かしい空気。母の記憶に繋がる愛おしい場所。

 本当は、来るつもりはなかった。手放した邸がどのように変わってしまったのか、この目で確かめるのは辛い。それに……また、雅嗣に会うことになるかもしれぬことも怖かった。でも、任子とうこ護貞もりさだにどうしてもと請われ、仕方なしに承諾した。

 女房に先導されて、元は自室であった対屋たいのやに客として入るのもおかしな心地だ。もう葉桜となったあの樹が目に入る。簀子すのこには、幾人かの公達が座っているのも見えた。思わず衵扇あこめおうぎで顔を隠し、そのまま渡殿わたどのから妻戸つまどをくぐって素早く東の対に入る。

 すぐに、几帳きちょうの陰から朗らかな声が響いた。


「よう、参られました。ささ、こちらへご遠慮なく」

「北の方さま、このたびはお招きくださり……」


 結子が挨拶すると、おおよそ高貴な身分の女人とは思えぬ気安さで几帳がつい、と動かされ、佳子が顔を覗かせた。目が合って、思わず息を呑む。やはりどことなく、あの方に似ておられる。


貴女あなたが中の君ね? お会いできて嬉しいわ」

「こちらこそ……」


 示されたしとねについた結子は瞳を伏せたまま答えた。あの方のお姉さま。そう思うだけで、ややもすると心が掻き乱されそうだ。


「ああ、そんな畏まらずにお顔を上げてくださいな。貴女のことは、よく伺っておりますのよ」


 その言葉に、とくん、と結子の心の臓が弾む。誰から?


「ほら、先日の宴の折に。怪我をした一郎君のお側についておられたのだとか。なんてお優しい方」


 ああ……その時のこと、と結子は胸を撫で下ろす。こんなにもにこやかに迎えてくださるこの方は、きっと昔のことなど何もご存じないのだ。瞳を伏せたまま小さく息を吐き出した結子の肩から腕を、佳子がそっと撫でた。


「お美しいこと」

「……母の形見で、古いものですが」


 結子の纏う菖蒲の襲*のきぬは、母が気に入っていたうちのひとつだった。二条堀川に戻るなら、と選んだものだ。

 結子の言葉を聞いて、佳子が、まあ! と声をあげて笑った。


「わたくしは貴女のことを申しましたのに」

「……」

「本当、美しい衣ね。古さなど感じないわ」


 結子は思わず顔を赤らめてうつむいた。そんな結子の手を取って、佳子は優しく続ける。


「……このお邸のことでは、貴女もずいぶんとお悩みになられたことでしょう?」


 結子を覗き込むように見た佳子の顔にあるのは、同情ではなくあたたかな思いやりだ。今改めて、このひとに邸を任せたことは間違いではなかったのだと感じた。きっと右大臣家の人々は優しさを知っているのだろう……雅嗣がそうであったように。

 結子は一度深く息を吸い込むと、吹っ切るように初めて顔を上げた。


「いいえ、このように大切にお使いいただいて、本当に感謝しております」


 そう言って微笑んだ時、少し離れて御簾の側にいる初音の君と若菜の君が楽しげに声をあげて笑い、結子は思わず振り返った。後ろに控えた任子だけでなく御簾の外の人たちも皆、同じように笑っている。


「何を話しているのかしらね」


 そう言って、ふふ、と小さく笑った佳子は、結子の手を離して脇息を引き寄せると、鷹揚に凭れかかった。


「わたくしの弟も来ておりますの。ご存じかしら? 頭中将」

「……ええ。お名前はもちろん」


 ささやかな嘘をついた。後ろでもう一度大きな笑い声があがり、佳子は苦笑混じりに言った。


「今日は、弟の友人たちも一緒でしてね。右衛門佐どのに式部大丞どの。実は……」


 そう言って彼らの方を見遣った佳子は、はらりと扇を開くと口許を隠し、結子に聞かせるともなく言った。


「式部大丞どのは、半年ほど前に想い人を亡くされたばかりなの。右衛門佐どのの妹姫だったのですが」

「……まあ」


 思わぬ話に、結子はなんと答えていいのやら分からず黙り込む。


「不躾にも他の男君をお招きしていて、紀伊守どのや貴女には本当に申し訳ないわ。でも、あの姫君方と時を過ごせば少しは気も紛れるのではと、弟も申すものですから」

「……ええ」

「功を奏したようね」


 佳子はそう言って淋しげに一度、ふ、と笑うと、扇を閉じて掌に打ちつけた。


「さあ、悲しいお話はおしまい。さて……どちらの姫君をお気に召したのかしら、我が弟は。あのように楽しそうにしている姿を見るのは、久しぶりなのですよ」


 結子はそ知らぬ振りでそっと衵扇を開くと、呟くように言った。


「二人とも、素直でお可愛らしい姫君ですわ」

「わたくしもそう思うのですけれどね。弟自身はどう思っているのやら……。そろそろ、などと本人も申しておりましたけれど、いったいどこまで本気なのか」


 佳子がこぼす言葉を、結子は心乱されてはならぬと念じながら聞いた。


「頭中将さまほどのお方ならば……きっと……」


 言いながら、声がかすれた。くちびるを引き結んでなんとか微笑みを浮かべると、結子はいたたまれない気分で皆がいる方へと視線を向けた。

 俄かに女房たちが立ち働き出しており、楽器が運び込まれている。そのうちの一人がこちらへやって来て、佳子の前で伏した。


「北の方さまのきんことを、皆さまがご所望でございます」

「あら……」


 少し困ったように結子を見た佳子は、それでも嬉しそうに脇息から身を起こした。


「中の君もご一緒に……」


 そう言われたのを、結子が静かに首を振って断ると、佳子は、そう? では、と藤の襲*の裾を鳴らして席を立った。

 結子はほ、と息をつき、ようやく落ち着いて対屋の中を見渡す。つい先日まで己が住まっていたその空間は、室礼しつらいこそ変わっていたものの、醸し出す雰囲気は変わりなかった。それは、邸が持つ空気を壊さぬようにとの佳子の心遣いでもあろう。

 佳子が琴の琴を膝に載せ、対屋の空間を満たすように奏で始めた。佳子がこの高貴な楽器を得意とするのは、かつて右大臣が佳子を帝へ奉らんと考えていたがゆえ、といつか雅嗣から聞いたことがある。二条堀川でこのを耳にするのは初めてで、結子は物珍しく聴いた。やがてそこに雅嗣の笛が重なる。きっと、幼い頃からこのように姉弟で合奏していたのだろう、息の合ったその音色は、ちょうど昇ってきた十三夜月の照り映える輝きにも似て、冴え冴えと美しかった。

 初めて間近に聴いた雅嗣の笛を、結子は瞳を閉じて心震える思いで聴いた。この二条堀川で、雅嗣の笛を聴く時が来るとは。それは、思いもよらぬ状況ではあったけれど、このようなかたちでも叶ったことは、きっと幸せなことなのだ。

 庭の方から、時折藤の甘い香りが漂ってくる。

 佳子の奏でる琴の琴の音が止み、雅嗣の笛の音も闇に吸い込まれて消えた。微かなざわめきが続き、やがて少しばかりたどたどしい若菜の君のそうの琴が鳴り出した。まだまだ若い彼女の懸命な演奏に、場の雰囲気が微笑ましいものに変わり、やがてまた、そこに雅嗣の笛が重なる。雅嗣の助けを得て、若菜の君の音はみるみる艶めいていく。

 結子はふと、目を開いた。愛らしい桜の細長ほそながを着た若菜の君が箏に向かい、下がり*のはらりとかかる横顔をほんのり染めているのが見えた。


───さあ、どちらの姫君をお気に召したのかしら、我が弟は。


 結子は身動きもできぬまま、その姿をじっと見つめる。

 気づいてしまった───どちらを、という問いの答えは、若菜の君だと。きっと、若くて輝くように笑う可愛らしい姫君に心惹かれたのだと。

 やがて一曲を終え、恥ずかしげに微笑む若菜の君から、結子はそっと目を逸らした。不思議と動揺はなかった。八年前には己も持っていただろうその輝き、今の結子が失ってしまったその若さを、ただただ眩しく思ったのだ。

 諦めにも似た境地で、静かに視線を庭へと移す。御簾の向こうですでに闇に沈む庭でも、どこに何の花を咲かせるのか、結子には手に取るように目に浮かぶ。そうして視線をゆるりと動かした先に、いつの間にか一人の公達が憂いに沈んだ様子でぽつんと座り込んでいた。高欄に腕を置き、片膝を立ててじっと闇を見つめるその姿に、結子は声をかけるべきか、しばらく逡巡した。

  恐らく、想い人を亡くしたという式部大丞であろう。わたくしに何かできるであろうか? 意を決して御簾に寄ろうと腰を浮かせた結子の許に、佳子がまた、いざり寄ってきた。


「ねえ、中の君。次は貴女が弾いてくださらないこと?」

「え……? でも……」


 結子はちらりと御簾の向こうの人影に目を遣った。


「貴女、素晴らしい箏を弾かれるそうね。ぜひ聴かせていただきたいわ」

「それほどのことは」


 任子が言ったのだろうか。結子は戸惑い、なんとか辞退しようと言葉を探す。だって、あの方の前でなど弾けようはずがない。


「あら、弟があれほど褒めるのですもの。あれでも弟の耳は確かよ。なんでも昔、宴の席で聴いたことがあるのだとか?」


 思いがけぬ言葉に結子はそれ以上拒むこともできぬまま、楽器の前へと連れて行かれてしまった。

菖蒲の襲

青(今の緑)、淡青、白、紅梅、淡紅梅、白を順に重ねた襲。


藤の襲

薄紫〜白のグラデーションを使った襲。


下がり端

女性の長く伸ばした髪のうち、前髪の一部を頬から肩くらいの長さで切りそろえたもの。

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