二 出逢い
宴の客人の誰かが、こちらに迷い込んでしまったのだろうか。右京がいれば代わりにうまくかわしてもくれようが、今は結子独りきりだ。
「……ここは東の対屋でございます。場所をお間違いではございませぬか?」
御簾の陰にいる男に向かって声を落として言うと、すぐさま潜めた声が返ってきた。
「いえ、少しばかり早く着いてしまったので、邸を拝見させていただいていたのです。そうしたら、箏の音が聴こえたものですから」
「……」
まあ、白々しい。女の許に忍び入る常套文句そのものではないか。先ほどまでの感傷的な涙もすっかり止まり、結子は冷ややかに考えた。
早いところ追い返さないと、右京に見られでもしたら何を言われるか分かったものではない。
「お恥ずかしゅうございます、ほんの指ならしでございましたのに。陽も落ちて参りました、宴も始まりますゆえ、どうか───」
「そんなことはない、まこと素晴らしい音色でした。心に沁み入るような……弾いておられる貴女の心が伝わってくる気がしました」
遠回しな拒絶の言葉を、たたみかけるように否定する男の真摯な声に、結子は鼻白んだ。
こんな風に殿方の相手をしたことは初めてではない。でも、今までの相手は大概もっと浮かれた調子で、軽薄に笑いを滲ませ、からかうように声をかけてくるのが常だった。だから、面白げのない返事を返していれば、そのうち相手も興を削がれ、立ち去ってくれるのだったのだけれど。
「……ここは本当に美しいですね。亡き北の方さまが愛された邸と聞いています。このような邸には、賑やかな音曲より一面の箏の音の方が、よほどふさわしいのに」
それは、思いもかけぬ言葉だった。まるで己の心の中を見透かされたかのようなその言葉に不意を打たれ、箏を押しやる手を止めた結子の耳に、また、呟きのような男の声が聞こえた。
「貴女は、そうは思われませんか? 私は、このような宴は苦手なのです……本当は」
いったい、この方はどなたなのだろう?
結子は初めて声の主の方に視線を遣ったが、御簾の向こうにはわずかに柳の衣の袖しか見えなかった。
今まで、この邸に来たことのある公達ではなさそうな……このような、実直な物言いをなさる方はいらっしゃらなかった。
「あの……不躾なことをお伺いしてもよろしいですか? 貴女は……?」
黙り込む結子の気配をどう思ったのか、再び男の声が聞こえた。貴女は誰か、と問うているらしい。こんな風に名を訊いてくるなど、あまりにも無礼で、そしてまっすぐ過ぎる。
なのになぜか、なぜだか、素直に答えてもいい気がした。二の姫、中の君と呼ばれている者です、と。けれど、やはりそれはあまりにも慎みのないことだろう。
結子は小さくうつむき、御簾の向こうに届くか届かぬかというような、か細い声で答えた。
「……山吹の花色衣、とも申します」
その男はしばらく黙り込み、それから少し身じろぎしたような気配があった。
「くちなし、ですか」
結子のかけた謎をいとも簡単に解いて、その男はふふ、と初めて笑った。にわかに吹いた風に、御簾が揺れる。
「分かりました。これ以上の無理強いはいたしません。その代わり」
男は、そう言いながら身体を御簾の方に寄せてきたので、その横顔の影が少しだけ見えた。思いのほか、すらりと背が高い。
「もう一曲だけお聴かせいただけませんか?」
どうしよう。
「あの……」
「もう一曲お聴かせいただければ、気乗りせぬこのような宴に来た甲斐もあるというものです」
「まあ」
そのように言われてしまっては、どこか申し訳ない気持ちにもなる。宴を催す側の身としては、弾かぬわけにはいかぬような気がした。否……本当はきっと、聴いていただきたいのだ。
結子は小さく息をつき、一度は押しやった箏を再び自分の許に引き寄せた。糸に指が触れ、幽かな音が鳴る。
弾く準備を整えていることが伝わったのだろうか、男は少しうわずった声で言った。
「貴女のところからも見えるでしょう、ほら、その桜は殊のほか美しく咲いている。貴女の音をいつも聴いているからでしょうか」
結子はちらりと視線を上げて、きっと男が指しているのだろう桜の樹の方に視線を向けた。そう……その花こそ、この屋敷で一番美事な桜だった。結子が箏を掻き鳴らす。男は続けた。
「必ず、貴女が誰なのか、捜します。そうしたら、文を……貴女に文をお送りすることを、お許しいただけますか」
結子は答えなかった。ただ、無心に箏を奏でた。男ももう、それ以上は話さなかった。
それでもきっと、二人は分かっていた。
今、恋が始まったことを。
お互い、名も知らぬ相手だけれど、それでも、心に同じ想いが芽生えたことを。
───弾き終えると、御簾の外にはもう男の気配はなく、代わりに、側に右京が控えていた。
「ずいぶんと、ご熱心にお弾き遊ばされておられましたな」
そういうと、右京は後ろにいる女房二人に箏を指し示し、これを、と声をかけた。女房たちはそそ、と近寄ってきたが、結子は待って、と二人を止めた。
「ごめんなさい……右京、わたくし、気分が悪いの。今日は宴に出られそうもない」
顔を伏せ、袖で口を覆ってそう言うと、右京は少し怪訝な顔をして結子を見た。
「まあ……つい先ほどまで、あんなにお元気でございましたのに」
「何だか変なの。宴に出ても、箏など弾けそうにないわ」
「困りましたねえ。姫さまらしからぬわがままですこと。殿がなんと仰ることか」
右京はため息をついたけれど、それでも、結子がこのようなことを言うのは尋常ではないと判断したのだろう、女房たちを引き連れ、なんとか義照の許へ話しに行ってくれたのだった。