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説得  作者: 夕月 櫻
第一章
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二十 決意

「中の君……少しは落ち着かれたかしら……?」


 雨の匂いを引き連れて東の対に入ってきた逸子は、さわさわと衣擦れの音をさせて結子のそばに寄った。結子は涙で赤くなった瞳を伏せがちにして、乱れかかった髪を整える。


「宮の方さま」

「そのご様子だと、もうお父さまとお話なさったのね」


 そうして結子を覗き込む逸子の顔には、憐れみの表情が浮かんでいた。


「厳しいことを言われたのね? お辛いお気持ちは分かるわ。お可哀想に」


 逸子は哀しげにそう言う。結子はそれを、冷え冷えとした心で聞いた。何をお分かりだと仰るのか。


「でもね、きっと時が癒してくれます。あなたはまだお若いのだもの」


 結子の心のうちなど気づいておらぬかのように、逸子はなおも続ける。

 逸子は、それが真理であり正しい行いなのだと、信じて疑っていない。そして多分、それは義照や逸子に限った話ではない。位や家格といったものが絶対至上のものである、という考えこそが、結子のいる貴族社会の人間たちを彼らたらしめんものとしているのだ。

 耳を塞いでしまいたい。出て行ってと叫びたかった。

 だけど、母代わりでもある逸子が相手であれば、それも叶わぬ。

 雨の音が強くなった。逸子はまだ、話し続けている。結子はいつしかうわの空で、ええ、とか、はい、とか返事をして、だけどまったく話を聞いていなかった。

 さっき、思い至った考えを、頭の中で何度も反芻する。

 ───ともにいることであの方の人生を狂わせてしまうのなら、離れることで、あの方の人生を守ることもできるのだろうか?

 雅嗣の行く末を阻みたくない。悲しいと、嫌だと泣いたところで、まわりの考えはきっと何も変えられぬだろう。ならば、結子にできることは───


「───そう、思いませんこと? ……中の君?」


 結子ははっと現実に引き戻された。


「中の君、聞いていらっしゃる?」

「え……ええ。いえ……宮の方さま、ごめんなさい、わたくし───」


 結子が言い淀み、脇息から身を起こしたその時、茅野に呼び出されていた右京が慌てた様子で戻ってきて、結子にこっそりと告げた。


「……若君さまがおみえでございます」

「なぜこのような刻に!? 今日はお目にかかれぬと……」


 まださるの刻*あたり、薄暗い雨空とはいえ、人目にもつこう。結子は思わず声をひそめて問い返し、怪訝な顔で自分を見つめる逸子に気づいて言葉を呑んだ。


「恐らくは、お文が届く前にもう……」


 右京の囁きに思わず目を瞑った。

 泣いていても仕方がない。今のわたくしにできるのは、あの方をお守りすること。

 結子は心を落ち着かせるために一度、大きな息をついた。心弱い自分を奮い立たせるかのように。


「右京、今すぐひさし*にも御簾を」


 結子の声が変わったのを感じたのだろう、右京はただ、主人の言うことに粛々と従う態度を見せた。


「はい、ただいま」

「すべて下ろして頂戴。それから、きっと濡れておられるでしょう。……茅野」


 結子は若い女房を呼んだ。茅野は、承知いたしました、と出ていく。右京もまた、てきぱきと御簾を下げ始めた。


「宮の方さま、かの方が」


 右京が御簾を下ろしていく音を背に結子が伝えると、様子を窺っていた逸子はまあ、と声を上げた。


貴女あなた……中の君、どうなさるおつもり───」


 逸子が最後まで言い終える前に、雅嗣が御簾の外に姿を現した。同時に梔子くちなしが微かに香る。後ろからついてきた茅野が慌てて濡れたきぬを拭ったが、雅嗣は構わぬと手で制した。

 二藍ふたあい*の、くれないの強い鮮やかな色合いが、御簾を通してうちにまで届く。その姿から滲み出る雰囲気に、きっと逸子は気づくはずだ。位に捉われることが、如何に愚かかを。

 御簾のうちに入れてもらえぬことに戸惑いながらひさしの間に腰を下ろした雅嗣が何かを言う前に、結子は右京に代弁を頼む。


「大丞さま。先日お話しいたしました宮の御方さま───式部卿宮さまの妹宮さまがいらしておられます」

「これは……」


 雅嗣は居住まいをただし、頭を下げた。

「ご無礼をいたしました。大納言が三男、中務大丞にございます。以降、お見知り置きを」

貴方あなたが……」


 逸子はそう言いながら、扇で口許を覆った。そして、じっと品定めをするような視線を御簾の外に向けたまま、結子に耳打ちした。


「中の君。かの方は何かご用事があって参られたのでしょう。わたくしはそろそろ、おいとましたほうがよろしいようね」


 そうして、失礼いたしますわ、という代弁を右京に伝えると、そそくさと立ち上がる。逸子からは、雅嗣に対する何の感情も見えなかった。ただ、妻戸の方へ向かう前に一度、立ち止まって結子を振り返ったその目には、お分かりね、と念を押すような暗い光が宿り、それはまた、結子を追い詰めた。

 やがて逸子が妻戸から姿を消すと、御簾で隔てられた空間には雅嗣と結子、控える右京が残った。降り続ける雨を抱き込んだ空気が、重苦しく垂れ込めている。しばしの沈黙のあと、御簾を上げようと右京が立ち上がった。結子はそれを押しとどめる。


「───右京。御簾はこのままでいいわ」


 御簾の内と外で、それぞれ息を呑む気配が伝わった。


「このままでいいの。右京は下がっていて頂戴」


 右京は立ったまま真意を探るように結子を見つめ、それから、黙って一礼すると静かに出て行った。

 御簾の外では、雅嗣が半ば腰を浮かせたまま、解せぬといった様子で中を窺っている。


「───なぜ?」


 上げられぬ御簾の前に再び腰を下ろし、ようやく口を開いた雅嗣から出てきた言葉は、ただその一言。


「大丞さまこそ、なぜ、おいで遊ばされたのですか? しかも、雨に紛れてとはいえ、まだ陽のあるうちに」


 御簾のうちから聞こえるのは、まさしく結子の声。しかしそれはいつもの甘やかなものではなく、初めて出逢ったあの日のように強張っている。


「なぜ、とお尋ねになられるのですか……?」


 昨夜あのような別れ方をした貴女に一刻も早く逢いたかったから、という言葉を、雅嗣はなぜか言うことができなかった。そして、ふと視線を落とす。


「……明日は端午ですから、これをお持ちしたのですよ」


 ただそれだけを言いながら、雅嗣はなんとか場を和ませようと、手にした薬玉を掲げた。


「明日は節会せちえ*があり、こちらには伺えないのです」


 あ……、と結子のくちびるから声が洩れた。端午など、ここ数日の騒ぎで頭にもなかったから。


「……ありがとう、存じます」


 消え入りそうに礼を言う結子に、雅嗣も静かに尋ねる。


「なぜ、このような隔てを置かれるのでしょう?」


 感情を抑え、努めて冷静になろうとしているその声を、結子は目を閉じ、両の手で袿の袖を握り締めながら聞いた。雅嗣の声、姿、その気配すらも、すべてが慕わしく愛おしい。今すぐにでも、御簾を上げてしまいたいのに。


「───わたくし……わたくしは」


 感情のこもらぬ声で絞り出すように言いかけ、言葉に詰まる。なぜ、なぜ、と心が怯え震えている。これから己が起こすことに、もうすでに怖気づきそうだ。


「父君が、何か仰られたのですか?」


 雅嗣は、ゆっくりとそう尋ねた。


「それならば、貴女は何もお気になさらずともいいのです。わたしは、何を言われても構いません。貴女さえいてくだされば」

「わたくしは───」


 声が掠れる。言葉が意思を持って、喉から出ることを拒んでいるかのようだ。


「───もはや、大丞さまのおそばにいることは……できませぬ」


 ああ……言ってしまった。

 言葉となった瞬間、それは圧倒的な現実となって二人を襲う。ぱさり、と薬玉が床に転がる音がした。


「わたくしをお訪ねくださるのは、今日を限りとしてくださいませ」


 震えながら飛び出した、追い打ちをかけるかのようなその言葉は、そのまままっすぐ雅嗣の心を突き刺した。


「……何を仰っておられるのか、分からぬ」


 雅嗣の声に、初めて焦りが滲む。


「わたしを中に入れてください。貴女を見て、きちんと話がしたい。そうせねば───」

「なりませぬ。こちらに来られては」

「中の君……!」


 吐き出すように言うと、雅嗣は御簾ににじり寄った。


「いったい、何があったのです。昨日はあれほど……」


 抱きしめ合い、互いを愛おしく想う気持ちに包まれて時を過ごしたではないか、を教えてくださった、あれはなんだったのか───御簾を通して、雅嗣の射るような視線が結子を貫く。

 結子もまた、雅嗣を見つめる。御簾越しでも分かる、これほどに厳しい表情の雅嗣を見るのは初めてだ。けれど、ここで怯んではならぬと声を絞り出した。


「───大丞さま」


 雅嗣さま、と呼びかけなくなったことにお気づきだろうか。


「大丞さまは、前途あるお方。わたくしよりもっと……貴方あなたさまをお助けできる、ふさわしいお方もおられましょう」


 言いながら本当は、そのことを想像するだけで倒れてしまいそうだ。いつかこの方に、ほかの女人が寄り添われるやもしれぬなど。


「───やはり、お父君に何か言われたのですね? だから、わたしから離れようとしておられる」


 風が吹き、御簾が揺れた。梔子の香りが流れ込んできて、また昨日の抱擁を思い出す。


「もし、そうだとしても……お父さまが何を仰ったとしても、こうすることを決めたのはわたくしです」

「中の君……ここを、開けてください。お願いだ」


 雅嗣は苛々とそれだけを繰り返し、御簾に手を触れた。雅嗣の掌の影が映る。

 ……なぜ、こんなことになってしまったのだろう。結子自身、今起こっていること───否、己が起こしていることを完全には理解できていなかった。まわりの人々の思惑に押し切られ、望みもせぬ道に一歩を踏み出そうとしている。もはやそれが正しいことかどうかすら、分からぬまま。

 涙が一筋、結子の頬を伝って落ちた。

申の刻

現在の午後4時頃。


寝殿造の建物は、真ん中の母屋もやと呼ばれる居室を囲むように廂の間があり、そのまわりを簀子すのこと呼ばれる縁が囲っていました。簀子と廂の間を隔てる蔀戸しとみどが外と内の境目で、昼間には蔀を開けて代わりに御簾を下げました。廂は通常、室内として扱われましたが、母屋との境に御簾をさげることにより、もうひとつの隔てを作ることも可能でした。


二藍

夏の衣に使った紫系の色。

当時、『あい』という言葉には染料という意味もありました。藍で染めた藍色と、くれ(中国)の藍、つまりくれないで染めた赤花色、二つの『藍』を掛け合わせて染め出した色が二藍です。藍の分量を変えることにより、赤紫〜青紫まで色味に幅があり、一般的には若い人ほど赤味の強いものを着たといわれています。


節会

宮中でおこなわれる公式行事。この場合は、端午の節会を指しています。

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