一 宴の前
山吹の花色衣 ぬしやたれ 問へどこたへず くちなしにして ─ 素性法師 ─
(古今和歌集 巻十九 雑体)
これ以上ないほど晴れた空に桜の花が負けじと咲き誇っていたあの日、邸は朝から大変な騒ぎだった。
当時、従四位上で右大弁を務めていた結子の父 義照は、もういい加減うんざりしていた北の方の喪*がようやく明けたので、その北の方の残した、花の美しさで知られた二条堀川邸に多くの客を招いて宴を催すことにしていた。
夕刻に始まる宴のため、邸のそこここで女房たちが立ち回り、調度を動かし、灯を設置し、庭では家人たちが舞台を設営している。そのざわめきの中、結子は住まっている東の対で箏の糸を調弦し、つま弾いていた。父に、宴で弾くよう言われていたからだ。
それは花の宴と銘打たれてはいるものの、その実は娘たちの婿がねを探す宴だった。
義照は多少ばかり───いや、実のところかなり顔に自信があり、それゆえ、すでに四十も目前だというにも関わらず、未だ人を美醜や位で判断するところがあった。その上、摂関家の流れを汲む前の太政大臣の孫であるという奢りもあり、要はあまり尊敬できぬ、つまらぬ男であったのだが、そんな彼には三人の娘がいた。
一の姫 晴子は十九、この娘が誰よりも父親の性質を受け継ぎ、顔つきも似ていたので、義照は溺愛していた。この典型的な世間知らずの姫君は、綺麗な衣を着て安穏と生活することだけを考えていた。一度は帝の御許にと考えないでもなかった義照も、さすがに彼女の本質に気づき、婚期を逃しつつある今は、この一の姫と兄の次男である元亘を妻合わせ、家を継がせたいと考えていた。
その一の姫ほど美しくもなく、しかし父の愚かな一面を受け継いでしまったのが十六になる三の姫 任子で、彼女はとにかく疎かに扱われることを嫌い、自分のことが優先されなければ気が済まないたちだった。やれここが痛いだの、それどこがおかしいだのと言っては病になることが好きで、そのたびにもう死んでしまうと大騒ぎし、女房たちの間でも、ああまた始まりましたよ、と、もはや、まともに相手して貰えなくなっていた。
そんな二人の姉妹にはさまれたのが、二の姫 結子である。彼女は、聡明で慎み深かった北の方に似た唯一の娘で、母亡き今、この家族の中では異質の存在だった。顔つきは一の姫ほど華やかではなかったけれど、睫が長くて黒目がちな、思慮深い瞳が印象的だった。何より彼女の容姿で素晴らしいのは、その身の丈にも余るほどの黒髪で、ふっくらとした色白のかんばせを覆って流れ落ちる様は、一の姫も敵わないのだった。
そして、結子が姉妹と決定的に違うのは、母に似て聡明であるということだった。だけど、そのような結子の美質は残念ながら愚かしい父の価値観にはそぐわず、ゆえに、この二条堀川邸の中で最も冷遇されている女性なのだった。
中身はどうあれ、とにかく妙齢の姫君が三人、となれば当然、この姉妹に想いを寄せる公達も多かった。二条堀川邸での宴はそのような者たちにとって絶好の機会に違いなく、そこにのこのこ集まってきた男たちをじっくりと品定めしてやろう、というのが義照の魂胆なのだ。
宴は夕刻に始まり、夜通し続く。結子は本当のことを言えば、そのような浮き足立った催しは大嫌いだった。皆がかしこまって楽を聴き、詩歌に遊ぶのはほんの初めだけで、あとはもう無礼講となってしまい、酒に酔い、女房たちを追いかけ回す輩も出てくる。晴子も任子もそういう浮ついた場が大好きだったから、御簾の陰でこちらの公達が、あちらの宮さまが、とはしゃぐのだけれど、結子はそれよりも、静かに落ち着いて花を愛でる方がどんなに良いか、といつも思っていた。それでも、義照の好むそのような催しを咎め、止めだてするような手段を結子は持ち合わせてはいなかった。
どうせ誰も聞いてなどおらぬ場で、弾くことより虚しいものはない。結子はため息をついて御簾の外に目を遣った。陽が傾いてきている。じきに宴も始まるだろう。寝殿の方には、もう人も集まり始めているかもしれない。
「右京、今は何刻?」
結子は箏を鳴らす手を止めて、側に控える乳母に尋ねた。
「はい、申の刻*を過ぎたあたりでございます。お客人も、そろそろ参られる頃でございましょう」
「そう……少し、様子を見に行ってくれないかしら? いつ、箏を運べばいいか尋ねてきて欲しいの」
今日ばかりは東の対の女房たちも皆、寝殿に駆り出されていて、右京の他にそこにいる者はなかった。
「承知いたしました」
右京は頭を下げると、寝殿に繋がる妻戸から出て行った。
右京の姿が見えなくなると、結子はもう一度ため息をつき、それから箏に向かった。いつも母が奏でていた曲を、母を思い浮かべながら弾くと、じわりと涙が浮かんだ。母を亡くしたのは去年の花が咲く少し前のこと。それまでの春にはともに桜を愛で、静けさの中で箏を合奏したものだった。もう、二度とお目にかかることはできぬお母さま……。
結子はふ、と手を止めた。寂しく虚しい風が、身体の中を吹き抜けていく。お母さまが生きていらしたなら、この邸での暮らしもきっと、違ったものになっていたでしょうに。
すん、と鼻をすすり、涙を袖で押さえた、その時。
「───素晴らしい音色なのに、もう聴かせてはいただけぬのですか?」
不意に御簾の向こうから男の声がして、結子は飛び上がらんばかりに驚いた。
喪
この時代、妻は90日間、父母は13ヶ月と決まっていたようです。
ここでは、母親の他界による娘たちの喪が明けた、という意で書いています。
申の刻
現在の午後4時頃。