一章:俺と僕と私
それは、約一週間前に遡る。
戦闘部隊遠征前、青友会穏健派の間で話し合いが行われた。
青友会会長のウラノを中心に各部隊の代表が集まり、一つのテーブルを囲むようにして席についた。
研究部隊の副代表として、研究部隊隊長であり自分の師であるレンズの補佐についていたラースも小会議に参加していた。『人』と『人間』、『伝説』を区別することなく、平等に接することを理念とした穏健派だが、実際に穏健派の人間が一番多く所属しているのは戦闘部隊である。戦闘部隊以外の会員は大概非戦闘員だ。主力部隊が本部を離れる間、過激派がなんらかの行動を穏健派にけしかける可能性が示された。戦闘部隊が遠征で離れる期間、残った穏健派は行動を慎むという方向性に決まった。その他、情報伝達はどうするか、何か起こったときの対処はどうするか等、細々とした動きを決めた後、会長ウラノからある任務を任された。
「『黒の少女』の噂を知っているかい?」
人の良さそうな笑みを浮かべた会長は、それ故、どのような思惑を巡らせているのか検討がつかない。ラースは二十以上歳の離れた壮年の男性にも臆することなく返答した。
「『真夜中、一四三番区の道で黒のワンピースを着た少女に触れると過去を暴かれる』。大体一週間前から流れ始めた都市伝説のことですね。噂の源は、娼館に入り浸っている四十代の富裕層の男だとか。スラム街には不釣合いな、小奇麗な少女だそうです。夜中、一人でたたずんでいたため、男はどうしたのかと声をかけ、肩に手をおくと、突然、自分の恥ずかしい過去を話されたとか・・・・・・。気味が悪いと感じた男はそのまま逃げ帰ったそうです。全く、小心者の豚貴族ですね」
「さすがラースだ。君の情報収集能力の高さと強い好奇心には毎回感心させられるよ」
都市伝説ですら延々と語り続けるラースは、仲間内に伝説マニアとして恐れられていた。あまりにも語りが長すぎるため、早々に逃げられてしまうことが多いが、会長ウラノは嫌な顔一つせず最後まで聞いてくれる。無理をしているのではないかと思うときがあるが、彼はきっと素で楽しいと感じているのだろう。彼も相当な変人だ。変人でなければ、個性と変り種の集団である青友会など引っ張っていけない。何より彼は極度の知識人で、知識マニアだ。何でも知りたい。何でも飲み込みたい。満たされない知識欲の塊を形にすると、彼のような人物ができあがる。そんな印象を持っている。
人の上に立つ人間とは思えない笑顔を見せる、自分より二十以上背の高いウラノを見上げ、一つ息をついた。
「で? 何か頼みたいんですよね?」
「うん。そうだ。聡いね」
「そんな気はしていましたから。だから勝手に独自で『黒の少女』について調べていました」
ウラノはうんうんと首を縦に振り、笑みの表情を消した。
「・・・・・・君も臭うか?」
「はい。もう、そりゃ、臭いすぎて鼻が捻じ曲がるくらいには」
「なるほど・・・・・・」
全てを吸い込んでしまう黄金の目を細め、ウラノはラースに告げる。
「危険だと思ったらすぐ引き返せ。絶対に無理はするな。引き続き、『黒の少女』の調査を行ってくれ」
無気力な表情を見せるラースは、唇を捲り、湾曲に歪めた。命令されなくとも、そうするつもりだ。
飽くることない探究心を満たしてくれるのは、何物でもない、『伝説』だけなのだから。
「了解」
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この世界には三の人種が存在する。
一つは『人』。この世で最も多い生き物である。彼らは古来より伝えられた技術を発展させ、文明を築き上げた知的生命体だ。
次に『伝説』。超人的能力を持った、『人』とは言えぬ存在である。様々な逸話で語られる彼らは、『人』から畏怖と尊敬の目で見られ、そして神と同等な存在として降臨している。
最後に『怪物』と呼ばれる人がいる。彼らは人間離れした能力を持ちながらも社会から迫害を受けている存在である。本人の意思ではないとしても、突然生命を喰らい尽くす彼らは『人』を脅かした。『人』は彼らを『怪物』と称した。
『怪物』は常に迫害の対象として存在していた。偏見、差別により不相応な仕打ちを受け、人権すら与えられることは無かった。その中で、超人的な力を持ちながら『人』である我々は神と人との間の子、『人間』であると訴えた団体が生まれた。
人権団体【青友会】。
騎士の国で生まれた青友会の活動は、国内だけではなく、他国へも影響を与えた。初代会長クロアは聡明な紳士でありながら、激しく怒る武人でもあった。
二代目会長ウラノは、クロアの意思を受け継ぎながら、『人』と『人間』、そして『伝説』が共存できる社会を望んだ。睨みあいながらも、長い間歪んでいた関係が修復されつつあった。
こうして【青友会】は現在に至る。
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メアリーは立ちはだかる光景を前に呆然とするしかなかった。
「・・・・・・ちょっと! これ、どういうことよ!?」
愛用の軽機関銃コルト式M1918を足元に置き、指示を飛ばしている様子のラースに食って掛かった。共に応援要請があったレイラの弱々しい制止を無視し、細い首にかかるシャツの襟元を掴みあげる。ラースは微かに眉を顰めたが、抵抗もせず為すがままとなっていた。瞼を下ろし、退屈そうに溜め息をつく。
「文句言う前に手を貸してくれ」
ラースからの応援要請により駆り出される羽目になったメアリー、レイラ、ジルの三人は非戦闘員であった。しかし、戦闘部隊の面々が不在の中、自由に動ける人員は限定されている。危険を承知の上でわざわざ助けに来てやったのになんだこれは。もう終わっているではないか。これでは外に出た意味が無い。私は今まで新型の銃器を模索していたというのに。
メアリーは般若に似た怒りを隠しもせず周囲を見渡す。自分の長い髪が鬱陶しかった。確かに被害はあるのだろうが、予想していたよりも小規模で済んだらしい。既に息絶えた反。そして怪我人の手当てをする無傷の人々へ視線だけ向け、ラースに聴こえるよう舌打ちした。
怪我人の救護や後処理だけであるならレイラとジルで事が足りる。否、ジルが戦闘要員に組み込まれる本来の意味はそこにあるのだ。端からラースが『反』を仕留められるとは思っていない。だが、ジルの能力を持ってすれば肉だるまのような汚らわしい物体を葬り去ることも容易となる。ジルが能力を発動するための時間をメアリーとラースで稼げば勝ち。そのような算段を立て、医療部隊のレイラとジルを警護しながら駆けつけたというのに。
メアリーはもう一度舌打ちすると、首元から手を離し、ラースを睨みつけた。
「こちとら本業じゃないのに戦闘しろって言われてきたんだけど」
腸煮えたぎっているメアリーに対し、ラースは普段通り朴訥な態度で肩を落とす。
「戦闘する暇が省けたから別にいいだろ」
「そういう問題じゃなくてねえ!」
臨機応変。その言葉の意味は理解できる。しかしメアリーは自分の予定が狂わされるのを良しとしない性分だった。周囲を敵とみなすこの姿勢も幼少時から変わらない。納得がいかない。今回は新型の銃器を試用してみようと計画を立てていたのに、これでは欠陥や特徴が把握できないではないか。
憤怒で脳を真っ赤に染めたメアリーの両肩に手を置き、下品な笑い方をした男の存在を察知した。
「いやぁんお嬢さん。そんなぴりぴりしてっと男なんか寄ってこないわよぉん」
メアリーは口を閉ざし、その男の足を踏み潰した。それはもう、全体重をかけて。蚤を潰す勢いで。
相当痛かったのだろう。男はメアリーの肩から手を離し、地面に蹲っている。
「気色悪いのよ音無し(サイレンス)! 私に触らないで!」
『音無し(サイレンス)』と称される非常勤の医者は、白衣が汚れるのも気にせず地面にひれ伏したままだ。みっともない。卑しい。メアリーは適当で汚らしい顔面のこの男が大嫌いだった。湿った視線を音無しに送り続けていると、突然頭を上げ、涙を浮かべて眼球が零れそうなほど開く。
「いてえんだよこの糞ガキ! ちょっと優しくしてやれば調子に乗りやがって!」
それに対して表情を変えないまま、メアリーは手で示しながら罵倒する。
右手で輪を作り、首から顎のラインに沿って動かす、「声」の動作。この単語の他に幾つかの単語を組み合わせ伝える。
「汚い声で叫ばないでよ。鼓膜が汚染されるじゃない。このクズ」
対して音無しは、耳の聞こえる人と変わらない発音を口から紡ぐ。人と意思を共有する手段の一つ、手話を用いながら。
「・・・・・・ああ、分かってたよ・・・・・・、ジュニアがそういう性格だってさ・・・・・・」
『音無し』は呼称の通り、音を一切聴くことができない。
しかし神に愛されたのか、唇の動きから相手が何を話しているのかを読み取る、口話を完璧に熟知した。彼が健常者と変わらず話せるのは、声帯の振動について熱心に勉強したからだという。だが、その地点に到達するのは常人では難しい。この男、音無しは誰から見ても天才だった。三十手前の若さで医大の非常勤講師も勤めているというのだから、化物としか言い様が無い。否、変人だ。こいつと同レベルにするなんて化物がかわいそうだ。
メアリーを『ジュニア』と呼んだ音無しは、踏まれていないこめかみを押さえながら立ち上がった。一連の動作を見ていたのか、ラースはじとりとした視線を二人に向ける。メアリーと音無しを指さし、手話の動作を行う。
「お前ら・・・・・・遊んでいる暇があるならさっさと自分の仕事をしろ」
「へいへい。さっさと終わらせますようっと」
音無しは無造作に伸ばした短い顎鬚を右手で撫で、医療部隊所属のレイラを呼んだ。どうやら任務に就くらしい。本当に、ぐうたらでろくでもない男だが、医者としての腕は一流だ。若くして大学に推薦されるだけはある。悔しいが。全くもって悔しいが。
私は天才が憎い。
奴等は平気で凡才の頭を踏み台にし、軽々しく空を舞ってみせる。凡才はどんなに助走をつけたところであの自由な空へは羽ばたけない。天才が楽々と滑り狂う速さに、私はついていけない。いつだって苦痛だ。いつだって忘れ去ることなどできない。気分を晴らそうとしても、気にかけないようにしても、追い払うことなどできないのだ。この羨望と憎しみは。
「で、」
メアリーは脳裏に過ぎった二つの影を追い払い、一四三番区と呼ばれるスラム街に到着したときから気になっていた一点を睨む。
「その後ろに立っているの、誰?」
「あ」
思い出した。
まるでそうとでも言いたそうな顔をして、ラースは今まで聞かせたことの無い素っ頓狂な声を出した。メアリーの胸に、微かな違和感が落ちた。
常に剣呑とした空気を身に纏った、研究部隊のラース=シュルーモ。容姿が特別優れていることも無く、平均的な成年男性よりも劣っている身体は哀れみの情を覚えるほど痩せている。しかし彼の、白い百合のような立ち振る舞いや姿は人を惹きつける魅力があった。
清廉潔白。清純。純白。彼を表現するのにふさわしい言葉だ。それでいて常にやる気の無い表情をしているのだから、その差異に目が眩む。表情は乏しいが、メアリーと同じように怒りや苛立ち、呆れといった負の感情はよく表に出していた。愛嬌が無い。これに限る。度を超えた『亡霊』マニアであるため、その話をし出すと途端に子どものような目で生き生きとし始めるのだが。
そんな彼が、隙だらけの表情で間抜けな声を発した。
しっかりしている彼のことだ。本当に忘れていたわけではないのだろう。後ろに聳える痩身の男とどう向き合えばいいのか分からない。この表現が多分、適切だ。若干の違和感と、困惑。メアリーは内情を全て拾い上げ、浮かんだ疑問を逃そうとはしなかった。
感情を表に出さないといっても、対人関係においてラースはうまく調節している人間だった。人と話すことも苦に感じない、そんな男だと思っていた。実際は違ったのか。今まで見てきた彼とは違う反応を晒している。人見知りでないくせに、初々しく視線をさまよわせ、苦そうに頬を強張らせていた。一体なんだというのだ。その反応は。
「新入りだ。・・・・・・そういえば名前を聞いていなかったな」
「翡翠」
風が鳴った。そう思わせる声音だった。
凜としていながら、今にも歌い始めそうな穏やかな声。
「俺の名は王翡翠」
「フェイツェイ・・・・・・ここら辺では聞かない名前だな。獅子の国出身か?」
「うん」
「言いづらい。フェイでいいか?」
「いいよ。好きなように呼んで構わない」
好ましくない。
メアリーはフェイという、初めて会った男が気に食わなかった。無造作に伸びた髪で顔の造形は見えないが、声の調子からすると同年代にも聴こえる。しかし、静謐な立ち姿は老成したものであり、年齢どころか存在すら曖昧な印象を持っていた。曖昧であるからこそ、その存在に不安を覚える。生理的嫌悪ではないが、底知れぬ恐怖がそこにはあった。
だというのにラースときたら。
分かっている。分かっているのだ。この感情が理不尽であることくらい。傲慢と羞恥で形作られた感情を、自分で端に追いやり、誰にも告げることなく放っておいたのだ。整備士として、人として未成熟な私が彼に告げる言葉など無い。私はそんなものよりも大切な信念がある。どんなものよりも、ずっと大切な。別に、彼と仲が良いわけではない。ただのチームメイト。それだけだ。彼にとっての私も、きっとそうだ。私と彼の間に特別な何かなど存在していない。強い繋がりも、無い。そんな私に、こんな醜い感情を彼にぶつける資格なんてない。
そんな、顔をするのか。
初めて出会った男に、誰にも、ましてや私にも見せたことのない顔を向けるのか。
思わず拳に力をこめ、歯を食い縛った。それを知ってか知らずか、ラースは今後の方針をメアリーに伝える。
「ではフェイ。あんたはヘルメスと共に、先に本部へ向かってもらう。メアリーは二人に同行してくれ」
「・・・・・・はあ? なんで私が?」
沸々と胃からせりあがる腹立たしさを抑えることすら不可能だった。元々隠す気は無いが、この男にできるだけ近寄りたくない。敏感なラースのことだ。メアリーがフェイに対しあまり好意的ではないことを見抜いているだろう。だが、ラースは普段通り、淡々とした声音で述べる。
「仕方無いだろう。音無しとレイラは怪我人の治療。ジルはそれだけでなく、死体の処理や建築物の修繕がある。暫く戻ってこれない」
「だからってなんで私が・・・・・・私だって怪我人の治療くらい・・・・・・」
「マドレーヌへ事実を明確に報告しなければならない。フェイはヘルメスが連れてきたから一応新入りということにしているが、まだ信用するに足る人物か疑わしい。そうなれば俺の手元においておくより、マドレーヌの保護下に置かせたほうが安全だ」
「ヘ、ヘルメスがいるじゃない」
「確かにヘルメスは情報を操る伝説だが、あいつがちゃらんぽらんで適当臭い話し方をするのはメアリーも分かっているはずだ。できるだけ要領よく、事実を詳細に報告できるあんたに頼みたい」
「それはラースのほうがずっと適任じゃない・・・・・・」
「当事者がこの場を離れろと? それに・・・・・・」
ラースは一旦言葉を切り、実に不愉快そうに眉を寄せた。
「この場で、レイラとジルと音無しの三人をコントロールできるのは俺しかいないだろう・・・・・?」
「た、確かに・・・・・・」
「俺だって本部に帰りたいさ・・・・・・」
岩の如く重い溜め息を吐いたラースは、死んだ魚の目で遠くを見やる。音無しだけではない。レイラとジルもまともそうにみえてかなりの曲者だ。自分であれば怒り狂い銃を乱射しかねない。適確に物事を認識するラースでさえも完全に三人を抑制できるか分からない。しかし、現在の時点であの三人を使役できるのはラースしかいなかった。
「・・・・・・分かったわよ。私がマドレーヌさんに伝えておく。過激派の連中が来たら早々に切り上げなさい」
「ありがとう。メアリー」
堅い表情を崩さなかったラースが、ふわりと穏やかに微笑んだ。
白い花弁が柔らかく開いた様子を見ているようだ。
彼は温かい。何度でもそう想う。
「いつも頼ってしまってすまないな」
「・・・・・・べっ」
頼っているのは、謝るのは、感謝の気持ちを述べたいのは、こっちのほうだ。
親の七光りを背負い、戒めとして『ジュニア』と周囲に呼ばせている自分を、頑なに名前で呼ぶ唯一の人間。親の影でなく、私自身を見ようとするその姿にどれだけ苦しんだか。どれだけ嬉しかったか。天邪鬼な自分には、伝える術など持ち合わせてはいないのだけれど。
メアリーは熱くなる頬を隠すために、ラースに背を向けた。
「別にっこれくらいやってあげるわよ!」
ヘルメスの襟を掴み、勢いに任せ本部へ向かおうと足を運ぶ。男がついてきているかどうか振り返ると、男の背中を見つめている彼を見てしまった。
なんて泣きそうな眼をしているのか。
熱と哀しみの籠もった瞳を歪ませ、彼は何を想っているのだろう。
そしてメアリーは、先程まで燻っていた感情を更に黒く燃え上がらせた。灰となり、空で消し炭になるあの影を連想した。
やはり私は、フェイという男のことを好きにはなれない。
メアリーら三名を見送った後、ラースの頭の中は既に今回の反で埋め尽くされていた。
過激派が来る前に処理できないことは明白だった。そのため、早めに取り掛かる必要がある。少しでも奴等に弱みを握られたくは無い。手製の魔道書を開き、熱心に眺めているジルへ声をかける。黒いローブで覆ったジルの指は青白くくすんでいた。
「ジル、準備はどれくらいかかる?」
「・・・・・・た、多数の怪我人がいる、ので、対象を、か、囲むように、魔法円を、準備しよ、うとおおもったのですが、こ、今回のは、対象、が、大きいの、で、魔法円を描くのもじ、時間がかかり、ます。ですか、ら、いつものと、とおり、魔法円、を、想像、するやり方で、い、いこうかと。なの、で、時間はかかりま、せん」
「了解した。ジル」
ラースは倒れた反の傍らに膝をつき、ワイヤー装置の裏に隠していたナイフを抜く。皮膚は銃弾が通らないほど厚い。しかし、命中した際痛がっていたのを見ると、内側に神経が通っていることは間違いなかった。
「あ、あの、ラースさん・・・・・・」
「三分待ってくれ。ジル」
「し、しかし、あの・・・・・・急がないと、いけないのでは」
「すぐに済む。また俺が反の調査に夢中になったときは何が何でも引き剥がせ」
「え、え、」
「ジル、飲み薬と塗り薬は持ってきているな?」
「は、はい。でも」
ジルは視線を合わせようともせず、暗がりな声音を更に深い闇に染めた。
「どうせ私の調合したものなんて・・・・・・」
「馬鹿言え。お前の薬が良く効くのを俺は知っている。負傷者が出ている今が使い時だ。ティアリアという少年がいるから、彼を使って迅速に治療を行え」
「で、でも・・・・・・」
ラースは一つ息を吐き、スラム街で知り合ったティアリアという少年を探す。彼は予想通り、音無し達と共に怪我人の治療を行っていた。歳は十五、六といったところか。顔色は悪く、身体も痩せているが、芯のしっかりした少年だ。肩にかかるざんばらな髪が絹のようだ。落ち着いた表情で手当てをしている姿は、スラム街で過ごしている子どもだと思えないほど捻くれもせず大人びている。ティアリアを呼ぶと、音を立てずにしなやかな動作で立ち上がった。背筋を伸ばし、悠然と歩く様が美しい。何故彼はここで暮らしているのか、違和感を覚える。
「ティアリア。彼女の薬を使ってくれ。使い方は彼女が教えてくれる」
「え、え」
ラースの隣で震えているジルを無視し話を進めると、ティアリアは特に反応をせず、素直に頷いた。
「分かった」
ティアリアはジルの細い腕を掴み、負傷者のところへ向かっていった。『反』の暴走のときもそうだったが、年齢と比べて彼は非常にしっかりしている。単なる背伸びではない。自然とそれが当たり前であるかのように既に彼の中に浸透している。
年齢然としていないのもどうかと思うが、と内心吐きながら、ラースは自分のやるべきことへ視線を奔らせた。
既に骸と化した『反』。
ラースは再び地に膝をつき、筋肉が肥大した姿を観察した。
上腕二等筋や胸筋、その他目立つ箇所の盛り上がりは健康的を通り超して異常であった。発達しすぎた筋肉は原形を隠し、見目も良くない。背丈は約三メーテ。約半分の身長がラースやメアリーといった普通の人間の身長であるからして、この巨体は能力の暴走による反動で形成されたのだろう。皮膚は厚いが、痛覚はある。もしかすると元の能力は皮膚や爪といった外殻に作用するものだったのかもしれない。能力を抑えられず、『反』と化したとき、己の能力がどのように変容するのか予測不能である。それはラースにも言えることだった。
自分でさえもどうすることのできない膨大な力。その力を『反』のように特別な呼び方をすることは無いが、青友会ではそれぞれの能力を『個性』として認識している。他人のみならず、自分にさえ危害を加える恐れのある凶器を、『個性』だと。それが正しいのか、ラースには分からない。きっと答えなど無いのだろう。ラースは皮肉めいた心境を心の底に留めると、捩れ、有り得ない向きに視線を向けている頭に自然と視線を投げた。
銃弾すら効いている様子の無かった皮膚の硬さをものともせず、その内側へも圧力をかけたあの細長い足。
外套から覗いた生白い腕は、ぬるり、とした光沢があり、しなやかであった。その光景が蛇を見ているようで、何とも言いがたい気味の悪さと高揚感を得た。手入れの行き届いていない漆黒の髪から僅かに見えた黄金の瞳。雪のように白い肌。色づきの良い唇。髪を整えたらさぞ美しいだろうに。今度散髪しようと思い至ったところで、ラースは自分の思考が彼、翡翠に向かっているのを自覚した。
いけない。このままではいけない。研ぎ澄ませ。思考を。感覚を。
それでも脳裏に焼きついているのは、洗練されたあの黒い影の姿だった。
ずっと独りで追いかけてきたはずだった。仲間もいた。友達もいた。仰ぐ師もいた。だがしかし、自分が恋い焦がれる望みを共有できた人物はいなかった。自分がそれを良しとしなかった。自分だけの感覚であってほしかった。誰とも共有したくないと思っていた。その、自分でも反吐が出るような依存を、感情を、全てあの男に持っていかれた。悔しい。苦しい。彼はこんな面倒な自分の壁を平然と飛び越えてくるだろう。そんな予感が脳内で響いている。この寂しさと乾きを癒してくれるのがお前ならば、自分は逆らわない。そのまま受け入れ、濁流に呑まれる一つの魚となろう。
これほどまでに高揚し、形容し難い感覚に囚われたのはいつ以来だっただろうか。
「すいません。指揮をとっているのは貴方ですか?」
「ああ?」
突然聞いたことの無い声に背中から話しかけられ、思考を中断されたラースは反射で不機嫌そうに振り向いた。
二十代の中あたりだろうか、どこかあどけなさを残した笑みを見せている男だった。涼しげな目元は若さを表面化させながらも、疲労の色が滲んでいる。皺の一つも無いブラウンのジャケットが、育ちと趣味の良さを露見していた。上品に帽子を外し、膝をつき『反』を観察していたラースと視線を交わす。面倒だ。ラースは堂々と舌打ちし、緩慢な動作で立ち上がった。
「そうだと言ったらお前はどうするつもりだ」
「ああ・・・・・・すいません。そういうつもりで声をかけたわけでは・・・・・・」
この男、見たことがある。
ようやく男とまともに対面したラースは、一つの可能性を見出した。
「歩いていたら偶然この惨状を目の当たりにしまして・・・・・・怪我人の手当てを手伝ってもよろしいでしょうか?」
「それは構わない。人手は多いに越したことはないからな。お前は・・・・・・」
「ただの、しがない町医者です」
「医者か・・・・・・報酬は支払えないぞ」
「そんなものはいりません。私は・・・・・・」
男は既に朽ち、廃墟の並んだ街道を見渡した。建物の壁に寄りかかり手当てを受けている者、固い道路に横たわり、治療を待っている者、合わせて二十名程度が負傷している。死亡者は男三名、女二名の計五名。その内三名が足を掴まれ、あるいは胴体を掴まれ地面に叩きつけられて頭を粉砕された。残りの二名は直接殴打され、全身を粉々に破壊された。無残な結末だった。今はシーツを被せているが、人としての形を留めていないものは目の毒だ。仕方無い。強い者が生き残り、弱い者は淘汰される、そんな世界だ。昔から、自分達が生まれる前からこの世界の有り方は変わらない。
男は何か想いに耽ることがあったのか、眉間に皺を寄せつつ穏やかな声を発した。
「私は、生きようとしている方を見捨てるほど、強い人間ではありませんから」
ラースは、早速鞄を開け、救急道具を取り出し始めた男の背中を眺める。
強い人間ではない、か。
ラースへの皮肉も込められているだろう。そう言われる理由も自分で分かっている。どんなに周囲が苦しんでいようが、どんな惨劇が繰り広げられていようが、自分は怪我人の手当てより『反』や『伝説』の観察をする。そもそも人に興味が沸かない。特に見知らぬ人のことなんて。長年付き添った身内なら別だが、何故自分が他人のために時間を割いてやらないといけないのか。全くもって傲慢だ。見ず知らずの人に助けてもらえると、助けてほしいと、生きたいと願うことの傲慢さよ。救ってもらえるとして、その救済人が『人』だとは限らない。お前達は人種によって態度を変え、勝手に恐怖と絶望を味わう。そんなことを感じる暇があるなら、死を受け入れたらいいものを。生命あるもの、いつかは死ぬ。この俺も、いつか、恐怖と絶望に包まれて死ぬ。
それよりも、重要な事項が一つ動いた。そちらの方が遥かに価値のある事象だ。
標的を、見つけた。
真夜中、一四三番区の道で黒のワンピースを着た少女に触れると過去を暴かれる。
約二週間ほど前から、スラム街を中心に噂されるようになった『黒の少女』。都市伝説のように浮いた話題であるが、もし「黒の少女」が存在するならば、自分たちと同じ『人間』である可能性が高い。青友会穏健派での話し合いにより、事実であることを確認した後、少女を保護する方針となった。その少女を探す任務を請け負っていたラースは、調査を進める中である人物に行き着いた。
それが目の前で負傷者へ治療を施している男、ネロ=ゲイスト=ティッツァー。
彼の住んでいる場所まで特定はしていたが、まさかこのような形で接触する羽目になるとは。ラースは人知れず歯噛みする。「黒の少女」に関係する人物への接触は、戦闘部隊の遠征が終わるまでできるだけ回避したかったのだが。彼の振る舞いを見る限り、こちらがけしかけたとしても無害そうだ。会話も胡散臭くなく、表面上は人当たりの良い人物に感じられる。有害であったとしても、今彼を強制的に捕獲することなどしない。事情聴取だけでもまだ動くべきではない。観察に徹したほうが良さそうだ。
負傷者の治療をしていたジルを呼び、処理の準備を行わせる。その間怪我人の手当てをすることもなく、自分の手にはめられた黒の軍手を弄びながら周囲を見回していた。端から見れば何とも不道徳で非人道的な人間だと思われるだろうが、ラースは人との接触を良しとしていなかった。勿論、興味が無いというのも一つの理由である。
ティアリアが『音無し』こと、マエストロとその補助にあたるレイラのために道具を整理したり、手際よく負傷者の傷の手当てを行ったりと忙しなく動き回っていたときに、それは起こった。
「・・・・・・君!」
先程まで穏やかに微笑みながら怪我人の治療をしていたネロが突然立ち上がり、ティアリアの痩せ細った左の手首を掴んだ。ティアリアは驚愕した表情でネロを見上げる。
否、驚愕ではない。憎悪だ。
そのことに気づいていないのか、ネロは心配げな声色でティアリアに話しかける。
「腕を痛めているね。診せなさい」
「痛めてない」
「動いている君を見ていたが、右腕を庇っているようだ。無理はしないほうが良い」
「・・・・・・せよ」
禄に整えられていない黒髪がティアリアの頬にかかる。瞳は物騒な光を湛え、ネロを睨み上げたまま動かない。見たことの無い反応だ。ラースは興味津々で少年を見つめた。
「離せよ! この豚貴族!」
対して力も込められていない手を乱雑に振り払い、黒ずんだ憎しみを隠すこともせずもう一度ネロを睨んだ。掴まれた手首を反対側の手で払い、唇を噛んでネロの横を、この場を駆け足で過ぎる。
これはまずい。直感したラースは慌ててティアリアの名を呼ぶが、年齢不相応に痩せた少年の背中は振り返りもせずスラム街の奥へ逃げ去った。
なんてことをしてくれたのだ。ただでさえ人手が足りないというのに。
ネロに文句の一つでも言いたかったが、これに関しては彼の責任とも言い切れない。きっと彼は、本当に心配だったから声をかけたのだ。むげにしたのは、あの少年だ。ネロは責められるべきではない。
しかし、今日は散々な目にあったが、おかげで欲しかった情報を手に入れることができた。特にネロと接触できたのは不幸中の幸いだ。もしかすると事態が動くかもしれない。
そして、ラースは見逃していなかった。走り往くティアリアの背中を見つめたネロが困惑の表情を浮かべ、「もしかして」と呟くのを。
ティアリアも『黒の少女』と関係する重要な鍵かもしれない。その予感を胸に抱きつつ、この先訪れるであろう、過激派からの嫌味を想像して憂鬱になった。