4日目 ~まいちるはなびら~③
ズボンどころかパンツの中までグッショリになった俺は、祠の影になったところでTシャツとズボンを脱ぎ、ギリギリと搾った。ズボンのみを再びはき直し、Tシャツはトラクターの座席に掛ける。
毎度よろしく乾燥お願いします、とお日様にTシャツのことをお願いした俺は、レジャーシートに腰を下ろし、溶けかけのチューチューアイスをズルズルと啜った。
「しかしなんであんなに元気なんだ、衣留のやつ……?」
花柄水着の衣留は、未だにキャピキャピと水遊びに興じていた。
ちなみに衣留の相手を務めているのはミズミカミさまだった。どこから調達したのか、スクール水着などというレア物を纏っている。ミズミカミという名前とは裏腹に水が苦手なのか、衣留に水をかけられては目をつぶっていた。
微笑ましいといえば微笑ましい光景だが……
「ここでニヤニヤしてたら、確実に変態さん決定だな」
他人の評価というのはなかなかに分からないものだ。俺としては娘と妻を見守るパパのつもりでも、他の人からは『ただの変質者』という勲章を与えられるかもしれない。
しかもその勲章というのが、一度授与されたら最後、辞退も返上を出来ない勲章なのだから質が悪いとしかいいようがない。
そういうわけで、俺はなるべく勲章を与えられないよう、衣留たちからわざとらしく目を逸らした。
花畑の様子を見ていると、ふいに視界の端を光の玉がよぎった。
ん? 光の玉?
「なんだ?」
それは『燃えていない透明な人魂』という形容しか思い浮かばないものだった。ゆらゆらと揺れ動いているせいで、いまいちどんな形なのか分からない。
しばらく花畑の上を右に左に飛んでいた光の玉だったが、その後、俺の側を通り抜けると、最後は祠の中に吸い込まれていった。
「……?」
俺は立ち上がると、祠の正面に回り込んだ。いつの間にか開いていた扉の隙間から、中をのぞき込む。『のぞき魔』という勲章を貰ってしまうかもしれなかったが、最終的に好奇心に負ける。
祠の中に祀られていたのは、ちょうどミズミカミさまと同じくらいの背丈の、どこか母性的な顔をしたお地蔵様のような石像だった。
「あ、ども」
お地蔵様と目があった気がして、反射的に頭を下げる。
そこで俺は、お地蔵様の足下に置かれている賽銭箱に、次のような文字が書かれているのに気付いた。
『水子看神』
「ミズミカミ?」
「それが……わたし……」
振り返る。
スクール水着姿のミズミカミさまが、お地蔵様を静かに見つめていた。
「生まれてくることの出来なかった命を慰める……それが、わたし……」
「生まれてくることができなかったって……」
それはつまり、生まれる前に死んでしまった……
「水子供養の……神様?」
「……うん、そう」
ミズミカミさま――水子看神様は小さくうなずいた。
「わたしは……慰めることしか出来ない神さま……」
ミズミカミさまは寂しげにそう呟くと、俺の横を通り過ぎ、祠の中に足を踏み入れた。
目を凝らすと、薄暗い祠の隅で先ほどの光の玉が震えていた。
ミズミカミさまは怖がらせないようにそっと光の玉に近づくと、その場で膝を付き、涙を流すように震える光の玉をやさしく撫でてあげた。
「わかってるから……」
ミズミカミさまは呟いた。
その横顔には、深い愛情と悲しみを見ることが出来た。
「生まれてきたかったけど、生まれてこれなかったってこと……わたしは、わかってるから……」
『…………』
光の玉の震えが大きくなる。
次の瞬間、パチンという音と共に光の玉がはじけたかと思うと、半透明の小さな女の子が姿を現した。
女の子はミズミカミさまの胸にすがりつくと、大声で泣き始めた。
生まれたことを喜ぶ産声ではなく、生まれてこられなかったことを悲しむ泣き声だった。
『生まれたかった……お母さんにギューってだっこしてほしかった……お父さんにイイコイイコってなでてほしかった……』
「わかってる……わたしは……わかってるから……」
ミズミカミさまの目からも涙がこぼれる。
女の子の魂を抱きしめ、女神さまは何度も何度も謝った。
「ごめんなさい……わたしは……慰めることしかできない神さまだから……なにも出来ない神さまだから……ごめんなさい……」
悲しい涙を流す女の子二人の姿を見て、俺は心がギリギリと締め付けられるのを感じた。
同時に、彼女たちの為に何も出来ない自分を殴り飛ばしたくなる。
……と、その時だった。
「とおりゃあ~~!」
やたら気合いの入りまくった、聞き覚えのある叫び声。
俺は振り返り、ぎょっと目をむいた。
クーラーボックスを天高く掲げた水着娘が、イノシシのように突っ込んできた。
「邪魔です、店長!」
「ぐはっ!」
俺をはじき飛ばした衣留は、そのまま祠の中に飛び込んだ。ミズミカミさまたちの前にクーラーボックスをドガンッ! と叩き付ける。
突然のショック音に、目を白黒させるミズミカミさまと女の子。
そんなことなどお構いなしに、クーラーボックスからまだ溶けていないチューチューアイスを取り出した衣留は、「ほわたぁ!」と膝蹴りでアイスを二つにへし折ると、ミズミカミさまと女の子の口にそれぞれを強引に突っ込んだ。
むちゃくちゃだった。
「おいおい……」
思わず冷や汗が流れる。しかしそれでも俺はまだ、衣留という少女を甘く見ていたらしい。
容赦なく、徹底的に。
それが夢野衣留という女の子だった。
「ふん!」
年頃の娘さんとは思えない覇気と共に、ミズミカミさまを抱え上げる衣留。
そのまま衣留は、ミズミカミさまを俺の方に向かってラグビーボールのようにパスした。
「店長、よろしくです!」
「~~~~ッ!」
声にならない悲鳴を上げるミズミカミさま。
「ちょ、マジか!」
スポーンとこちらに飛んでくるミズミカミさまに向かって、俺はとっさに手を伸ばす。
どうにか俺がミズミカミさまのキャッチに成功したのと、半透明な女の子を抱き上げた衣留が祠から飛び出してきたのは、ほとんど同時だった。
「さあ、店長! 行きますよ!」
「行くってお前……まさか……」
衣留の視線を追った俺は、ようやく彼女が何をするつもりなのか悟る。
衣留の瞳は、まっすぐに泉に向けられていた。
「むちゃくちゃだな……」
しかし同時に悪くないとも思う。
木の葉を隠すなら森の中。なら涙を誤魔化すならどこか?
簡単だ。涙だって所詮は水なのだから。
「グッドアイデアだ。さすがだな、衣留」
「はい、有能ですから」
ニヤリと笑う衣留。俺たちはアイコンタクトをかわし合うと、それぞれミズミカミさまと女の子を抱えたまま走り出した。
『~~~~~~ッ!』
目を回しながら悲鳴をあげる二人など完全に無視。
まったく同じタイミングで大地を思い切り蹴り飛ばすと、俺と衣留の二人は泉に向かって大きくジャンプした。澄み切った泉と、ぬけるような青空が目の前いっぱいに広がる。
一瞬後、盛大に水しぶきをまき散らしながら着水する。
水浸しになった上に、口にチューチューアイスを突っ込まれて何も言葉を発することが出来ないミズミカミさまたちに向かって、衣留は左手を腰に添え、高々と右手の人差し指で空を指しながらこう叫んだ。
「今日も! お洗濯日和です!」
そこでフッと表情をゆるめる。
包み込むような笑みを浮かべ、衣留は優しく言った。
「だからミズミカミさま、全部乾かしちゃいましょう。濡れたものは、まとめて乾かせばいいんです」
濡れたら乾かせばいい。
なんともシンプルで、しかしとても魅力的な提案だと俺は思った。
「ぐっど……あいであ……」
ミズミカミさまは口をモゴモゴと動かしながら、はにかむように笑った。女の子の顔にも小さな笑みが浮かぶ。
結論だけ言えば、今日も俺は昼寝をすることが出来なかった。
◆ ◇ ◆
クライミングを終えたお日様が、西の方へと満足げに去ってゆく。
ミカンの橙色よりも濃くて、オレンジの橙色よりも薄い色の空が、俺たちの顔まで橙色に染めようとしていた。
「最後の……一本……」
ミズミカミさまが掘り返した穴の中に、半透明の女の子が花の苗をそっと差し込んだ。赤ん坊に産着を着せるように、二人して根っこの周りに土をかぶせてゆく。
最後に優しくペタペタと土を押し、二人は立ち上がった。
「わたしのぶんまで……生きてね……」
半透明の女の子はそう言うと、くるりと俺と衣留の方に向き直った。
その顔は、満足そうな笑顔でデコレーションされていた。
「ありがとう、お兄ちゃん、お姉ちゃん! わたし、うれしかったよ!」
「ユア・ウェルカム、です!」
「こっちこそ、手伝ってくれてありがとな」
「えへへ、どういたしまして!」
恥ずかしそうに笑う女の子。
しばし笑ったところで、女の子はミズミカミさまに向き直った。
キラッキラした笑顔を浮かべ、言った。
「神さま、ありがとう!」
「ううん……結局わたしは、何も出来なかったから……」
ミズミカミさまは目を伏せる。
しかし女の子は、満面の笑みを浮かべながら首を横に振ると、
「ちがうよ、神さま! 神さまは、わたしに素敵なものをくれたんだよ!」
「素敵な、もの?」
「想い出だよ!」
女の子はそう言うと、ちっちゃな手をミズミカミさまに見せた。
「ほら、わたしの手、見て」
「……じぃ」
ミズミカミさまはジ~ッと女の子の手を見つめた。
泥だらけのその手は、暖かな夕日色に染まっていた。
「わたしはね、ずっと知らなかったの。土が、こんなにざらざらしてるなんて。風が、こんなにくすぐったいなんて。お日様が、こんなに暖かかったなんて。わたしはずっと知らなかったの。でもね、もうわたしは知ってるの! わたしはうまれてこれなかったけど、でももう知ってるの。お花を植えるのが、こんなにも楽しいことを。お外の世界が、こんなにもキレイなんだってことを。神さまのおかげで、わたしはそんなステキな『想い出』を作ることができたんだよ!」
女の子は笑う。やさしく、眩しく。
「ねえ、神さま。神さまは、なにも出来なくなんかないんだよ。だってわたしは……わたしたちは知ってるんだもん。神さまが、ずっとわたしたちを撫でてくれていたことを。寂しくないようにって、悲しくないようにって、ずっとずっと長い間、お母さんのかわりに撫でていてくれたことを」
女の子の声に導かれるように、どこからともなく光の玉が集まってくる。
ふわり、ふわり。
まるで舞い落ちる花びらのように、優しい光を放つ魂たちが集まってくる。
そして気がついたときには、俺たちの周りはたくさんの光の玉であふれかえっていた。
「そうだよね、みんな!」
光の玉は一斉に身体を揺すり、うなずいた。
『――ありがとう、もう一人のお母さん』
「うぁ、ぁぁ……」
ミズミカミさまの目から、熱い雫がぽろぽろと落ちる。
半透明の女の子はそっと手を伸ばすと、ミズミカミさまの頭を撫でようとした。
しかしその手がミズミカミさまの頭に触れることはなく、気がつけば女の子の身体は、もとの光の玉に戻っていた。
『―――』
光の玉が、何かを告げるようにチカチカと瞬く。
残念ながら俺たちではその声を聞くことは出来なかったが、しかし女の子の魂が「ありがとう」とか「またね」と言っていることは、何となくだが分かった。
「……ばいばい、またね」
頬を涙でぬらしながら、ミズミカミさまが小さく手を振る。
俺たちの目の前で、大勢の光の玉は滲むように消えていった。
「良い子たちでしたね、店長」
「ああ、そうだな」
穏やかな風が吹く中、子どものように泣きじゃくるミズミカミさまの泣き声だけが響く。
俺と衣留は頷きあうと、ずっと頑張り続けてきた小さなお母さんの頭を、女の子の代わりに優しく撫でてあげた。
日が暮れるまで、ずっと。
――優しい世界が終わるまで、あと3日です。




