第二章「月の砂漠の乙女」
第二章「月の砂漠の乙女」
一
五人は、数時間後赤の城を発った。(なぜなら、ヴィラが城の者たちに反乱軍側についたことを宣言したため)レラの旅支度にもずいぶん掛かった。太陽は空高く昇っていた。
五人は今、砂漠の真中を歩いていた。長い、長い砂漠を。太陽が上から照りつけ、五人は汗だくになっていた。風も今は止まっている。汗はただ流れて砂に吸い込まれるだけだった。
「はぁ、此処はどこなので?」
ファールが呻くように呟いた。ヴィラが城から持ち出してきた世界地図を広げた。
「ええとね、今は此処なのかな? 月の砂漠」
「どれどれ」
ひょい、とヴィラの後ろからアークが地図を覗き込んだ。
「そうだな。俺たちは月の砂漠の丁度真中くらいだろう。砂漠に入って、二時間は発つ。此処はこの世界で有数の巨大な砂漠だからなあ」
アークが笑った。ヴィラは顔を顰めて「笑い事じゃないよ」と言った。
「でも、アーク様あ。どこか日陰になる場所で休みたいです……」シャンが呻いた。
「そうね」とレラ。
「砂漠を歩くなら夜がいいわ。暑いより、寒いほうが私我慢できるもの」
ヴィラが肩をすくめた。同じく、アークも。二人は顔を見合わせた。お互いに、「困った」というような表情を浮かべている。
「夜移動する、か。日陰があれば出来るんだけど」
ファールが苦笑した。シャンとレラはもうくたくたで、砂の上に座り込んでしまった。
「日のあたる場所で休んだって、熱いしねぇ。下が」
シャンとレラは飛び上がった。太陽の熱で砂が温められ、とても熱かったのだ。言うのが遅かったか、とファールはペロリと舌を出した。シャンとレラは足と尻を摩っていた。
「アーク、テントはもうないの?」
ヴィラが額の汗を拭いながら言った。アークは首を横に振った。
「すまん。使いきりのを一つしか持ってこなかった。旅の途中は、殆ど寝ていなかったものでな。それに、二人じゃそんなに荷物をもてない」
ヴィラは今までしっかりとアークの顔を見ていなかったので、今気がついたが、アークの目の下にはくっきりと黒い「くま」があった。ヴィラは苦笑すると、シャンの顔もじろりと見た。やはり、シャンの目の下にもくまがあった。
「なんて不健康な」
アークがふぅ、と溜息をついた。
「それほど切羽詰まってる、てことだろ。とりあえず、俺たちが次に目指すところは決まっている」
アークは地図に目を落とした。赤いペンで「×」印がつけられていた。
ファールがレラとシャンの様子を見て言った。
「もう限界だよ。二時間休みなしで歩いたんだ。レラとシャンには堪えられないんだろうさ。この状況で魔物に襲われたら終わりだよ」
「笑顔で言うなよ……」
噴出す汗は止まらなかった。汗が衣服と肌をぴったりくっつけてしまっていたので、余計に暑かった。(蒸し暑い、といったほうが正しいかもしれない。夏、外で遊んでかえってきたら、じめじめして暑い、といったのと同じである)
ヴィラは首に巻いていたスカーフを外した。
「特に鎧なんか着てると熱いぞ。このままでは、俺は蒸し焼きになってしまう」
アークが呻いた。ヴィラは苦笑した。
「帽子か何かがあるといいんだけれど」
そう言ってヴィラはそのスカーフをレラの頭にかけた。スカーフはヴェールのような役割をした。レラは小さく「ありがとう」と呟いた。ヴィラは「どういたしまして」と笑いながら言った。それは苦笑いに近かった。
五人とも限界が近づいてきていた。特にシャンは魔導士で体力も少なく、年も一番小さかったので、もう歩けないという状況だった。
アークはペッと唾を吐き出した。
「この砂漠の真中を過ぎたあたりにあるんだ。だから、もう少し」
いつも体を鍛えているアークでさえ、自然には逆らえない。
ヴィラが忍者刀を杖にして、なんとか立っていた。ヴィラは気力の無い声で言った。
「ぼ、僕たち何処に行くんだっけ?」
それ俺も聞きたかった――とファールが首筋の汗を拭いながら言った。アークは地図の×印を見せた。レラとシャンは腕をだらんと下げている。
「俺たちが目指しているのは此処だ」
アークが地図上の×印をトントンと人差し指で小突いた。
「現在地は、此処」
今度は×印から少し下に行ったところを叩いた。×印のところから、十センチは離れているだろうか。
「縮尺によると……そうだな、ざっと十一キロってところかな」
十一キロ!? とブーイングが飛び交った(五人しか居ないはずなのだが)。
その言葉を聞いてシャンは絶望したようだった。
「もう……僕限界……です」
目が虚ろだった。それはレラも同じだったわけで。
「私、もうだめかも……」
二人がフラリと倒れようとした。ヴィラは慌ててレラを、アークは慌ててシャンを抱えた。どさっという音がして、腕の中に倒れる。二人は顔を見合わせて、苦笑した。
「仕方ないな」と。
ヴィラは背中にレラを負ぶった。もう既に意識がとぼうとしているシャンを、アークが背中に。
この年頃の女の子を負ぶうなんてことは滅多に無いので、ヴィラはほんの少し頬を赤く染めた。最後にレラを負ぶったのはいつだったろう、と。
ファールがヴィラの顔を覗きこんで言った。その顔は「何をやっているの?」と不思議そうに聞く少女のような表情を浮かべていた。
「ヴィラ、顔赤いぞ? 何考えてるんだ?」
次にファールの表情は、妖しい笑みに変わっていた。ヴィラはもっと顔を赤くして、「何言ってるんだよ!」と叫んだ。そのときにレラが落ちそうになったので、慌てて体勢を整えた。
「いやらしいことでも考えてたんじゃないのぉ?」
ニヤニヤと笑いながらファールは言った。アークがそれを聞いて苦笑した。
「それはお前なんじゃないのか、ファール」
その言葉を聞いて、ファールはくるっとアークの方に向き直った。
「あらやだ。俺はアーク一筋だよ。誤解しないで♪」
アークは呆れたのか、溜息をついて歩き出した。その後について、ヴィラ。
「う……ん」
レラがぎゅっとヴィラの首に抱きついた。ヴィラはレラの手が触れたときに、ドキッとした。顔はまだ赤いままだった。レラが薄らと目を開けた。
「ヴィ、ラ?」
耳元で囁かれる声に胸を高鳴らせながらも、ヴィラは「うん」といつもの優しい声で答えた。
甘い。
愛しい人の声。
「なんでもないよ、レラ。しっかりつかまってて」
レラは優しいヴィラの言葉に、微笑んだ。
「うん」
愛しい人の背中。
伝わってくるのは、温もり。
ファールはそんな二人を、恨めしそうに見ていた。
「いい、なぁ」
その心に映るのは誰なのか。
アークは振り向き、ファールをじっとみていた。
――似ている。
自分が必ず守ると、助け出すと誓った人に。
――お兄ちゃん。
声が聞こえる。
逢いたい、でも。
どこにいるのかわからない。
一人の少女が祈っていた。大きな十字架を前に、膝をついて。
髪は太陽に似た、金色の髪。肌は白く、華奢な体つきだった。
白いワンピース。
少女は目を開けた。青く澄んだ瞳が、十字架を見上げる。
「お父様……お母様……」
合わせた手。それは、少女の悲しみが行き交うだけであった。
二
アークは欠伸をした。シャンを担ぎながら、だいぶ歩いた。ヴィラのほうも疲れきっているようだった。アークはあたりを見渡した。
遠く、遠く澄んだ青い空。今はそれが恨めしい。見渡す限りは、砂、砂、砂。
「サボテンの一つや二つ、ないのかねえ」
アークが呆れるように言った。アークの行った事がある、ディテス砂漠には、サボテンがいくつかあった。サボテンさえあれば、水の補給ができる、ということだ。
ヴィラは背中に乗ったレラを落とさないようにしっかりと支えていた。
「ラクダでも居ればよかったんだけど」
ヴィラは深い溜息をついた。ただでさえ体力が無いのに、人を担いでこんなに歩いたのは初めてだったのである。それはアークも同じことで。
後ろから着いてきたファールが呻いた。ファールは誰も背負っていないので、荷物持ちを任されたのだった。アークの剣、レラの武器箱、シャンの杖、ヴィラの刀。彼はそれを一つの袋にまとめて引き摺っていた。
「その目的地とやらは、どういうところなのかいい加減説明してくれない?」
ファールが言ったとおり、アークは目的地の説明を一切していなかった。アークはやれやれとシャンを落とさぬようにしっかりと抱えた。
シャンとレラは、すっかり眠っていた。ヴィラはそれを見て苦笑いした。
「俺たちが目指しているのは、この月の砂漠にある【月の館】だ」
「月の館?」
ヴィラとファールの声が被った。二人は顔を見合わせ、首を捻る。ファールは旅をしたことがあるといっても、その名前を聞くのは初めてだった。一方ヴィラはというと、城から殆ど出たことが無かったので、これぞ本当の「世間知らず」であった。
風がふわりと優しく、砂を舞い上げていく。風が出てきたので、先程よりはいくらか涼しくなった。しかし、まだ太陽が出ているのでかなり暑い。
「月の館は、聖を信じる、聖にだけ忠誠を誓う……そういう人が住まうところだ。帝国の悪行を見逃すはずがないだろ?」
アークがニヤリと口の端を吊り上げた。汗が一滴、首筋を伝っていった。
「聖、ねぇ」
ヴィラは呟いた。聖とは、この世にある属性というもののひとつである。火を神として祀るところがあれば、水を神として祀るところもある。そういうものは、たいてい民族によって違うものだ。このほかにも、土、風など、多くの属性がある。また、何処にも属さない無属性というものもあった。闇、聖。月の館に住まう人たちは、聖なるものを神として崇め、祀る――ということである。
大抵はクリスタルの守護により決まる。この世に四つ、クリスタルと呼ばれる清らかな水晶がある。それは、世界を守り、人々に祝福を与える【神】として崇められてきた。
風のクリスタルは、アークとシャンの地、ディテスにある。ディテス地方は、風の守護を受けている。そのため、ディテス地方に住まう民族たちは、殆どが風の属性なのである。風を信じ、風に忠誠を誓う。彼らは風の民族なのである。
しかし、その中でも少数派だが、別の属性につくものもいる。
火のクリスタルは、実は、ヴィラの故郷赤の城にあった。赤の城のあたりは、テナー地方と呼ばれ、火の守護を受けている。そのため、【赤の城】と呼ばれるようになったのである。(赤は火から来ている)
土のクリスタルは、ファールの故郷【ベガの地】にあった。ファールは其処のことをあまり話さないので、ヴィラはベガの地のことを何も知らなかった。アーク曰く、「古い遺跡があるところ」とのこと。
水のクリスタルは、この世の中心とも呼ばれる【最後の砦】にあった。いつからその名がついたかわからないが、その砦には魔物が住み着き、人が近寄れないと聞く。しかし、クリスタルは輝きを失っていない、という。
これが、四大属性というものである。
「俺はベガの地出身だからなぁ。まあ、六歳までしかいなかったけれど」
ファールは両手を方の高さまで上げた。「さっぱり」というようなポーズだ。
「僕は火の守護」
「俺はディテスの剣士だからな。風なんだろう」
その言葉にヴィラは顔を顰めた。
「なんだろうって、其処で育ったんじゃないの?」
ふっ、とアークが苦笑する。
「十の時からな」
ヴィラとファールが顔を見合わせ、目を丸くした。そして、二人そろってアークを見たので、アークはぎょっとして一歩後ずさった。
「十? 十のときから?」
「ああ、そうだ。十のときから俺はディテスの剣士だった」
二人は尊敬ともいえる眼差しでアークを見た。自分たちとさほど代わらぬ年齢の男が、十の時から一の国の剣士とは。どれほどの実力の持ち主なのだろう、と二人は思った。
「今はディテス国一の剣士なんでしょう?」
まあな、とアークは笑う。背中にべったり張り付いたシャンをもう一度担ぎなおすと、「さあ、早く行こう」といって歩き出した。その後を、ヴィラとファールがついていく。
――十の時から、ディテスの剣士なのかあ……。
そんなにも凄い人が、今目の前に居るのだ。そう思うと、ヴィラはなんだかドキドキした。
しばらく歩くと、屋根が丸い建物が目に入った。それを最初に見つけたのはアークで(なにしろ一番前を歩いていたものであるから)ファールは大きな声を張り上げて喜んだ。その声で、シャンとレラが起きてしまった。
レラはヴィラの首にしがみついたまま建物をじっと眺めていた。シャンも同じようだった。
「あれが月の館?」
ヴィラの問いに、アークは答えた。「ああ、そうだ」
傍から見れば、異様だった。砂漠の真中にある、磨き上げられた鏡のような建物。近づけば自分の顔が映るのを確認できるに違いない、とヴィラは思った。何故なら、建物の屋根も壁も、太陽の光を反射してキラキラと光っていたからである。
ファールは眩しかったのか、手で目を覆った。
近づいていくと、その建物が大分大きいことに気がつく。赤の城よりは小さいだろうが、それは立派な建物だった。
「ヴィラ、ありがとう。此処で降ろして」
レラがヴィラの背中から降りた。ヴィラは首を横に向けたり、後ろに向けたりして、凝りを直していた。シャンもアークの背中から降りていた。アークは肩をぶんぶんと振り回していた。
四人がファールの持っていた袋の中から、自分の持ち物を取り出すと、アークは大きな扉の前にたち、トントン、とノックした。
「すみません、ディテス国のものですが」
アークは怒鳴らないように大きな声を出した。
すると、キィと音をたてて扉が開いた。アークは一歩下がった。
扉から顔をのぞかせたのは、白いワンピースを着た金髪の少女だった。青く澄んだ瞳。それは空と同じ色のようだった。
少女は数回瞬きをしたあと、言った。
「どちら様?」
可愛らしい声だった。細く、少女らしい、華奢な体つき。アークは一瞬たじろいだ。
「……ディテス国から参りました。剣士アークでございます。ここの主様に、用があってまいりました。主様を呼んでいただけぬでしょうか」
先程とは違う言葉遣いに、ヴィラは目を丸くした。呆れ、ともいって良いほどに。
少女はぺこりと礼をした。
「おじいさまのことですね? 少しお待ちになってください。今、上で絵を描いていらっしゃるので」
中に入ってください、と少女が手招きした。少女が歩く度にひらりとワンピースの裾が揺れた。
五人は中に入ると、わぁっと歓声を上げた。(歓声を上げたのはシャンとレラ、ヴィラの三人だった――というのが正しい)
床は綺麗に磨き上げられており、綺麗な翡翠の色に、自分たちの姿がくっきりと映し出されていた。アークは床をまじまじと見つめた。
床だけではなかった。天井も、壁も。全てが磨き上げられていた。
「アーク、早くしないと置いてっちゃうよ」
ヴィラが声をかけた。アークは「ああ」とだけ答えた。
――不思議な感じがする。この館。
月の館を訪れるのは初めてだった。故に、此処がどのような場所であるかはアークは知らなかったのだ。アークはそれに圧倒されていた。
時折感じる、謎の気配。
アークは後ろを振り返った。何も無い。気のせいか、と呟き彼は先を急ぐことにした。
少女は階段を駆け上がっていった。そして、その先にあった一枚の扉の前で止まると、トントンと優しいノックをした。ヴィラがレラの耳元で囁いた。「アークの叩き方とはずいぶん違うね」
少女は扉を開けた。
「おじいさま、ディテス国からお客様です」
扉の先には、一人の老人が居た。老人は椅子から立ち上がり、此方に向かって歩き出していた。アークとヴィラがさっと前に進み出た。老人はアークとヴィラの姿をしっかりと見た。
「何か、御用かな?」
優しい口調で老人は言った。アークとヴィラは一礼をした。
「ディテス国から参りました。剣士アークでございます」
「赤の城の第一王子、ヴィラです」
ヴィラは第一王子、と言ったが、ヴィラには兄弟など居なかったので言う必要が余り無かった。
老人は頭を下げ、低い声で言った。温かみのある声。
「私は、この館の主人ベリです。そこにおりますのは、私の孫のルキでございます」
金髪の少女、ルキがぺこりと頭を下げた。綺麗な青い瞳が、ヴィラとアークをしっかりと捉えていた。マリンブルーの深き輝き。
「ベリ様、私たちが参った理由は、あなた方に協力してもらいたいことがあるためです」
すらすらといつものように【敬語】を使えるアークに、ヴィラは少し気後れしていた。赤の城では、こんなに改まった口調など使っていなかったからである。それに対しては、レラも同じようだった。
ベリは静かに頷いた。アークはそれを見ると、静かに続けた。
「近頃、ルダルフ帝国の動きが思わしくなく、最近姿を見せ始めた魔物たちも、皇帝ルダルフが呼び寄せたものと思われます。そこで、ディテス国王様は反乱軍を立ち上げることを決意しました。しかし、国王様自らが兵を率先することはできず、私が代理として反乱軍を指揮します。ディテス国だけでは、ルデアルフ帝国に敵うはずもありません。そこで、他国に協力を求めている次第です」
アークはそれだけをすらりと言ってのけた。シャンは微笑みつつ、アークの背中をじっと見ていた。
ベリは「良かろう」と低い声で言った。
チラリ、とファールがベリに目を向ける。
「しかし、今すぐに――というわけにはいかないな」
アークは顔を顰めた。ヴィラとレラは顔を見合わせ、首を傾げた。ファールは思わず下唇を噛んだ。赤い血がジワリとにじみ出てくる。それに気づいたシャンが大丈夫ですか――とハンカチを差し出した。
ベリはアークの言いたいことがわかったのか、微笑み、頷いた。
ファールがシャンのハンカチで唇の血を拭きながら、ベリをじっと見ていた。
「ルキ、下がっていなさい」
ルキははい、と綺麗な細い声で返事をすると、ワンピースをなびかせながら部屋の外に出て行った。ベリが「気にしないでください」と言ったので全員ドアの外ではなく、ベリに集中した。
静けさが、耳を貫く。ベリは口を開いた。
「あの子――ルキが天使になれるまで、それまでは、反乱軍に参加できないな」
三
おにいちゃん。
あたしはねー、ここにいるの。
いつかね、おにいちゃんがむかえにきてくれるの、まってるの。ずぅっと、ずぅっと。まちつづけるの。だって、おにいちゃんはつよいんでしょ?
あたしのおにいちゃんだもん。つよいよね。だれにも、まけないよね。
だいすきだよ。あたしの、いちばんのおにいちゃん。じまんのおにいちゃん。
――いやああああっ、おにいちゃん!
ブラックアウトするそれに、アークは恐怖を覚えていた。パズルのピースのように、崩れて、また組み立てられる。ナイトメア。それは少しずつ、少しずつ蝕んでいく。体を、心を。震える肩、腕、足。汗はツーと首筋を流れていった。
背筋に、ぞくりとなにやら良くないものが走る。
アークは唇を噛んだ。そして、はっと気づく。今はベリの目の前だったのだ。
「あ……」
フラリと倒れそうになる体をヴィラが慌てて支えた。それに継いで、ファールが。
アークはふっと頭を押さえた。締め付けられるような痛みが襲ってくる。ベリが心配そうに近寄った。
「大丈夫かね……今日は、いや……とりあえず、ルキのことが終わるまで……泊まってくださらんか。もっとも、待つ時間がない、となれば別だが……」
アークはヴィラと顔を見合わせた。今回は待とう、とアークが言った。前は、ヴィラが「戦わなければ入らない」という意見をつっぱっていたため、アークは一日だけ待つことにしたのだ。時間がないのには代わりが無いが、聖の属性を味方につけることはこれからレジスタンス活動を広げることによって大きな役割を果たすのだ。なぜなら、帝国は闇の属性であり、聖とは正反対のものだからだ。真っ向から対決すれば、大抵は聖が勝つ。そのため、アークは出来れば闇以外の属性を集めたかったのだ。
「待たせてください……しかし、天使になるまで、とは?」
ベリが静かな瞳でアークを見た。それは真っ直ぐ、翡翠の瞳を捕らえていた。その中に映る自分自身を覗き込むかのように。
「その通りのことだ。ルキ……あれは、人間ではない」
シャンとレラがアッと息を呑んだ。ヴィラとファールは、思わずアークを支える手に力が入った。
「どういう意味です?」
「ルキはこの世界のものではない。だから人間ではない。我々の指す人間、とはこの世界で生まれ育った者を言う。ルキは別世界――そう、【月の世界】と呼ばれるところの人間なんだ。其処の人たちには、真っ白な羽がある。背中に対となって」
「だから天使……」
ベリは静かに頷いた。
「ルキは月の世界からやってきた、天使族の最後の一人なんだ。しかしルキは月の世界を知らない。本当なら、儀式を行いルキは天使になるはずだった。しかし、その儀式をする前にルキの両親は無くなってしまったんだ……」
「じゃあ、あなたは?」
レラがヴィラの手をしっかりと握りながら聞いた。ヴィラは頬を赤く染めながら話を聞いた。
「私は元々ここに住んでいたものだよ……そして、天使族を受け入れた……」
シャンは俯き、先程ルキが出て行ったドアをじっと見つめた。
――別世界。
シャンは口の中で呟くと、誰にも気づかれないようにそっとドアを開けた。
レラはそんなシャンの後姿を、心に残る誰かと重ねていた。
翡翠色の美しい階段を上り終えた先に、砂漠が見渡せる広い屋上があった。シャンは屋上の柵によりかかり砂漠を眺めるルキの姿を見つけた。よし、と胸をはり、シャンはルキに近づいていく。
「気持ちいい風ですね」
その声ではっとし、ルキが振り返る。瞬きを数回繰り返した後、彼女は視線をシャンから逸らし、俯いた。
「そうですね」
優しい風がルキとシャンを取り巻く。砂漠の砂を舞い上げ、青い空の下で舞う。
ルキの肩まで伸びた金色の髪が揺れる。白いワンピースとともに。
二人の青い瞳は何を捉えているのか。
「わたし、ここにいてはいけないの」
沈黙をルキが破った。シャンの瞳は静かにルキを捉えた。ルキは柵に手を掛け、砂漠を見下ろした。黄色い砂、緑のない地。少しぼやける、向こうのヴィジョン。
「どういうことですか?」
シャンは視線を逸らさずに聞いた。ルキはまだ砂漠を見下ろしている。「わたし」
「確かに属性は聖だけど、わたしあなたたちとは違う。だって、わたしのこの背中には羽が生えているはずで、飛べるのよ。だからわたしは人間じゃない。あなたたちの仲間じゃない。存在してはいけないの」
ルキの声が、なんだか涙ぐんでいることにシャンは気づいた。ルキは続けた。
「でも、わたし天使でも人間でもないの」
柵を握っている彼女の手が震えていることにシャンは気がついた。力を込めて、握る。
シャンはなんだか肩が震えた。寒いわけではなかった。目の前に居る自分とそれほど歳の変わらない少女が、泣いている。自分が存在してはいけない、と決め付けて。そう思って。自分の存在が怖くて、泣いている。
――僕と同じ。
小さい頃本当に泣き虫で、アーク様を良く困らせていた。怖くて。愛してもらうのが、本当に怖くて。与えられている愛が偽者なんだと思っていて。
シャンは目を瞑った。あたたかい、風。澄んだ空気。
シャンは目を開いた。ぱっと広がる青い景色に、心奪われる。その下で、嘆き哀しむ少女。
「わたしには翼が無いから。飛ぶことができないから。だから天使じゃないの」
涙ぐみながら、一生懸命搾り出したその声。ルキの白く細い腕が震えている。
ルキは空を見上げた。何処までも青く澄んだ空の中を、二羽の鳥が楽しそうに飛んでいる。あのものたちは、わたしに無いものを持っている――……。ルキは胸が痛くなり、思わず胸元を押さえた。
目頭が、どうも熱い。
「わたし怖いの……。おじいさまは、ああやって優しく接してくれている。でも、おじいさまはわたしより先に行ってしまう。いつか、わたしの知らないところへ……」
その声は悲しみに満ち溢れていた。ぽろぽろと零れ落ちる涙。キラリと太陽の光を浴びて、それは光る。
「わたしは一人になってしまう」
ルキはしゃがみこみ、自分の体を抱いた。今まで感じてきた不安、恐怖。愛する人の死への怖れ。
――わたしが天使だったら。
――わたしに翼さえあれば。
――おじいさまを救えるのに。
綿雲が、ふわりと群れから離れた。ぷっつり、と。わたあめのような綿雲が。
「同じですよ、僕も」
ルキが潤んだ瞳でシャンを見上げた。青い瞳が哀しげな光を放っている。海の底の深き輝き。
「同じ……」
シャンはゆっくり頷いた。
「僕も一人になるのが怖いんです。僕は、幼い頃スラム街に捨てられました」
ルキの目が見開くのがわかった。シャンはかまわず続けた。
「そこで暗い幼少期を過ごしました。食べるものも無くて、日々喧嘩の毎日。僕は怖かった。此処で生き、此処で死ぬのかと」
ルキが口元に手を当てた。その瞳が恐怖の色に染まっていくのがわかる。シャンはルキからふっと視線を逸らした。
鳥の鳴き声がする。シャンはふ、と上を向いた。鳥が大空を舞っている。何年ぶりかに、鳥籠から放された様に。
「でも、そこから僕を助け出してくれたのが、アーク様でした。僕を側近としてお傍に置いてくださった。魔導士としての道を歩ませてくださった。僕にとっては、命より大切な人です」
ルキは瞳を閉じた。風を感じるように。
「そう、あなたには守るべきひとがいるのね」
砂漠の乾いた空気を風が運んでくる。銀色の太陽は、光を失うことなく輝き続けている。ルキはシャンの瞳をじっと見つめた。何処までも深く、そして愛する人を信じ疑わぬ心。
「あなたにも居るんじゃないですか」
柔らかい微笑みを浮かべたシャン。ルキは瞳を伏せると、手を胸に押し当てた。
鎖は解き放たれたのだという。
少年は一本の剣を引き摺りながら夕暮れの坂道を上った。
重たい、大きな剣。
復讐をするために刻まれたその心の傷は、決して癒えることは無い。
少年の頬を一筋の涙が零れ落ちた。
恩師と、肉親と。奪われたものは数知れず。
四
その日は月の館に泊まる事にした。あの後シャンが戻ってきたときには、既にそういうことになっていた。ヴィラ、アーク、ファール、シャンは二階の一室に、レラはルキの部屋に泊めてもらうことになった。
レラは用意された布団の上で、クッションをぎゅっと抱きしめていた。いい香りがする。ルキの部屋は、翡翠色ではなかった。磨かれた青い色。まるでサファイアのような壁や床。歩けばカツカツと音がするし(もちろん靴を履いているときだが)床に自分の姿がはっきりと映っているのはなんだか奇妙だった。
「あの、さ。私レラっていうんだ。レラってよんで。……ルキちゃんって呼べばいい?」
ルキは突然声をかけられ驚いたようだったが、すぐににっこりと笑った。
「はい」
可愛らしい声だ、とレラは微笑んだ。ルキはベッドにもぐりこむところだった。白い寝間着に着替えた彼女は、どこか淋しげだった。
「……そろそろ寝ませんか?」
「あ、うん」
ふふ、とルキが笑みを零した。レラは何故かホッとして、「おやすみ」といって布団を頭から掛けた。旅の疲れを癒すためなのか、レラはすぐに寝入ってしまった。
それを見て、ルキは微笑んだ。灯りを消し、枕に顔を埋める。
「おやすみなさい」
夜は更けていく。少女の心を闇の中へ放り込もうと。
滴り落ちる血が少年を染める。
憎しみに満ちたその心はいまや闇の中。
剣には真っ赤な鮮血がベットリとついている。
少年は銀色の刃をじっと眺めた。
闇に滴り落ちる赤い血。
少年の手は今、赤い血で染め上げられていた。
「眠れないのですか?」
影は、細く通る声に呼びかけられ振り向いた。館の屋上の柵に寄り掛かり、月を眺めていたようだった。驚いたように青い瞳がこちらをのぞいている。月明かりで、青白く照らされた頬。
「あ、ああ……なんだぁ。ルキか」
ヴィラだった。「お隣、宜しいですか?」とルキ。
空高く月が昇っている。青白い光の槍を放ちながら。
「静かですね」
ヴィラは頷いた。「恐ろしいほどにね」
ルキは膝を抱いた。ヴィラも、その場にすっとしゃがみこんだ。ヒョオヒョオと吹くのは、昼間とは違う風。ルキもヴィラも、知らぬ風。
「時々怖いと感じることがある」
えっと小さくルキが聞き返した。ヴィラは以前月を眺めている。
「何が、とは言い切れないけれど……身体の「なか」が震え上がっているんだ。それにたいして」
星は静かに瞬いている。藍を溶かした空に、キラリと輝く。ゴミの中に埋もれた宝石のように。
少しだけ雨のにおいがした。ヴィラは立ち上がった。
「これから起こること、これからやらなきゃいけないこと。沢山ある……」
ヴィラは口に手を添えた。瞳を伏せ、口をギュッと結んだ。
「はっきりいって、不安だよ」
ヴィラは柵を力を入れて握っていた。ギリギリと柵が少しだけ音をたてているのにルキは気がついた。ルキは風を受け止めながら、その様子をじっと見ていた。
不安なら自分の心の中にもある。ルキはヴィラを見つめていた。
ヴィラがふっと笑ったのを見て、ルキは不思議に思った。
――何故この人は不安なのに笑えるのか。
「シャンから聞いたんだ」
ルキははっとした。淋しそうに微笑むあの少年の横顔がふと浮かぶ。
「ベリからも聞いたよ……。君が天使なんだってこと」
ルキはぎゅっと足を胸に押付けた。肩が震えている。
「ルキは……天使にはなりたくないの?」
二人の間に沈黙が訪れた。ルキは瞳を伏せている。ヴィラは静かにその様子を上から見下ろしていた。青白い光は絶え間なく注ぐ。
ふと、その光が遮られた。辺りが少し暗くなった。ぼんやりと雲の間から月の光が漏れている。ヴィラは視線を左右に動かすと、俯いた。「ごめん」
ルキは目に涙を浮かべた。
「謝る必要なんかないです。私が悪いだけだから」
「え?」
「私がいけないんです。ちゃんとはっきりした意思をもてないから。だからおじいさまもためらって……!」ルキは憤慨した。
「なりたくないわけがない、私、お父様とお母様のようになれるのならなんだってする! 私には二人の血が流れているんですもの!」
ルキは叫んだ。その叫びは月夜のなか、静かにこだまする。
「天使になりたい……。私、天使になりたい」
少女の悲痛な叫び。
「私、天使になりたい!」
雲は切れることなく月を覆う。
スッ、と目の前に手が差し出された。ルキは目を見開き、顔をあげる。そこには哀しそうに微笑むヴィラの姿があった。
「それを、手伝わせてくれるかな?」
一筋。そう、ほんの一握りの希望にかけてみよう。ヴィラは本気でそう思った。
ルキは頬を熱い何かが流れ落ちたのに、気づいては居なかった。