序章『どうしようもない男の生温い日常』
『不幸』とは辞典で調べると、『不幸せ』・『不運』と書かれてある。
なら、『不幸な男』と調べたらどう書かれてるだろうか?
調べたら『かわいそうな男』、『まぬけな男』と書かれてあった。
なるほど。なら絶対に調べてもないだろうが、もう一つ調べてみよう。
『かわいそうで、まぬけな男』と調べたらどう書かれてるだろうか?
『もう、どうしようもない男』と書かれてあった。
つまりは、それが俺を表す言葉。
「いや、なんでこんなもん調べて出てくるんだよ…」
バン、と辞書を乱暴に閉じる。
もう、どうしようもない男、俺……柳凪 悠司は。
桜槻高校の図書室で勉強していたが、この憎たらしいクソ辞典に気分を削がれたために勉強をやめ、学生寮に帰る支度をする。
別に訳のわからない√の計算や『英語』というルーン文字とか中二臭いものよりも覚えにくい言葉から逃げるためではない。
これはあくまでも撤退。そう、一時撤退なんだ。
俺はまたこの戦場に戻ってくる……はずだ。
いや、戻ってこなければならない。
何故なら明日は特別進級テストがある。
特別進級テスト。
俺は下駄箱で上履きから靴に履き変えながら今一度このテストについて考えてみる。それよりさっき覚えた英単語の一つでも思い出すべきだろうが、脳内に記憶されてる単語は……ナニヒトツアリマセン。
あらゆる角度から見てもスペシャルな感じのする特別進級テスト。
だが内容はスペシャルというよりアブノーマルだ。
まあ、要するに『成績がオール「1」や「2」のバカで、莫迦な、大馬鹿野郎共に最後のチャンスをやろうじゃないか』という先生様々達によるありがたーい阿呆共に対する特別措置だ。このテストで平均点より上の点数を取れば進級、平均点以下ならマッタリ留年……という仕組みだ。
無論、こんな事をしてくれるのは俺の高校ぐらいだろう。
なんせ、桜槻高校は偏差値的に下から数えた方が早い。
しかも、桜槻高校の名を口に出しただけで近所のおばちゃん達が箒片手で威嚇してくるぐらいの逆の意味での有名校だ。さらに大学に進学できる奴も、どっかの湖の生き残った恐竜みたいな存在になりつつある。
それなのに、大学に行く以前に進級すら出来ない出来損ない共がいるとなっては学校側もさぞかしその固い頭を悩ませたのだろう。
その結果が特別進級テストの誕生だ。
人類の進み過ぎた科学の進歩の結果、公害怪獣が誕生よりもひどい結末。
まあ、これに対して俺が言える事は一つだけ。
まったく、バカな高校に入って良かった!
……いや、まあ実際はそこしか入学できそうになかっただけなんだが。
見慣れた商店街を通りながら晩飯の材料を買うため肉屋に寄る。今日は無性に肉が食べたいからな、……たまには贅沢して!……、ラード鍋だな。
金も希望もありゃしない俺は、ちゃっちゃか会計を済ませ肉屋を出る。肉屋のおじちゃん、びくびくしてたが何でだろね?……そんなの俺が桜槻高校の制服を着ているからに決まっているか。
ちなみに昨日の献立はひじき鍋で、一昨日はもやし鍋で、さらにその前の日は豆腐鍋……以下略
と、まあ一人暮らしを始めてからずっと低価格鍋料理だが、これは別に俺が鍋大奉行だからではない。ただ単に鍋料理しか調理出来ないからだ。煮るだけだから楽だしね。別に俺は気にしてない。一日十糖分あればそれで十二分だ。おやつに金を費やすんだよ。
そんな事よりも今は特別進級テストが問題だ。
大体、俺はこのテストを受ける側の人間ではないのだ。
確かに俺は頭脳は子供、見た目は大人になりつつある存在だが、それは些細な問題でしかない。本気を出せば赤点は免れる自信はある。
だが、一番の問題は――
瞬間、グチャリと。
靴の裏に不快な柔らかい感触。
「……、」
下を向く。映るのは自分の右足の靴とアスファルトの地面。
その間には隣合わせの男女更衣室を隔てる壁……よりも汚く柔らかく茶色い壁があるだろう。
「……、なんだ味噌か」
全国の味噌職人さん、あんたらの魂ともいえる産物を汚い呼ばわりしてすみません!
俺は心の中で平謝りしつつ、靴の裏に付いた犬の糞をそこら辺のコンクリートの壁に擦り付け、落とす。
これが一番の問題だ。
俺は『ドジ』か『不幸』かいずれかに当てはめるとしたら、どちらとも当てはまる。
小さい頃からよく転んだり、車に轢かれそうになったり、同級生に靴を水びたしにされたり。
特別進級テストにしたってそうだ。
毎回、中間テストや期末テストの時になるとインフルエンザになったり、右手を骨折したり、不良に絡まれたり、ストーカーに間違われて一日中お巡りさんとリアル鬼ごっこして――……他にも負'勇伝は盛々、沢々、山々。だが話すと一年は掛かるのでここで打ち切ろう。
まあ、簡単に言えば俺は全試験を欠席し、総合得点0点で一年の三学期終盤まできてしまったのだ。
そりゃ、教師共も俺の成績表に「1」を付けて、特別進級テストなんていう大それた試験パーティーに俺を呼びおえざるおえないだろう。むしろ、成績に「-5」を付けられなかっただけ俺は教師共に感謝しなければいけないのだ。
だから、次こそは……特別進級テストこそは受からなければならない。
受からなかったら留年して新入生たちにパシられるに決まっている。「カツサンドと週刊成年漫画雑誌買ってこいよォ柳凪先輩ィ」、とかムカついた口調で言われるに決まっている。しかも無駄にハードルと値段が高いやつ。
そんなのいやだ。
まだ同級生達に『疫病神』呼ばわりされてる方がいいに決まっている。
だから、明日は何が何でもテストに受からなければならないのだ。
無論、テスト当日にも何かしら不幸な出来事が起きるだろう。それが俺の日常だから。
だが、そんなの乗り越えてみせる。悪いが、俺はもうそんな犬の糞を踏んだり、靴の中にザリガニが入ってるぐらいじゃ揺るがない男になっちまったんだ。
最近じゃあ、恥ずかしいから人には言わないが、『幸せになる事』を第一目標にしている。
幸せになれるならどんな事だってする気だ。
だから、まずはその幸せに近づくための第一歩に、明日のテストで平均点以上を獲得すること。
幸せを掴むためなら……、どんな不幸やら犬の糞でも踏み潰してやるさ。
俺は明日のテストに対する気合いを入れ直しながら、犬の糞を落とし続けた。
―――、この五分後。
俺は今まで自分がどれだけこの生温い世界に甘えていたか痛感する事になる。
自分がいつも「不幸、不幸」と言っていた日常が。
毎日、嫌になるほど災難な目にあっている俺が。
どれだけ生温い世界に入り浸っていたかを痛感するんだ。
そう。天辻 風子という少女のおかげで――




