「私とは結婚できない」と言う竜騎士様が、毎朝私のために薬草を摘んでくる理由
「私とは結婚できない」
そう告げた人が、翌朝も薬草を届けに来た。
私の名前はリーゼ・フェルン。二十六歳。山あいの霧尾村で薬草畑を継いで五年になる。結婚できないと言ったのは竜騎士セイン・アーヴェル。三十歳で、北の国境を守る飛竜隊の副長だ。
昨日、隣のおばさんが余計な気を利かせた。
「二人ともいい年なんだから、いっそ夫婦になればいいのに」
夕食に招いた席で、本人たちの返事を待たずにそんなことを言ったのだ。私は熱いスープを飲み損ね、彼は大真面目な顔で答えた。
「リーゼとは結婚できません」
せめて「考えていません」くらいにしてほしかった。
セインは隣村から病人を運ぶ途中で私の畑に立ち寄るようになった。半年前から毎朝、出動がない日は籠いっぱいの山草を置いていく。手入れしにくい高地でしか採れない霜灯草まで、時には混ざっていた。私は彼に頼んでいない。薬草は助かるし、渡してくれる時の不器用な笑顔も嫌いではなかった。
だから少しだけ期待した。少しどころではなかったのかもしれない。
今朝、門の外に立つセインはいつものように大きな籠を抱えていた。竜騎士の濃紺の外套には昨夜の雨粒が残っている。
「おはよう」
「おはようございます。今日は何を?」
「霜灯草。東尾根の」
籠を受け取りかけて手が止まった。細い銀色の茎が山ほど入っている。
「昨日、私と結婚できないと仰いましたよね」
「言った」
「では、毎朝こうして訪ねてくるのもやめていただけませんか」
セインは籠に目を落とした。いつもは短く返事をする人が、なかなか口を開かない。
「草が足りないと困る」
「困るなら自分で採ります。もともとそれが仕事です」
「崖がある」
「承知しています」
彼は籠を地面に置いた。
「今日は上から二枚だけ摘んだ。根は残した」
霜灯草は根元を傷つけると次の冬に芽を出さない。最初に教えた時、セインは一度で覚えた。次に届けてくれた束には短く切った茎が一本もなかった。
腹立たしいことに、そんなところまで好きだった。
「ありがとうございます。でも受け取れません」
「分かった」
彼は籠を持ち直した。返してもらうつもりでいたのに、私は反射的に呼び止めていた。
「待って。霜灯草は竜の翼にも使えます。オルカの傷はどうなっていますか」
オルカはセインの相棒である灰色の雌竜だ。三日前、山越えの救援で翼を痛めた。大人の飛竜ほど丈夫な生き物はいないと言うが、翼の薄い膜には寒さが残る。傷をかばって飛び続ければ筋を痛め、次の冬には飛べなくなる。
「赤みは引いた。まだ熱い」
「休ませています?」
「もちろん」
「今朝の巡回は?」
「若い竜に任せた」
よかった。私は籠を見つめたまま答えた。
「それなら、薬は私が作ります。代金は飛竜隊に請求しますから、薬草だけ置いてください」
「分かった」
彼はようやくいつもの返事をした。ただ、帰り際に「花が一輪」と付け加えた。
見れば霜灯草の束に、小さな白い花が紛れている。山道では今の季節にしか咲かない冬星花だ。
「薬には使いませんよ」
「知っている」
「でしたら、どうして?」
「君が、好きだと言った」
あの人はそういうことを言っておいて、こちらを見もしない。
外套の裾が門の向こうへ消えたあと、私は花を机の水差しに挿した。抜きたくなったが、手が動かなかった。
*
「断られたんですって?」
薬草の束を洗っていると、叔母のサラが勝手口から顔を出した。
「誰に聞いたの」
「夕食に招いた張本人が朝市でしゃべっていたわよ。あの人、もう少し気の利いた断り方はなかったのかしらね」
「私もそう思う」
「それで薬草は受け取ったの?」
「仕事だから」
「花まで?」
「見ていたなら聞かないで」
叔母は笑わなかった。作業台に載った銀色の葉を一枚指でひっくり返す。
「あなたがセインを好きなのは分かる。でも、仕事の判断を意地で変えるのはやめなさい」
「やめてない。オルカの薬は作る」
「ならいい。あの竜が飛べなくなれば北の四村は冬を越せないからね」
北の四村を結ぶ山道は雪が深い。人は徒歩や荷車で通えるが、冬には岩の斜面が崩れて道を塞ぐ。オルカとセインは病人や緊急の荷を何度も運んでいた。大勢を乗せられるわけではない。背に載せる患者は一人か二人。それでも頼れる人がいるだけで、霧尾の冬は変わった。
「飛竜隊の他の竜では駄目なの?」
「軽い荷ならユルが運べる。でも吹雪の中で人を乗せられるのはオルカだけ。今はそのオルカが飛べない」
叔母は窓の外を見た。畑の向こうの峰にもう白い筋がある。
「去年みたいな雪が来たら困るねえ」
去年、峠の向こうの集落では熱を出した子を荷車に乗せるのに半日かかった。熱そのものより、運ぶ途中で体温が下がる方が危なかった。私は薬草茶を調合したが、現場へ届くまでに意味を失うものがあると思い知らされた。
「だから中継の薬箱を作りたいんだよ」
台の下から分厚い木箱を出す。赤い布には巻き方の図、白い布には水を飲ませてよい状態、黒い糸には飲ませてはいけない時の注意を結びつける。文字を読めない人でも取り違えないよう、冬の間に村々で試したものだ。薬草師の私だけで病気を治せるとは思わない。医師が来るまで命をつなぐための道具だった。
「申請は?」
「今週の評議会に出す。通行路と補給所、両方の予算が必要だから」
「先に言っておくけど、お役人は馬が通る道しか道だと思ってないよ」
「地図を持っていく。父さんが使っていた旧採掘路も」
父は山の測量を生業にしていた。私が十五歳の年に病で亡くなったが、地形と水脈を書き込んだ革表紙の地図帳を残してくれた。そこには冬でも風の弱い谷や、吹雪の日にも雪が積もりにくい岩棚が細かく記されている。私は薬草を探しに出る時、いつもその地図を持った。
「いい考えだね。でも無理はしないこと」
「叔母さんの口からそれを聞くとは思わなかった」
「人のことなら言えるものよ」
叔母が帰ったあと、私は薬を作り始めた。霜灯草の葉を細かく刻み、ぬるい湯に浸して香りを移す。飛竜の翼の炎症を和らげる外用薬だ。高い熱を当てれば成分が壊れるので、沸かした湯は使えない。濡らした布を柔らかい革の間に挟み、傷に直接擦れないようにする。
窓際の冬星花は一輪しかない。
そう思いながら、私はその水を替えた。
*
夕方、飛竜隊の駐屯地へ薬を届けた。
岩壁を削って作った広い竜舎には、鱗の擦れる音が響いている。オルカは入口近くの寝床で片方の翼を少し広げていた。大きな瞳が私を見つけると、頭を下げる。細かい灰色の鱗が光を吸い、首の根元だけ銀色に見えた。
「痛かったね」
鼻先を撫でると、オルカは喉を鳴らした。馬なら人の背を押すほどの力だ。私は足を踏ん張る。
横から大きな手が伸びてきた。
「重いぞ」
「知っています」
セインは竜の頭を支え、私が翼を見る間じっと待っていた。昨日の一言さえなければ、当たり前に彼の隣へ立てたのに。
「薬を薄く塗ります。今日は飛ばさないでください。明日からの四日間も、できれば」
「十四日は飛ばさない」
「良い判断です」
「君に叱られる」
「怒るのは私より先にオルカです」
ちょうどその時、オルカが低く鼻を鳴らした。セインの顔へ白い息がまともにかかる。
「ほら」
笑いかけてから、昨日の食卓が頭に戻った。目を逸らすと、彼も口を閉じた。
若い副隊員のネリーが水桶を運んできた。二十三歳で、細い身体に似合わず大声を出す。彼女の相棒である小型竜ユルが後ろをついてくる。ユルは胸までの荷籠なら運べるが、大人の乗り手を背負えば谷を越すのも難しい。
「リーゼさん、ありがとうございます! 隊長、明日の荷便に霜灯草を載せなくていいって伝えときます」
「隊長じゃない。副長だ」
「本人しか気にしてませんよ」
ネリーはセインの肩越しに、こちらへ合図した。
「副長、朝からまた東尾根へ上がっていました。もう傷の具合を見に来るだけでいいのに」
「ネリー」
「はいはい、余計なことでした」
彼女は逃げるようにユルを連れていった。
「無理して薬草を採っていませんか」
「勤務前だ」
「それ、答えになってません」
セインは私の顔を見た。言いたいことがある時、彼はまず視線を外さない。私はこの癖を半年かけて覚えた。
「君の薬箱の件を聞いた」
「評議会のこと?」
「ああ。提出するなら、飛竜隊の記録を貸せる」
思わず顔を上げた。
「本当に? 冬の搬送日数と出動回数が知りたいの」
「隊長の許可を取る。君が必要だと思う数字を教えてほしい」
「お願いします」
勢いよく礼を言ってから、口元を押さえた。彼はほんの少し笑った。
「仕事の顔だ」
「何ですか、それ」
「安心する」
セインが外套の袖を戻す。右手首には古い火傷の痕があった。竜を助けようとして負ったものだと聞いている。本人は詳しく話したがらない。
「昨日の話を、なしにはできない」
「そうでしょうね」
「でも君の仕事は手伝いたい」
「仕事なら遠慮しません」
私は薬の瓶を棚に並べた。三本のうち二本はオルカ用、一本は予備だ。
「じゃあ遠慮なく、今夜中に出動記録をお願いします」
「了解した」
騎士の返事に戻っていた。私も薬草師の顔で頭を下げた。
*
翌日の評議会では、私の地図が机の半分を占領した。
「旧採掘路を物資の通路に、ですか」
ボルクが眉を寄せる。四十代の書記で、限られた予算を一銅貨ずつ数える人だ。嫌味を言うが、支払いを一日も遅らせないので私は嫌いになれない。
「馬は通れません」
「ええ。人二人が横に並べる幅です。薬箱と担架なら通せます」
「補給所まで作る金が、どこにあります?」
「新しい建物は要りません。中腹の古い番小屋を修理すれば使えます。屋根の半分は去年、狩人組合が直しています」
「修理費、薪、薬、番人の手当。ほかにもある」
「見積もりを分けてきました」
紙を渡す。記した数字は町の大工と薪屋に直接聞いたものだ。
「飛竜隊から無償で運べる荷の分を差し引いても、薬草師の人件費が高いね」
「私の分です。冬の夜に呼び出される仕事なので、無償にはできません」
「もっともだ」
銀髪を短く束ねた隊長は、セインより十歳ほど年上の女性だった。二年前の大雪の夜に救援の指揮を執り、それ以降は無理な飛行を許さないことで知られている。
「運べる荷は私の権限で決められる。ただし人員を常駐させるなら、北方隊の配置規則に従って軍へ申請する必要がある」
「騎士を住まわせてほしいわけではありません。薬草師か見張りを交代で置きたいんです」
「それなら村の判断だ」
意外に話が進むと思ったところへ、ボルクが一枚の書類を差し出した。
「試験設置は認めてもいい。ただし雪期の通行実績がない。最初の年は自前で安全対策を示してもらう。評議会から金を出すのは、使えると確認できてからだ」
「最初に使えると証明するにはお金が必要です」
「だから難しいと申し上げている」
医師のハンスが口を開く。
「薬箱自体は有用です。昨冬の救護で困ったのは、処置に必要な布と湯が現地になかったことでした」
「竜がいれば運べるのでは?」と村長。
私は立ち上がった。
「オルカが翼を痛めたら、私たちは二週間待つしかありません。竜だけを頼るわけにはいかないんです。竜を守るためにも」
イレーネ隊長が机を指で二度叩いた。
「なら、冬が本格化する前に試験をする。半月後の共同訓練だ。旧採掘路を使って薬と担架を運べるか調べる。その報告をもとに評議会が予算を再審議する。それでどうだ」
十五日あれば薬箱を十個準備できる。番小屋の屋根も塞げる。協力する人が集まれば。
「やります」
答えた瞬間、ボルクが机の端から顔を出した。
「ただし、無理な行程だったら承認しません。勇ましさで人は助からないんです」
私は言い返さなかった。
「分かっています。だから安全に通れる道を作りたいんです」
評議会を出ると、セインが廊下で待っていた。会議の席へは副長として同席できない。彼は記録の整理に追われながら、入口に出てきたらしい。
「通ったか」
「試験だけ。資金はまだ」
「十分だ」
「全然十分じゃない。でも始められる」
笑うと、セインはなぜか一歩下がった。
「どうしたの?」
「いや。君が笑うと」
続きは聞けなかった。通りがかった隊員が敬礼すると、彼は背筋を伸ばした。
「必要なものを書いてくれ」
「それじゃあ今夜、一覧を作ります」
「君の家に取りに行く」
「仕事としてですね」
私の言い方が悪かったのだろう。セインは少し困った顔で答えた。
「そうだ」
その返事は昨日より痛かった。
*
訓練までの十五日は、予想より忙しかった。
最初の失敗は一日目に起きた。新しく雇った若い薬草師のネルが、薬箱の布を私の指示どおりに結んでいた時のことだ。
「リーゼさん。赤と白が同じに見える人もいますよ」
「目印は色だけじゃないよ。赤は一本、白は二本の結び目にしてる」
「でも暗いところで急いでいたら、結ぶ側だって間違えます」
私は口を開きかけて止まった。確かに箱の中身を詰めたのは私だけだ。見分けられると思い込んでいた。
サラ叔母さんに頼んで目をつぶったまま薬箱から布を取り出してもらうと、三回に一回は取り違えた。
「改良しよう」
「一からですか?」
「一から」
ネルは困った顔のまま笑った。
五日目には狩人たちが旧採掘路の崩れた石を拾いに来た。どの人にも仕事があり、頼めば無条件で手伝ってくれるわけではない。私は薬草の売上げから日当を出し、足りない分は自分の冬用の貯えを崩した。
六日目の夜、金箱の底が見えた。
「足りないね」
叔母が数を確かめる。あと八日で用意しなければならない防水布が買えない。
「私が冬に着る外套を売ろうか」
「薬草師が冬に外套なしでどうするの」
「じゃあ薪を減らす?」
「薬より先に人が冷えるわよ」
言われて初めて、何のための道具を作っているのか分からなくなりそうだった。
その時、窓が二度叩かれた。
セインが立っていた。いつもより遅い時間で、髪に細かい霧がついている。
「一覧を取りに来た」
「昨日渡しましたよ」
「追加があるとネリーに聞いた」
私は作業台に積まれた帳面を見た。そこには不足品と金額を何度も書き直した跡がある。
「防水布です。でも買えるか分からなくて」
「軍の倉庫に余りがある」
「無償で借りるわけにはいきません。今回は村の試験なんです」
「中古品を譲る規則はある。代金は安い」
「それでもお金がないの」
思った以上に強く言ってしまった。セインが黙る。叔母は台所の方へ退いた。
「ごめんなさい。仕事の話なのに」
「仕事の話だから聞く」
セインは机の上の紙を指で押さえた。
「足りないのは、いくらだ」
「お金を貸してくれるつもりなら断ります」
「そうじゃない」
彼は戸口に立ったまま、しばらく考えた。
「訓練の出動記録を今月中に写す仕事がある。帳面が多くて、隊の者だけでは終わらない」
「それを私に?」
「報酬が出る。君の字は読みやすい。医薬品の名前も間違えない」
私は彼を見た。急に思いついた口実かどうか、顔からは分からない。
「本当に仕事はあるんですか」
セインは胸の内側から依頼書を取り出した。隊の封印が押された紙だった。
「君に渡そうと、申請していた」
「いつ?」
「評議会の翌日」
私のことを助けたいのなら、もっと分かりやすいやり方がいくらでもある。それでも彼は私が仕事をして得るお金を用意した。
「……引き受けます。ただし時給は他の筆写係と同じにしてください」
「ああ」
「それから、勝手に私の分だけ増額したら怒ります」
「覚えておく」
叔母が台所から戻ってきた。
「私は先に寝るからね。二人とも遅くまで無理しないで」
セインは慌てて立ち上がった。
「失礼します」
「帳面は置いていって」
「置く」
「花は」
「……花?」
「枯れてないか」
窓際の冬星花は三日目を迎えていた。冷えた水に浸しておくと少し長持ちする。
「まだ咲いてます」
「そうか」
セインはそれだけ言って帰っていった。
*
七日目、オルカの翼から熱が引いた。
薬を塗る間、竜は大人しく顎を床につけていた。傷の端を押すと少しだけ身じろぎしたが、以前のように翼を引っ込めない。
「順調です。でも飛行はあと七日待ってください」
「分かった」
セインはオルカに何か短く囁いた。竜は彼の肩に鼻先を乗せる。銀色の鱗が外套をこすり、彼が重そうに膝を曲げた。
「笑ってる」
「人をつぶしそうなのに?」
「オルカは君が来ると機嫌がいい」
「そう言うセインも少し機嫌がよく見えます」
「冗談です」
「冗談じゃない」
短い返事だった。何を意味するのか聞きたかったが、そこへイレーネ隊長が入ってきた。
「リーゼ。筆写を手伝ってくれて助かる。セインの字は読めるが、作業が遅くてね」
「慎重なんです」
「そうだ。とにかく慎重だ。人の気持ちの話になると特にな」
「隊長」
「分かっている。余計なことは言わない」
隊長は戸口で立ち止まり、表情を改めた。
「試験について確認したい。旧採掘路の三つ目の曲がり角、崩落の危険がないと言い切れるのか」
「言い切れません。だから当日は斜面の上に見張りを一人置きます。雪が緩めば引き返します」
「よし。悪天候なら中止だ。評議会の決定が欲しくても人命を賭けるな」
「はい」
隊長が出ていくと、セインは棚から巻いた地図を取り出した。
「旧採掘路の先に、石渡の集落がある」
「ええ。父の地図にも載っています」
「二年前の雪で、外の道が塞がれた。あの時はオルカが三往復して薬を運んだ」
「聞きました。あなたが腕を焼いた時でしょう」
彼は無言で頷いた。
「その時、俺の隊にいた騎士が一人亡くなった」
「初めて聞いた」
「必要のない話だと思っていた」
彼は地図の端を押さえる。石渡へ続く峠が指の下に隠れた。
「一度目の救援で竜の翼を傷めた。それでも天気が持つと思って二度目に飛ばした。帰りに突風が来て、後ろを飛んでいたルートが落ちた。俺は先に降りていて助けられなかった」
「その人は……」
「俺より二つ下だった。妻と、生まれたばかりの子がいた」
セインが毎朝決まった時刻に起き、薬草を届けてから隊へ戻る理由を私は知っているつもりだった。人の命を運ぶ仕事だから真面目なのだ、と。でも目の前の人は、誰かの帰らなかった日を抱えている。
「だからあなたはオルカを休ませるのね」
「そうだ」
「その人のことを忘れないために?」
「忘れたくても忘れられない。だから次の判断を間違えたくない」
「私にも、父にしてあげたかったことがある」
口に出す予定はなかった。
「風邪だと思ってお粥を作って、診療所に行くのを一日遅らせたの。結果が変わったかは分からない。でも、あの時の私にはそれしかできなかった」
「君のせいじゃない」
「そう言われても、うまく受け取れないんです」
彼の目が少し伏せられた。
「分かる」
「だから、今度は困る人のところへ必要なものを先に置いておきたい。薬箱を作りたいのはそれだけです」
セインは地図を巻き直し、私の前に置いた。
「君の父親が残した地図と、合わせてくれ」
「どうして?」
「俺は竜で空からしか見ていない。君が歩いて知っている道を、俺も覚えたい」
その夜、私たちは床いっぱいに地図を広げた。私が岩棚の水場を指すと、セインは上空から見える白い岩の印を教えた。何度も地図を回し、採掘路が沢に近づく場所を確かめた。
「何か」
「この傷、寒いと痛みます?」
「少し」
「あとで軟膏を持ってきます」
「仕事か」
問い返す声が珍しく弱かった。
「……半分は」
彼は地図に視線を戻した。耳だけが赤い。竜舎は寒いからだと自分に言い聞かせたが、きっと違った。
*
十日目、旧採掘路の入口で事故が起きた。
補強を手伝っていたオトが石を踏み外し、足首をひねったのだ。骨は折れていなかったが、しばらく重い物は持てない。
「俺がいないと作業が間に合わない」
荷車に乗せられたオトは自分の足を見て唸った。
「そんなことを言ったら、治る前に立つでしょう」
「大工なんてそんなもんだ」
私は巻き布を持ち直した。
「立たないで治す方が難しい仕事です。今はそっちをお願いします」
オトは不服そうに口を結んだ。隣でネルが肩を震わせた。
現場へ戻ると、ロープの固定に使う杭が足りない。悪いことは重なる。私は誰もいない岩棚の脇で、地図を膝に広げた。
試験まであと五日。中止になれば評議会の予算は次の冬まで回らないかもしれない。やると言ったのは私だ。ここで止まれば頼った人たちにも申し訳ない。
「リーゼ」
いつの間にかセインがそばにいた。徒歩で巡回してきたらしい。彼は私の横へしゃがんだ。
「手が冷たい」
「寒いから」
何も考えずに言うと、彼は外套のポケットから小さな石を取り出した。布に包まれた丸い石で、触れると温かい。
「竜舎の炉で温めた。火傷しない温度だ」
「手を温めろってこと?」
「薬草を触る手だ」
両手で包むと、指先から力が抜けていく。セインは寒くないのか、手袋のまま石の向きを直してくれた。
「杭の件なら、隊の補給庫に余りがある。申請書を書いて借りればいい」
「また助けてもらうの?」
「人から借りられるものは借りろ」
「でも私の計画なのに」
「君一人では使わない道だ」
「そうだね」
「ネルは箱を直した。オトは屋根を直した。君だけで作っていない」
頭では分かっていた。それなのに、足りないものを誰かに頼るたび、私が失敗している気がした。
「私はみんなに迷惑をかけているのかな」
「困るから道を作るんだろう」
彼は大きな手で地図の端を押さえた。
「俺も使う」
「騎士団が?」
「俺が」
温石を持つ手に力が入った。
「セイン。昨日の『結婚できない』という話、まだ理由を聞いていません」
彼の指が止まる。
「聞かなくていいと思っていた」
「私は聞きたい。傷ついたまま仕事だけ一緒にするの、思ったより難しいんです」
セインは周囲を見回した。作業員たちは別の斜面で石を拾っている。近くにいるのは私たちだけだった。
「春に、王都へ戻る命令が出ている」
「……王都?」
「北方の飛行隊を育てる任務だ。三年は戻れない。ここへ来る前から申請していた」
「あなたが希望したの?」
「そうだ。竜を傷めずに飛ぶ方法を、次の隊へ教えたい。ルートの事故からずっと考えていた」
いい仕事だと思った。彼らしい願いだとも。だから余計につらかった。
「私は霧尾を離れられません。薬草畑もあるし、叔母さんもいる」
「知っている」
「それでも、あなたの任務も大事なのね」
「大事だ」
私は頷いた。答えははっきりしている。どちらかが仕事を捨てなければ一緒に暮らせない。
「じゃあ、昨日の答えは正しかったんだね」
「正しくなかった」
セインの声が少し強くなった。
「君を選べないという意味で言ったんじゃない。ただ、引き止める権利も、連れていく権利も俺にはないと思った」
「権利がないって、私に聞いてもいないのに決めたの?」
「……そうだ」
「私がもし『王都に行きたい』って言ったらどうするつもりだったの」
彼は黙った。
「そうやって一人で正しくあろうとするの、少しずるいよ」
「すまない」
「謝ってほしいわけじゃない。でも私の答えを聞いてほしかった」
私は温石を彼の手へ戻そうとした。
「持っていてくれ」
「……いいの?」
「返してもらうために渡したんじゃない」
私はその石を持ち帰ることにした。仕事場の棚にはまだ冬星花が咲いている。彼がくれた物が増えるのは困る。けれど、自分から手放す理由も見つからなかった。
*
訓練の前夜、空が妙に澄んだ。
夕方の空気は温かく、日が落ちると急に冷えた。山で暮らす人間には嫌な変化だ。湿った風が反対の谷から来る時、夜のうちに雪雲が峰を越えることがある。
私は番小屋の窓を閉め、ネルに言った。
「明日は予定を変えるかもしれない。食料は倍持とう」
「晴れるって言われてますよ」
「山は天気予報を読まないから」
ネルが笑う。けれど、彼女も袋にパンを追加した。
子ども十二人と大人六人が校舎に集まり、山を越えて届いた本を読んだり、火を囲んで歌ったりするのだという。
「うちの娘も行ってる。戻ったらまた話を聞かせるよ」
「代金はいいですよ。娘さんたちに」
「ありがとよ。そういえば明日は山道を歩くのか?」
「ええ、訓練で」
「石渡側へは出ない方がいいぞ。向こうの沢の水が、今朝から妙に濁ってる」
父の地図に、沢が濁る時は斜面の土が動いていることがある、と書き込まれていたのを思い出した。
すぐにイレーネ隊長へ伝令を出した。しばらくして返事が届く。
『明日の共同訓練は北側の区間を除外する。現地の見張り二名を増やし、危険なら全面中止』
正しい判断だった。せっかくここまで準備したのに悔しい、という自分の気持ちは胸にしまう。
帳面を閉じた時、戸口にセインが立っていた。
「手紙、見た」
「沢が濁ってるんだって。去年もあの谷で小さな崩れがあった」
「覚えている」
彼は薬箱の列を見た。十個の木箱には新しい刻み目がついている。一本線が飲み物、二本線が手当て、三本線が保温具。色を見なくても識別できるように直した。
「上手くなった」
「ネルのおかげです」
「君が意見を聞いたからだ」
いつもの簡潔な褒め言葉だった。私は箱を積みながら言った。
「セイン。王都行きのことはまだ考えられない。でも、あなたが教えたいことは分かった。私も薬草師を続けたい」
「当然だ」
「だから、私たちの話も二人で考えたい。今すぐ答えは出ないけど」
セインは入口に立ったまま、少し息をついた。
「……待つ」
「待たせるのが得意ですね」
「君ほどじゃない」
「私?」
「最初に薬草を渡した日から、俺は何度も言いかけてやめている」
持っていた箱を落としそうになった。
「それ、今言うの?」
「今なら聞いてくれるかと」
「聞きたいけど……仕事が終わってからにしてください」
「分かった」
セインが箱を棚へ載せる。私が持つよりずっと簡単そうに見えた。
「明日の訓練が終わったら、ちゃんと話そう」
「ああ」
この約束が、私たちの初めての約束らしい約束だった。
*
訓練を予定していた朝、夜明け前に鐘が鳴った。
飛竜隊の鐘は普段、一度しか鳴らない。三度続けて鳴るのは集落からの救援要請が来た時だ。私は寝間着のまま窓を開け、村の広場へ走るネリーを見つけた。
「石渡で崩れが起きました!」
「学校は?」
「まだ人がいます。昨夜からの冬祭りで子ども十二人、大人六人。西の渡り道が落ちて、帰れなくなったそうです。見張りが迂回して知らせに来ました」
「全員無事なの?」
「二人けがをしたとだけ。朝のうちに雪雲が来ます」
昨夜、行商人が話していた濁った沢。あれが崩れたのだ。危険を知っていたのに、何もできなかった気がした。
ネルが隣の部屋から飛び出してきた。叔母も布を肩にかけて起きている。
「箱を持ちます。リーゼさん、どれを?」
「全部じゃない。手当ての二箱と保温具の二箱。水は途中の番小屋で汲める。パンを四袋」
声に出すと頭が働き始めた。
「叔母さん、ハンス先生に連絡を。集落から戻る人がいたら診てもらいたい。ネルは残って、追加の包帯と湯を準備して」
「リーゼさんは?」
「先に行く」
叔母の手が私の腕をつかんだ。
「行くのはいい。でも二人だけで山に入るんじゃないよ」
「分かってる」
急いで着替えて広場に行くと、イレーネ隊長が地図を広げていた。セインは既に外套を着込み、短いロープを腰に巻いている。
「旧採掘路なら通れます」
そう言ったのは私だった。
「道の途中までは昨日、補強を終えています。石渡へ抜ける最後の沢は危ない。でもその手前から東の岩棚に上がれば、学校の裏側へ出られます」
隊長の指が地図をなぞった。
「何時間かかる?」
「慣れた人で四時間。大人数を連れて帰るなら六時間は見てください。早朝に出れば日が落ちるまでに番小屋へ着けます」
「竜で運べないか」と村長。
オルカの名が出る前に、私は答えた。
「オルカは翼を痛めています。飛ばせません」
「でも子どもが」
「オルカを無理に飛ばして落ちたら、子どもも竜も失います。私たちが歩きます」
セインが静かに頷いた。
「隊長。ユルなら上から様子を見られます。軽い伝令と細い引き綱だけを持たせます。俺は歩く隊を率います」
ネリーはすぐにユルの支度へ走った。イレーネ隊長は少し考え、指示を出す。
「先遣隊はセイン、リーゼ、狩人二人、隊員二人。救護具と食料を持て。私は後続を出し、番小屋に受け入れの場所を作る。ハンスは村で待機。帰路の安全が確認できなければ現地に留まる。いいな」
「はい」
雪の匂いがした。昨夜の空が澄んでいたのは、嵐が来ない印ではなかった。
出発前、私はセインの袖をつかんだ。
「オルカは必ず休ませて」
「約束する」
「あなた自身も無理しないで」
「君も」
セインは私の手袋を見た。古くなった革の縫い目が指の間で開きかけている。
「帰ったら直そう」
「裁縫もできるの?」
「竜具を縫う」
「手袋と翼の装具は違うと思う」
「……確かに」
二人で笑った。そんな時ではないのに、少しだけ息ができた。
*
旧採掘路は訓練の時よりずっと狭く見えた。
途中の番小屋には一つだけ、完成した薬箱を置いてあった。補修途中の屋根は風を通したが、乾いた薪と水桶は使える。
「中継所って、こういう役に立つんですね」
後ろの隊員が言った。
「今はまだ屋根も穴だらけです」
「でも薪を担いでこなくて済んだ」
セインは入口に目印の赤い紐を結んだ。吹雪になっても見えるように高い位置へ二本。通路の細い方へは一本。
「これなら後続が迷わない」
「父の地図にも、同じ場所に昔の標識があった」
「父君はよく山を見ていたんだな」
「歩くのが好きだったの。仕事の時も、帰りは必ず別の道を通って」
「君と似ている」
それは初めて言われた。父の地図を使ってきたけれど、似ていると考えたことはなかった。
番小屋を離れて一時間ほどで、東の岩棚に着いた。そこから石渡の学校が見えるはずだった。
だが白い斜面の途中に、昨日までなかった大きな岩が転がっている。細い踏み道が土砂で埋まっていた。
「ここも駄目か」
狩人がしゃがみ込み、泥をつかんだ。雪の下から水がにじんでいる。上の斜面が動き続けている証拠だ。
「戻って西の道を回るには遅すぎる」
隊員が空を見上げる。青い部分が急に狭くなっていた。
私は地図帳を開いた。父の書き込みは薄い。東の岩棚のすぐ下に、小さな丸印がある。『猟師穴。雨なら使うな。底が抜ける』と書かれていた。
「近道は使えない」
「ほかは?」
セインが私に聞いた。
その時、上からユルの鳴き声がした。
白い小型竜が雲の下を滑り、斜面の向こうへ回り込む。背に人は乗っていない。ユルは出発前に教えられた合図布を探して谷を巡っていた。ユルが飛び去った先には、土砂の上を横切る細い岩の突起があった。
「向こう側に昔の作業用の輪があるはず」
地図に記された古い鉄の固定具。採掘師が荷を引き上げる時に使ったものだ。錆びているかもしれないし、土砂の下かもしれない。
「上から見えるなら使えるかもしれない。ユルに綱を渡してもらえば」
私は言いかけて、首を振った。
「待って。固定具が残っていても人を吊るすのは駄目。状態が分からない」
セインが岩を見た。
「人は吊らない。まず軽い綱を渡す。向こうの固定具を使わず、両側の生きた木に太い綱を張る。道を通る時に身体を支えるためだ」
「地面を歩いて渡るんですね」
「ああ。揺れる場所を確認してから、一人ずつ」
狩人二人が地面を掘り、安全に立てる幅を確かめた。小さな石を落とすと、下の谷まで時間がかかる。怖くなって息が浅くなる。
「危ないと思ったら引き返そう」
私はセインの顔を見た。
「必ず」
彼は頷いた。ユルが落とした細い綱を回収し、太い綱を引き寄せて手前の木に結んだ。狩人が命綱を腰に結び、安全を確認しながら先に渡った。向こうの木に綱を固定し終わるまで、他の者は動かなかった。
通れたのは一時間後だった。子どもを連れて戻る時には、さらに時間がかかる。
学校の屋根が見えたのは昼過ぎ。煙突から煙が出ていない。
私は走り出しかけて、セインに腕をつかまれた。
「走るな。足元を」
石の段が凍っていた。あのままでは転んでいた。
「ごめん」
「一緒に行く」
彼は先へ出ず、私の横に並んだ。
*
学校の扉を開けると、子どもたちの泣き声が聞こえた。
長机を四列置ける教室に十八人。机を壁へ寄せ、毛布を床に敷いている。大人の一人が腕を痛め、もう一人は額から血を流していた。薪は濡れ、煙突は崩れた土砂で詰まっていた。
「薬草師です。けがをした人から診ます」
私は名乗り、ネルと用意した二本線の包帯を取り出した。傷を清潔な水で洗い、額の傷へ布を当てる。腕を痛めた人には木の板を当てて動かないようにする。ハンス先生の診察が必要だが、ここでできる処置は限られている。
セインたちは屋外で斜面を調べ、帰路の安全を確認していた。隊員一人が連絡のため番小屋へ引き返す。残りの人で歩ける順番を決めることになった。
「子どもたちを先に」
学校の教師が言った。四十代の女性で、声はしっかりしていたが指先が青白い。
「もちろんです。でも全員で帰ります」
「十八人も、一度に?」
「一度には動けません。六人ずつ。岩棚には一人ずつ進ませます。歩けない人は担架で、もっと安全な道を使います」
教師は唇をかんだ。
「大人の一人が、足をくじいてしまって。階段もつらそうで」
また増えた。担架が要る人は二人になるかもしれない。私は配るべき包帯と食料を数え直した。
教室の隅で、小さな女の子が半分だけ靴を脱いでいた。濡れた靴下のまま床に座り、膝を抱えている。
「寒い?」
しゃがむと、女の子は首を振った。でも唇が震えていた。
「何歳?」
「……七つ」
「お名前は?」
「エマ」
「エマ。私の名前はリーゼ。足を少し見せてね」
靴下を脱がせると足の指が冷えていた。乾いた布で包み、温かい飲み物を少しずつ渡す。熱すぎないように、自分で確かめた。
「お母さんに会いたい」
「うん。会いたいよね」
「帰れる?」
大丈夫と簡単に言いたかった。でも斜面の土はまだ動いている。私は女の子の手を両手で包んだ。
「帰るためにここへ来たの。どうやって帰るか、今みんなで考えている」
エマはしばらく黙ってから、私の外套の端をつかんだ。
「待ってる」
「ありがとう」
教室の外でセインが呼んだ。戸口へ行くと、彼は地図を開いていた。
「岩棚の道は帰りには使えない。雪がつき始めた」
さっき通った場所が、もう危険なのだ。
「じゃあ西へ迂回?」
「途中の沢が崩れている。無理だ」
「ほかの道があるはず」
どうしても何か見つけたい。子どもたちの前で帰れないとは言いたくなかった。
セインは地図を取り上げなかった。私が考えるのを待っていた。
『東の岩穴。冬は風が弱い。雨は駄目』。猟師穴とは別の印だ。岩棚のさらに下、沢を越えない側に小さな洞がある。
「ここ。昔、父が雪の日に使った道。下へ降りると風が弱い場所があるはず」
「どこへ出る?」
「番小屋の裏手。遠回りになるけど、人を吊るさずに歩ける。急な段は少ない」
「実際に歩いたことは?」
「子どもの頃に一度。でも冬はない」
セインは見張りの隊員を呼んだ。
「狩人と二人で確認に行く。戻るまで誰も動くな」
「私も行く」
「君には負傷者がいる」
「地図を見たのは私です。道の分かれ目も覚えてる。迷わせる方が危険でしょう」
一瞬、言い争いになりそうだった。セインは唇を結び、地図を見た。
「分かった。ただし俺の言うことを聞けという意味じゃない。危険だと思ったら君も止めてほしい」
「そうします」
私たちはまず、学校に残る大人へ帰路の案を伝えた。無理をして暗くなるより、風の弱い洞まで進み、そこで後続の救援を待つ方が安全だと判断した。必要なら一晩、岩穴に留まることも考える。勝手な英雄になって子どもを歩かせ続けるわけにはいかない。
教師が頷いた。
「子どもたちにも話しておきます。怖がるかもしれないけれど、今の状況を知ってもらいたいので」
「お願いします」
外に出ると最初の雪片が落ちてきた。まだ小さい。けれど、これが夜にはどうなるか分からなかった。
*
古い岩穴へ続く道は、地図より一つ分岐が増えていた。
父が歩いていた頃にあった大きな木は倒れ、代わりに細い沢ができている。私は岩の形で方角を確かめた。父の地図には『赤い石、三つ並ぶ』とある。三つのうち一つは土に埋まっていたが、目印としてはまだ使えた。
「この先です」
セインは地面の雪を払い、崩れやすい斜面がないか確かめた。狩人が先に進んで杖で足元を叩く。およそ四十分後、風が急に弱くなった。
岩壁の下に横長の洞があった。十数人が身を寄せても余裕のある広さで、床は乾いている。小さな湧き水もあったが飲めるか分からないので使わない。番小屋まではあと一時間半。雪が強まっても休憩場所にできる。
「帰ろう」
セインが言った。
私たちは学校へ戻り、全員に道を説明した。歩ける子どもたちは大人と一緒に列を作り、けが人には隊員が付く。足をくじいた男性は木の担架を使った。狭い通路では担架を横向きにしないよう、前後の隊員が位置を変えて運ぶ。
エマは靴下を替えたものの、まだ私の外套を握っていた。
「手をつなぐ?」
聞くと小さく頷く。
「途中で疲れたら言ってね。言うのも大事な仕事だから」
「仕事なの?」
「そう。あなたが疲れたら、私が休む時間を決められるでしょう」
エマは少し考えてから言った。
「じゃあ、いまは大丈夫」
学校を出た時、空はもう灰色だった。積もったばかりの雪は滑りやすい。先頭の狩人が一歩ずつ踏み固め、セインは列の最後にいた。ネリーのユルが頭上を旋回していたが、風が強くなると竜舎へ戻るよう合図を出した。
途中、エマが何度も立ち止まった。励まして歩かせようとすると、背後から別の子が言った。
「寒いんじゃなくて、靴が痛いのかも」
私はしゃがんで靴を確かめた。かかとの内側に小さな石が入っていた。手を振って謝ると、エマは首を横に振る。
「リーゼさんだって、ずっと歩いてるから」
「でも、教えてくれたら取れる石だったね」
エマは靴を履き直して立ち上がった。私はふと、仕事の準備でネルに言われたことを思い出した。自分で気づけないことは、誰かに教えてもらえばいい。
岩穴に着いたのは夕方の四時前だった。隊長が送った後続の人たちが先に到着し、乾いた薪と毛布を持って待っていた。番小屋から運んだ薬箱も二つ置いてある。私が昨日まで皆に頼んで詰めたものだ。
「十八人、揃っていますか」
先に来ていた隊員が人数を数えた。
「大人六人、子ども十二人。全員います」
エマが私の手を離し、教師のところへ走った。戻ってくると、小さな紙包みを差し出した。
「冬祭りの、余ったお菓子」
中には固い蜂蜜菓子が一つ入っていた。
「リーゼさん、食べて。朝から何も食べてないでしょ」
私は自分の荷袋に入れたパンを思い出した。食べるのを忘れていた。
「ありがとう。半分こしよう」
菓子を二つに割ると、エマは大きい方を私に渡してくれた。
その夜、全員が番小屋か岩穴で暖を取った。日が落ちる頃には雪が激しくなり、村までの道を歩くことは諦めた。後続の人たちが用意した食料と水があったので、無理をして移動する必要はない。けが人は火の近くに寝かせ、体温と呼吸を確かめ続けた。
セインが私の隣に座る。肩から雪を払う音がした。
「みんな生きてる」
「うん」
「君の薬箱も道も、役に立った」
「道は父さんの地図。箱はネルの工夫。人を運んだのは隊員たち」
「だから、君がまとめた」
褒められたかったわけではない。けれど、あんなに準備したのに何もできなかったらどうしようと怖かった。
私はやっと息を吐いた。セインは何も言わず、手袋の上から私の手を握った。
嫌ではなかった。
*
翌朝、雪が弱まるのを待って村へ戻った。
広場には保護者たちが集まっていた。エマが母親を見つけて駆け寄ると、泣きながら抱き合った。私は遠くでそれを見ていた。助けた、という言葉より先に、ただ帰れてよかったと思った。
けがをした三人はハンス先生の診察を受けた。骨折の疑いがある一人は、後日、町の医師に診てもらうことになった。命に関わる容体の人はいなかった。
訓練としての共同作業は、予定どおりには終わらなかった。
それでも評議会は一週間後に集まった。机の上には実際に使った薬箱、救援の行程記録、掛かった費用の一覧が並んでいた。
「この箱はもう傷んでいますね」
ボルクが角の欠けた箱を持ち上げる。
「だから丈夫なものに作り直します。中身も、使った薬を補充できるように」
「番小屋に常時置くには、誰かが定期的に確認しなくてはならない」
「ネルと交代で見ます。冬の手当てを契約に入れてください」
私が答えると、ボルクは口の端を動かした。
「無償では引き受けないわけだ」
「はい。冬じゅう続けたいので」
イレーネ隊長が報告書を開いた。
「飛竜隊も補給路として使う。竜が飛べない時でも移動できる道があると、今回分かった。補修と訓練の費用は我々も負担する」
ボルクは椅子の背にもたれ、しばらく数字を見ていた。
「冬季の試験運用を認めましょう。修理費は三つの集落で分担。飛竜隊は人員と荷運び。薬草師への手当ては評議会の予算から出す。春に安全記録と費用を再検討する。それでどうです?」
村長が頷き、集落の代表たちも賛成した。
私は深く頭を下げた。父の地図があれば大丈夫だと思っていた私の考えは、半分しか正しくなかった。道を作ったのは地図を見てくれた人たちだった。
会議が終わると、ボルクが呼び止めた。
「リーゼさん。来年の冬に予算を増やすなら、夏から修繕してください。雪が降ってからでは職人の日当も上がります」
「はい。今度は早めに相談します」
「それが一番助かる」
*
その晩、セインを薬草畑へ呼んだ。
冬星花はもう枯れていたが、代わりに鉢の中で小さな芽が出ている。最初の花から採った種を蒔いてみたのだ。冬の冷たさを知っている土でなければ育たないので、芽が出たこと自体が嬉しかった。
「結婚の話をしたいの」
セインは庭の門で足を止めた。竜騎士が任務に出る時より、緊張した顔をしている。
「王都への赴任は取り消せないんでしょう?」
「まだ決まっていない。隊長から、北方で実地訓練をする教官職を提案された。先日の救援報告を添えて申請してくれた」
「認められそう?」
「分からない。返事は十日ほどかかる」
私は頷いた。
「じゃあ、返事が来る前に言う。私、セインが好きです。ここから離れずに薬草師を続けたいのも本当。もしあなたが王都へ行くなら、一緒に暮らせない時期があってもいい。二人で会いに行く方法を考えたい」
セインは一歩近づいた。
「君に我慢をさせたくない」
「我慢はすると思う。会えない日は寂しいし、仕事で困る日もある。でも、それを私が選ぶのは駄目?」
「駄目じゃない」
「あなたが全部決めて、私に『結婚できない』って言う方が嫌だった」
「本当にすまなかった」
彼は少しだけ困った顔をした。いつもなら「分かった」で終わる人が、言葉を探している。
「リーゼ。俺は、君が好きだ。最初に薬草を採った時は、オルカを助けてもらった礼をしたかった。でも、次の日には君が今日どんな顔で籠を受け取るか、考えていた」
胸の内側が熱くなる。
「だから花まで混ぜてたの?」
「あれは、君が好きだと言ったから。喜ぶと思った」
「喜んだよ。ものすごく」
セインが目を見開いた。
「そうか」
「ただ、結婚できない人から毎朝もらうのはつらかった」
「もう二度と言わない」
彼は外套の内側から、小さな布袋を取り出した。あの温石が入っているのと同じ布だが、中身は少し重い。
「これは、君の冬の手袋を直すための針と糸だ」
「自分で縫うつもりだったんじゃない?」
「君に教わりたい。俺の縫い目だと、すぐ裂ける」
思わず笑うと、彼も笑った。
「君と仕事を続けたい。竜を守る仕事も、君が薬草を守る仕事も。もし離れて暮らす年があっても、帰る場所を二人で考えたい」
セインは私の前に立ち、はっきりと言った。
「リーゼ。俺と結婚してくれませんか」
「はい」
返事は迷わなかった。
彼が伸ばした手を取る。温かい指だった。あの日、温石を受け取った時は手を温めることしか考えられなかったのに、今は彼の手を離したくない。
「一つ、約束して」
「何でも」
「何でもは駄目。勝手に私のためだと決めて、黙って遠くへ行かないで」
「分かった。相談する」
「私も、自分の仕事を一人で抱え込まない」
「そうしてくれ」
セインはしばらく手を握っていた。それから、私の許しを待つように顔を近づけた。
私が頷くと、唇に短いキスが落ちた。
終わってから彼は少し離れ、いつもの真面目な顔で言った。
「……花は、また持ってくる」
「結婚しても?」
「毎朝」
「季節が終わったらどうするの」
セインは答えた。
「君が次に好きになる花を、教えてほしい」
私は笑って、彼の外套をもう一度つかんだ。
*
十日後、王都から返事が届いた。
北方の教官職は試験採用。冬は霧尾の駐屯地を拠点に救援と訓練に当たり、夏には王都で若い竜騎士を教える。セインの望んだ仕事も、私の畑も、どちらも続けられる形だった。ずっと霧尾にいられると決まったわけではない。それでも、次に勤務地が変わる時は二人で話せる。
その知らせを持って来たセインは、門のところでいつもの籠を差し出した。
「霜灯草。今日は薬用だ」
「ちゃんと根を残した?」
「残した」
「それから?」
籠の上に小さな白い花が一輪乗っている。
「冬星花」
私は受け取り、台所へ持って入った。彼もあとから続く。湯を沸かす間、セインは乾いた布を棚に並べてくれた。畑の方からはネルが薬箱の点検を頼む声がする。
セインは手伝いながら、私のために用意した新しい花瓶を机に置いた。
「これでいいか」
「うん。そこがいい」
私は彼が花を挿すのを見届けてから、棚から手袋を二つ取り出した。一つは私の、もう一つは彼の。縫い直した指先は少し不揃いだったが、どちらもよく動く。
「帰りは何時?」
「夕方。オルカの翼の様子を見てから」
「じゃあ、夕食は一緒に食べよう」
セインが頷く。私は彼に手袋を渡し、自分の分もはめた。
「いってらっしゃい、セイン」
「いってきます、リーゼ」
門を出る前に彼が振り返る。私は台所の窓から手を振り、湯の沸いた鍋を火から下ろした。




