俺の背後に立つな3
ざわついていた会場も、二人の姿が消えたことと、誘導が戻ったことで徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。
ようやく息を整えられる隙ができ、俺は静かにため息を吐き出す。
グリーンが素直に帰ったとは……まあ、思えないが。どちらにせよ、今はバイトに集中だ。
列は滞りなく流れ始め、来場者たちの足取りも落ち着いていく。空気が平常に戻りかけている、そんな時だった。
天井を低く這うような振動が、突然会場全体を揺らした。続けざまに響いた爆音が鼓膜を刺し、せっかく落ち着きかけていた空気を一瞬で吹き飛ばす。
「――ディヴァイアンだッ!!」
スタッフの叫びと同時に、客の悲鳴が四方から上がった。会場は一拍で混乱へ転じ、人の波がざわつき始める。
その音に押されるように、俺は顔を上げる。
(……マジか)
声にするまでもなく、心の中で深いため息が落ちる。よりにもよって、こんな満員のイベント会場に乱入するとは……悪趣味にもほどがある。……いや、悪の組織なんて大体こんなもんか。
今日の俺は“警備スタッフ”。ディヴァイアンのバイトじゃない以上、乱入されると普通に面倒だ。
ディヴァイアンの雑魚バイトなら正義の味方に秒で片づけられ寝転がっているだけだが、警備スタッフの場合は今、この混乱を対応しないといけない。
「皆さん、このまま前へ進んでくださーい!走らず、押さないで!こちらにスペース空いてます!」
近くにいたスタッフが誘導棒を掲げ、人の波をなだめながら通路を確保していく。
俺はそのすぐ横で、倒れそうな客を支えたり、迷子になった子どもの手を取って避難口へ送ったりと、作業を淡々と続けた。
(……ヒーロー、まだ来てねぇのか)
グリーンがどこかに潜んでいるはずだが、戦闘音がしない。
だが爆音は途切れず響き、叫び声と雄叫びが会場に散らばっている。そんな中、何とも言えない不穏な空気だけがじわりと膨らんでいった。
(なんだ、この嫌な予感は…)
その嫌な気配を辿り前方へと目を向けると、視界に映ったのは人の波が割れ、その間をゆっくりと進む影。
人型のシルエットに混じって、どう見ても獣じみた影が複数、うごめいている。
「ふふっ……我が愛しの小さき命たちよ。――行くぞ」
甲高くも艶のある声が響いた瞬間、背中に冷たい汗がじわりと広がった。
(おい……やめろよ。まさか……)
次の瞬間、空気を裂くような雄叫びが炸裂した。
【ワオオオオオオオオン!!】
大型犬の咆哮。その横で猫が跳ね、鳥が羽ばたき、正体不明の生き物まで混ざって――“複数”なんて生ぬるい数じゃない量の動物が、押し寄せてくる。
視界が、嫌な意味で揺れた。
(……待て。冗談だろ?)
願いは、もちろん届かない。
今回現れた中ボスは、満面の笑みを浮かべながら、俺の最悪の予想をあっさり飛び越えた。
「我が可愛いペットたちよ!会場を蹂躙し、好きなだけ駆け回るのだっ!!」
その号令に呼応し、動物軍団が一斉に爆発したように動き出す。
犬は全速力で駆け回り、猫は観客の肩や背中に飛びつき、鳥は天井近くを縦横無尽に暴れ飛ぶ。観客は悲鳴、スタッフはパニック。会場は、一瞬で混乱の渦に沈んだ。
動物たちの乱入で、場内はさらに完全なカオスに。暴走する動物、中ボスの上機嫌な笑い声、それに混じる叫び声。
少なくとも、動物たちは“襲う”というより“遊んでいるだけ”に近い。それが、この状況での唯一の救い――ではある。
……が、だ。
苦手なものは苦手だ。できればこっちに来ないでほしい。
そう思った矢先だった。
大型犬――シベリアンハスキーが、こちらへ向かってゆっくり歩いてくるのが視界の端に映った。一度気づいてしまうと、目が離せない。
そのまま黙って見ていると、ふいに視線がぶつかる。キラキラと輝く、悪気ゼロの無邪気な瞳。完全に「遊ぼう!」と言われている眼差し。
(…………おい。まて、やめろよ?)
内側だけがじわりと凍りついていく。心臓は地味に死にかけているのに、表情はほとんど動かない。こういうところが誤解を生むんだろうと、ほんの少しだけ思う。
……こんなことなら、グリーンを帰すんじゃなかった。
おそらく近くにはいるだろう。だが、この混乱の中で俺のところまで辿りつけるかどうかは、また別の話だ。
じわ、じわ、と距離を詰めてくるシベリアンハスキー。無邪気な瞳をキラつかせながら、確実にこちらへ向かってくる。
(クソ……こういう時に限ってアイツはいねぇのか)
そんなとき――
「あれっ、トオルさんじゃん!偶然!え、なんでここに?」
「……っ」
まだ変身もしていないイエロー――黄瀬が、文字通り“今来ました”という雰囲気そのままに俺の背後へ現れた。
救世主か。
「今日はディヴァイアンのバイト?‥ではない感じ?たまたま?」
黄瀬が何か言っているが、今の俺の耳には届かない。
なにせ、無邪気な顔でこちらへ寄ってくるシベリアンハスキーが目の前まで迫ってきているのだ。敵意はまったくなく、ただ“遊びたい”だけなのは分かる。
……だがしかし。
俺には無理だ。他を当たってくれ。
そう静かに願いつつ、俺はスッと黄瀬の背後へ回り込んだ。
突然背後から押された黄瀬は、「え?」と短く声を漏らす。
振り返ろうと肩を動かした――その瞬間、俺は黄瀬の両肩をがっしり掴んで固定した。そのまま、黄瀬の背中を“壁”として扱うみたいに位置を取り、すっと影へ潜り込む。
完全に盾だ。
「……そのまま前向いてろ」
「え、なに?なに?怖いんだけど?なんで後ろ来たの?え?」
黄瀬の声は完全に困惑している。だが俺は返事をしない。する余裕がない。
すでに、ハスキーの足音が目の前まで迫っていた。




