第5章:第36話
それはとても澄んだ声だった。
深い奥に幼く、けれどどこか大人びた歌声が響き渡る。青い空に染み渡り、森の木々を鎮める歌声。
目の前には「イクス・ルピア」と刻まれた墓。そしてその向こうは陽の光で光り輝く湖。
とりわけ大きな湖ではないが、わざわざこんなところに墓を作るのだから、きっと墓の下で眠る者にとっては特別な場所だったのだろう。
そんな場所で、セイラは一人で歌っていた。
歌は、ある人から教わった歌。セイラの主ともいえる人が、ミラとイクスの為に捧げた歌である。
元はミラ・ルピアが気に入っていた歌のアレンジらしい。こんな歌の何がよいのかセイラにはわからないが。
吐き捨てるように、セイラは突如歌うのをやめた。その時背後で誰かの足音がして次第に近づいてくる。
一歩ずつ一歩ずつ、そして誰かがセイラの真後ろに来たのを感じた。
セイラは振り返り声の主を見る。キラによく似た黒髪と青い瞳、年の割に幼い顔つきの女性……サラ・ルピアだった。
「懐かしい歌を歌うね。……すっごく不愉快。」
サラが少し機嫌悪そうに言う。青い目が鈍く光ってセイラを見据えた。
ご機嫌斜めなのは自分の策が失敗したせいだろうか、それともまた別の理由か。
セイラにとってはどちらでもいいことだが。
「幼女の歌声はお気に召しませんでした?」
セイラが薄笑いを浮かべながら言うと、余裕を気取るようにサラが冷たい笑みを浮かべながら冗談を言った。
「そうだなぁ、私はどっちかというとイケメンのお兄さんの方が嬉しかったかなぁ。」
「そうですか、ならディオンさんかオズさんの方がよかったでしょうか。まあディオンさんはともかくオズさんがイケメンかはわからないですけど。
あの人が歌っている様なんて想像しただけで吐き気がしますねぇ。気色悪いですねぇ。」
オズとディオンの名前が出た時、サラの作り笑いが一瞬冷めた。その様が滑稽でセイラはまた笑う。
余程オズはこの人の神経を逆撫でするようなことをしたようだ。セイラも手を貸したのだから人のことは言えないが。
相手からどう情報を引き出すか、素直に答えてこなかったらどうするか、笑みの下でセイラは策を巡らせる。
こんなくそつまらない冗談での牽制はもう飽きた。
「ところでサラ・ルピアさん? 一つお訊きしたいのですがよろしいですか?」
「いいよ、ちょうど私もキミに訊きたいことがあるしね。」
セイラの表情が冷たくなる。サラにとってセイラは初対面の子供のはず。
そのセイラに一体何を訊くというのか。興味はあるが、不愉快だ。
「私に質問ですか? 面白いですね、ならお先にどうぞ。」
「うん、ありがとう。質問っていうのはね……」
サラは一呼吸置いてから言った。
「『セイラ』ってキミのこと?」
セイラの中で何かが電流のようにが走った。今までバラバラだった謎や疑問が一点で終結する。
サラがセイラの名前を知っている。これはきっと誰かがセイラのことをサラに教えたということだ。それはきっとゼオン達のことを教えた人と同一人物だろう。
そしてそれは『黒髪のかわいい男の子』。
一人だけ心当たりがあった。その人なら村に来なくてもゼオン達のことも彼らの過去も未来も知ることができる。
そしてキラとオズが村にいる以上、その周りの人物にその人たちが何かを仕掛けてくる可能性だって十分にあり得た。
セイラはクスクス笑い始めた。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。
考えてみればこんなことができる人なんて奴らしかいるわけがない。
「なるほどな……イオか。」
セイラは呟いた。正解と言うようにサラがにっこり笑う。
いずれ何か仕掛けてくると思ってはいたが、厄介だなとセイラは思った。
「あの子、セイラちゃんに早く帰ってきてほしいって寂しがってたよ。」
ものは言いようだなと思った。どういう意味かはわかりきっていた。何と言われようとセイラは帰る気はないのだが。
セイラは一度にこりと微笑んだ後、氷のような瞳でサラを強く睨みつけた。
屈強な意志のこもった瞳がサラを貫く。
そして静かに言った。
「イオに伝えておけ。ブランに戻る気はない。それと……必ず打ち倒すと。」
「いいよ、伝えておくね。」
そう言うと、サラはセイラの前に出て白くきらめく墓石の前に立ち、花束を一つ取り出して墓前に置いた。
ここからではサラの背中からしか見えない。今どんな表情をしているか、何を想っているかもわからない。
人の感情や感覚なんて昔からセイラにはよく理解できなかったから今更急にできるようになるはずもないのだが、もし理解ができたなら「説得」というものが何と言えばできるのかわかるのかなとふと思ったりした。
サラの後ろ姿を見つめながらつくづくキラをはじめとするルピア家の人々は本当に不幸だなとセイラは考えた。
キラやサラにしても、イクスとミラにしても……そしてあのリラにしても。
この一家の不幸の元凶はリラだろう。リラ・ルピアさえセイラ達のことに関わってこなければ、サラの復讐もイクスとミラの死も起こらなかっただろうに。
全てはあの婆さんが招いた運命か。セイラはそう思うことにした。
「村を去る前に、来ておきたかったの。」
サラは墓石を見つめながらそう言う。皮肉だなと思った。
サラの深い憎しみと悲しみが誰かの道具として利用されているだけだと知ったらどんな顔をするだろうか。
ああ滑稽。とても不愉快だ。サラは何も知らずにセイラに言った。
「じゃあねセイラちゃん。キラに伝えておいて。止めても無駄だからって。
それと、ディオン様に騙してごめんなさいって……」
「この期に及んで『ディオン様』ですか。」
鼻で笑いながらそう言うとサラの表情が歪んだ。
少し後ろめたそうな様子でセイラから目を逸らす様子を見ると、根は優しい人なのかもしれない。
サラはセイラに背を向けて歩き出す。暗い森へと再び足を踏み入れていく。
きっと誰の言葉も届かないだろう。
ああ滑稽。利用されていることに気づかないサラ、そして誰がサラを利用しているかまでわかっているのに止められないセイラ自身も。
「またね、セイラちゃん。」
サラは去っていった。足音はどんどん遠くなっていく。そして再びサラと会うその時、きっと火花が散るだろう。
サラは武力行使だって辞さないだろう。あの目はそうだ。『あいつ』のことが関わってきた時のオズの目によく似ていた。
再び湖の周りは静まり返る。カラスの声と森のざわめきばかりが耳の中を埋めていった。
結局サラを止めることはできなかった。キラとサラ、この二人の対立は避けられないだろう。
ゼオン達が去らなかったことだけが救いだろうか。セイラは虚空に向かって言った。
「そこに居るな?」
すると何もいないはずの場所に突然何かが姿を表す。幽霊のようなするりとした体に無数の目玉、ホロだ。
『ご苦労さん。これでようやっと色々納得がいった。
サラの裏で糸を引いてるのが誰か、そしてお前が今置かれている状況もな。
不思議やったんや、どうしてお前が『一人で』現れたんか。連中と敵対した…ってとこか。』
セイラはどうしてオズが急に協力なんて言い出してきたかやっとわかった。
最初からセイラの現在状況をあぶり出すためだけに協力を申し出たというわけだ。
セイラは舌打ちした。オズにセイラの今の状況を知られたのは失敗だったかもしれない。
「ところでそっちは終わったな?」
『ああ、ゼオンもキラも無事、あの手紙も渡したからこれでゼオンは村から出ないはずや。
『反乱派のリーダーに関する情報をお教えします。
その代わり再調査の間ゼオンの身柄は村に……怪しい行動が無いかの監視はルイーネが行いますので、どうか首都への移送は止めていただけないでしょうか。
さもなければ、オズ・カーディガルは反乱派リーダー……サラ・ルピアと共にサバト王の首をはねることになるでしょう。よい返事を期待しております。』これでええんやろ?』
「ああ、十分だ。首都の連中以上にお前を恐れている奴らはいないからな。必ず要求は受け入れられる。」
『ま、あっち側に行く気なんてこれっぽっちも無いんやけどなー。』
緊張感の無い笑い声がした。セイラは舌打ちして言う。
「じゃあ、事は終わったのだからこれで私たちはまた敵同士。それでいいな?」
『今までも味方だったつもりはあらへんけどな。互いにに利用しあっていただけや。……そうやろ?』
「当たり前だ。昔も今も、お前は私達の敵……」
『今は『私達』やないんやろ?』
ホロごとぶっ飛ばしてやろうかと思った。この人は本当に、いちいち勘に触ることしか言わない。
できることなら顔なんて二度と見たくない位に憎らしく、腹の立つ相手なのだが、セイラはオズの前から去るわけにはいかなかった。
オズをうまく使えなければ、セイラの目的は絶対に果たせないのだ。
だが何と言えばオズがうまく動いてくれるのかセイラにはわからない。やはり『あいつ』のようにはうまくいかないな、とセイラは思った。
そう思った時、焼けるような痛みがセイラを襲った。
『じゃあな、ご苦労さん。ああそや、キラ戦の影響で倒れたりするんやないで。お前には、まだまだ動いてもらわなあかんねんからな。』
見透かすようにオズは言う。セイラが言い返そうとするのを痛みが邪魔する。
セイラは俯き、歯を食いしばった。やがてオズの嘲笑うような声は消え、ホロはどこかへ飛んでいってしまった。
そして再び周りには誰もいなくなる。森の木々のざわめきがセイラを飲み込んでいくように感じた。
そして一人残されたセイラに追い討ちをかけるようにまた強い痛みがセイラを襲う。
酷い目眩と胸の痛みで思わずうずくまる。けれど周りに手を差し伸べてくれる人はいない。とても静かで寂しい森だった。
おそらくキラとの戦いのせいだ。杖の力の影響を受けすぎたのだろう。あの杖の力はセイラにとって毒だ。
大丈夫、どうせしばらくすれば治る。そう言い聞かせて腕に力を込め、ふるえる脚でなんとか立ち上がる。そしてよろよろと青白い顔で歩き出した。一歩ずつ少しずつ、よろけながら村を目指す。
一人だなんて最初からわかっていたことだ。手助けなんていらない。何度絶望と痛みが押し寄せようと立ち上がってみせる。そうでなければいけない。
再び脚に力が入らずよろけた。だが木を支えにして何とか踏みとどまる。そしてまた一歩。
よろけて倒れそうになってもセイラは一人で進み続けた。それはセイラにとって当然のことで、今までもそうして進み続けてきた。
そしてきっとこれからも自分はそうして行くのだろうと思っていた。
倒れるわけにはいけない。負けるわけにはいかない。オズにも、サラにも、サラの裏で糸を引いてる人々にも。
何十年何百年……何万年かかっても、立ち向かい続けようと決めたから。
期待してみたかったから。