第5章:第19話
昔々、七年前。あの赤い宝石の杖を貰った後、ゼオンが気がついた時には目の前にもう冷たい雪の街はなかった。
自分の知る冷たい世界は一瞬で溶けて消えた。赤い炎の街と化していた。
自分が何をしたのかすぐにはわからなかった。背後では今まで冷たくそこに在ったはずのクロード家の屋敷が燃えていた。
辺りには使用人の亡骸がいくつも転がっていた。頭を抉られていたり、胸を一突きで殺されていたり、首から下が無かったり。
転がっていたものは使用人だけではなかった。自分の両親の亡骸もそこにあった。
今まで自分を散々蔑み、殴り、邪険に扱ってきた親達が玩具の人形のように転がっている。
ゼオンは自分がいつの間にか杖ではなく剣を握っていることに気がついた。その剣はあの時貰った杖を魔法で変えた物だということもすぐにわかった。
ゼオンは剣に血がついているのを見つけた。そして次に…足元に血まみれのシャロンが転がっているのを。
混乱と動揺が走った。そして同時にゼオンは自分が何をしたのか気づいてしまった。
…この剣でシャロンを斬ったのだ。思わず後ずさりしようとした。だができなかった。
自分の体が思うように動かないことにゼオンは気づいた。剣を手放そうとしても手が動かない。
その時また酷い頭痛が襲った。そして頭の中で声が聞こえた。
『ようやく気づいたみたいね。けどもう遅いわよ。』
ゼオンにあの杖を渡した白い服の女の声だった。
そしてゼオンはようやく自分の体が今そいつに乗っ取られていることがわかった。
『何が目的だ?』と心の中で問いかける。
『目的ィ?そんな大それたものあるわけないじゃない。そうね、強いて言えば実験…といったとこかしら?』
そう言った途端、また頭痛が酷くなり意識がぼんやりしてきた。その間に自分の体は自分の意志とは無関係に動く。
剣を握りしめ、駆け出した。駆け出した先に見えたのはディオンの姿だった。
ゼオンは剣を振り上げ、ディオンに切りかかる。ディオンは素早く剣を抜いてそれを受け止めた。
だがゼオンはその時なぜか普段では考えられないほどの力があった。
ゼオンは当時9歳、ディオンは15歳くらい。さすがにどう考えてもディオンの方が力が強いはずだが、その時は逆でディオンはジリジリと後ろへ押され始めた。
先ほどの血まみれのシャロンの姿が浮かんだ。このままだと同じように紅く染まったディオンの姿を見ることになるのだろう。
するともう一度あの女の言葉が頭に浮かんだ。『憎くないの?』と。
憎い。恨んでいる。それに嘘はない。だが実際に見てわかった。望んでいたことはこんなことではない。
剣を押す手を止めようと必死の抵抗を始めた。
だがそうしようとした途端、さらに強い頭痛が襲う。けれどゼオンは抵抗し続けた。
冷静で鋭い性格だったからこそ、こんなことをしても何の解決にもならないことをゼオンはわかっていたから。
やがて、ディオンがゼオンを押し返し始めた。すると、頭の中でまたあの女が言った。
『…もうそろそろ十分ね。コツも掴めたし。ご苦労様、混血魔法使いさん。』
そして、急に今までゼオンを襲っていた酷い頭痛が嘘のように消えた。
急に力が抜けて、思わず剣を落として座り込んでしまった。落ちた剣は、光り輝いたかと思うと元の杖に戻った。
あの女の声はもう聞こえない。頭痛もしない。ただ、体力を大分消耗したのか体中に力が入らなかった。
ゼオンは顔を上げた。今までで一番恐くて鋭い目が見えた。ゼオンを厄介払いした父より、ゼオンの存在を憎んだ母よりも、今まで見てきた誰よりも憎しみと怒りのこもった目だった。
ディオンは炎の光を反射して煌めく剣先をゼオンに突きつける。
「よくも…お前のせいで…!」
何も言い返せなかった。多分ディオンには、ゼオンが片っ端からクロード家の人を惨殺していった、そう見えただろう。仕方がない。…一つも間違いはないのだから。
その時、警官たちがやって来る音が聞こえた。
逃げる気も抵抗する気もなかった。する気力はもうなかった。
ゼオンは取り囲まれて捕らえられた。大量無差別殺人鬼として。
その後、警官だの兵士だのに捕らえられたゼオンは、杖を没収されてどこかの建物の地下牢に放り込まれた。
薄暗くて狭い。薄汚れたレンガの壁。壁は頑丈で隙間どころか窓すらない。魔法で幾重にも結界が施されている。
脱獄なんて考えることすらできなさそうな場所だった。全く抵抗せず、ゼオンは中に入って隅に座り込む。
今でもあの時の気分をはっきりと覚えている。悪夢としか言いようのない1日だった。
見知らぬ女に会い、よくわからない杖を渡されて結果がこれだ。ゼオンはため息をついた。
広がるものは絶望感。そして得体の知れない罪悪感。
悪いのはあの女。ゼオンに杖を渡した少女のせいでこんなことになったのはわかっている。今すぐあいつをとっつかまえて突き出してやりたい気持ちは勿論あった。
だが、ゼオン自身の判断で杖を受け取ったのも事実。もしあの時杖を受け取っていなかったら…そんなことを俯きながら思っていた。
鉄格子の向こうを見た。これからどうなるのだろう。街を焼き、何人もの人を殺した。『ゼオン』が犯した罪はとてつもなく大きい。
両親は死んだが、まだ叔父や叔母などは生きている。
冷たい貴族の当主が死んだ時、その一族の大人達が考えることは決して暖かいものではない。
なんとかして当主としての権力を手に入れようとするだろう。
そして、一族の名を汚す邪魔者は容赦なく排除するだろう。
生き残ったディオンを表向きの当主に立て、ゼオンは永久に牢獄入り、あるいは死刑…といったとこだろうか。
ゼオンは俯いてため息をついた。いつかはクロード家から排除されるだろうとは思っていたが、そう簡単に受け入れられるわけがない。
だが、もう逃れる希望はなかった。ここから抜け出す力はゼオンにはない。ゼオンの話に耳を貸すような味方もいない。
再びため息をついた。その時だった。
「このままでいいの?」
空耳かと思った。だってここは薄暗い地下牢の中。
居るのはゼオン一人だったはず。だが女の人の澄んだ声がたしかに聞こえた。
ゼオンは鉄格子の向こうを見た。けれどそこには誰もいない。
…まさか。ゼオンは自分の背後を見た。
薄桃色の髪、白いドレス、暗闇の中で光るように佇むその少女を、きっと誰もが綺麗と感じるだろう。そこにいたのは間違いなくあの時に杖を渡してきた少女だった。
誰かが来た気配はなかった。鍵を明ける音もしなかったし、この牢には結界が張ってあるはずだ。
けれど少女はたしかにそこにいた。
「よくのこのこと出てこれたものだな。…どういうつもりだ?」
あくまで冷静に言った。だが、ゼオンは前回とは違う違和感を感じていた。
今目の前にいる少女はゼオンが杖を渡した少女とどこか違った。
容姿は全く同じだがどこか冷静で大人びている。
「勘違いしないで。私はあなたに杖を渡した奴とは別人よ。
彼女は全てを壊す人。私は『杖』を創った人。」
少女はそう言ってゼオンの近くまで歩いてきた。
薄暗くてよく見えなかった少女の姿がはっきり見えた。そしてあの時の女とは別人ということもわかった。
あの時の少女の目は紅だったが、目の前の少女の目は深い蒼だ。
少女はどこからともなく一本の杖を取り出した。
それは紛れもなくゼオンがあの時渡された杖だった。兵士に捕らえられた時に没収されたはずなのに。
「さっき兵士さんたちから奪ってきたの。大丈夫、今度は頭痛がしたり体を乗っ取られたりはしないわ。」
ゼオンは一歩下がって少女を睨みつけた。
あんなことがあった後で、迂闊にその杖に触れられるわけがない。
あの時に感じたような危険な気配は今はこの杖からは感じられない。それでも警戒を解けなかった。
「あなたはこのまま永久にこの牢獄にいるつもり?
無差別大量殺人鬼として?自分の意志で起こしたわけではないのに?」
少女は問う。ゼオンはため息をついた。
勿論こんな牢獄にいたくはない。だが、脱獄したところでどうするというのだろう。
「脱獄したところで、俺に行くあても逃げる理由もない。…きっと途中で逃げ疲れてまた捕まる。」
少女は無言でゼオンを見た。前回のあの少女のような高圧的な話し方はしないが、あの少女以上に考えの読めない人だった。
穏やかで冷静。そして優しそう。だがどこか計算高そうにも見えるのは気のせいだろうか。
少女は言った。
「理由があればいいのね?逃げる理由が。」
ゼオンは否定しなかった。そして少女は言った。
「…なら、知りたくはない?
この杖が何なのか。あの子がどうしてこの杖をあなたに渡したのか。
それにいくら杖を受け取ったのは自分自身だからって、自分だけが罰せられるのは納得がいかないんじゃない?」
ゼオンは黙り込んだ。言い当てられて何も言えなかった。
けれどすぐ杖を受け取る気にもならなかった。
すると少女は杖を下ろし、自分の足元に置いた。
「別に急ぐことじゃないわ。…もし決心がついたら拾えばいい。」
そして少女はゼオンに背を向ける。ゼオンは引き止めて尋ねた。
「どうしてお前はこんなことをする?俺を逃がすような真似をして何になる?」
少女は立ち止まり、もう一度ゼオンを見て言った。
「それが知りたければ、もう一度私の所に来ることね。」
そう言って少しだけ笑った。
そしてもう一度何か尋ねようとした時には、もうその人はいなかった。
何事もなかったかのように、誰もいなかったかのように冷たい時が流れるだけだった。
ただ先ほどと違うことは、目の前にあの杖が置いてあること。
銀で作られた杖の先に、ゼオンの目と同じ紅の宝石がついている。
最初、ゼオンはそれを無視してしばらく座り込んでいた。
同じことが起こらないなんて保証はない。ゼオンを利用するために置いていっただけかもしれない。
けれど少女の言葉が蘇る。「このままでいいの?」と。
ゼオンは立ち上がり、あの杖を掴んだ。
今度は頭痛は起こらず、誰かに体を乗っ取られることもない。
そして簡単な火の魔法を唱えた。初級呪文であったはずだが、その時に出た炎は牢を覆うくらいに強く、結界も鉄格子も簡単に敗れた。
雪の日に会ったあの少女を再び見つけるため。この杖が何なのか知るため。
どうしてこの杖をゼオンに渡したのか知るために。
あの日に決めた。あいつを見つけるまで、逃げ切ってみせると。
◇ ◇ ◇
「…ゼオン。」
ティーナの声がした。学校のすぐ近くまで歩いてきた時だった。
振り返るとそこにはロイドの耳をつまんで無理矢理ゼオンのところまで連れてくるティーナの姿があった。
「いてっ、痛い、痛いよ。引っ張るな!」
ロイドが喚くがティーナは気にしてすらいなかった。ティーナはゼオンに言った。
「この白髪が言ってた。…ゼオンのお兄さん、ゼオンの本国引き渡しを村に要求してきたって。」
「…そうなるだろうな。」
ゼオンは村の外の森の方を見つめた。
まだ捕まるわけにはいかない。目的をまだ果たしてはいないのだから。