第5章:ある魔法使いのポストリュード:第1話
あの日は寒い夜だった。
屋根や道は勿論、吐く息までもが白く冷たい夜だった。七年前のある雪の夜のことだ。
普段なら夜でも電灯が明るく輝く賑やかな都会の街はどこか静かだった。
道行く人も馬車もその日は心なしか焦って見えた。まるで早く家に帰らなきゃとでも言っているようだ。
けれどその日ゼオンはすぐ帰ろうとなんてしていなかった。誰もいない公園の中、ベンチに座って動かない。
音もたてずに舞い落ちていく雪をただぼんやりと見つめていた。
寒かった。だからといって帰りたいとは思わなかった。ゼオンにとってあの家は雪の夜なんかよりもっと冷たく感じたから。
帰りたくない。家族と顔も合わせたくない。それが正直な気持ちだった。
その時遠くから親子連れの声が聞こえた。遠くに小さな子供とその母親らしき人が楽しそうに話しながら歩いていくのが見える。
小さな子供は腕に母親に買ってもらったかと思われるチェスセットを嬉しそうに抱えている。
プレゼントか何かだろうか。そんなことを考えた時、ゼオンはふとその日がゼオンの誕生日だということに気がついた。
だが気がついたからといって何かあるわけではない。別に祝ってくれる人物もいないだろうし祝われたくもなかった。
七年前、当時ゼオンは9歳。今思うといくら何でもシケすぎた子供だったと思う。
帰りたくはない。だからといって用もないし、もう夜だから暇つぶしにふらふら歩き回っているときっと補導される。
これからどうしようかと思った時だった。
「寒くないの?子供はさっさと帰った方がいいんじゃないかしらぁ。」
あざ笑うような皮肉混じりな声が後ろから聞こえた。ゼオンはすぐに後ろを向いた。
先ほどまで誰もいなかったはずの場所に女が一人立っていた。
見たところ年齢は18か19くらい。雪のように白い肌。上品な桃色で長い髪の毛。髪の色とは似合わない、血のような紅の瞳。
見た目は優しく儚げで、けれど目だけはどこか残酷な、そんな感じを漂わせる少女だった。
「誰だお前。何の用だ。」
「ガキのくせに生意気ね。可哀想に、あなたの親は口の利き方すら教えてくれなかったのかしら。
名門、クロード家の子だっていうのに。 ねえ、ゼオン・S・クロード?」
ゼオンの眉がぴくりと動いた。この女は全て知っていて言っているのだとわかった。
ゼオンの名前やクロード家の生まれというだけではなく、ゼオンが置かれている立場まで知っている上で皮肉を言っているのだ。
なぜこの少女がそんなことを知っているのかはわからない。だがさすがに腹が立った。ゼオンは冷たく少女を睨んで言った。
「用が無いなら帰れ。目障りだ。」
だが少女もそれで怯むような人ではなかった。腕組みをしてゼオンを見下ろしながらこちらにやって来る。
「用が無いだなんて一言も言ってないじゃない。せっかく誕生日を祝ってやろうと思ったのにね。」
ゼオンが少女を睨む目が更に鋭くなる。怪しい。初対面でいきなり誕生日を祝ってやるだなんて怪しすぎる。
嫌な予感がした。この少女はどこか普通ではない。何かがおかしい。何かが矛盾している。
ゼオンは少女の表情を見た。口ではとても挑発的なことを言っているのに、少女の表情はなぜか悲しげだった。
ただ、目だけは切り裂くような威圧感と残酷さしか感じられない。
悲しみや儚さは全く感じられなかった。少女は何かを取り出してゼオンに差し出した。
それは炎のような赤い宝石がついた古い杖だった。なぜかゼオンは瞬時に感じた。…この杖はまずいと。
何がどうまずいのかはわからない。けれど嫌な予感はたしかにした。
「誕生日おめでとう。」
少女は冷たい笑みを浮かべながらそう言った。ゼオンは警戒して一歩後ろに下がった。
9歳の子供でも怪しいと思った。帰りたくないがここは帰るべきなのかもしれない。
ゼオンはその場から逃げるように駆けだした。だが、引き止めるように少女が言った。
「あいつらに一泡吹かせてやりたいと思わないの?」
ゼオンの足が止まった。「あいつら」というのが誰を指しているのかはすぐわかった。
ゼオンの家族のことだ。少女は罠にかかった雀でも見るように楽しそうに言った。
「憎くないの?あなたをクロード家の汚点としかみなさない父親、あなたの存在を否定した母親、あなたをこんな運命に陥れた兄と姉。…恨んでいるんでしょう?」
ゼオンは何も答えなかった。否定できなかった。否定したところで何も残るものはない。
ゼオンはもう一度少女の方を見た。少女は杖の柄をゼオンの方に向けて笑った。
「どうせ新しい杖も買ってもらえないんでしょう?勝手に使いなさいよ。」
ゼオンの記憶の中でも珍しい、感情に流されて冷静な判断を忘れた瞬間だった。
紅い宝石が白い雪の中で美しく光る。宝石の煌めきに誘われるようにゼオンは一歩一歩少女の方へ歩いた。
今思うと、こういうところはまだ子供だったんだろうと思う。父に、母に、兄と姉に、一泡吹かせてやりたい。投げやりな気持ちだった。
そして、ゼオンは杖を掴んだ。
「…っ、痛っ…!」
途端に強烈な頭痛がゼオンを襲った。思わずうずくまり、頭を抑える。
頭痛は激しくなるばかり。まるで理性を追い出すような痛みと共に目の前がぼやけ始める。
ゼオンは少女を見た。少女の楽しそうな高笑いが頭に響く。
「アハハハハ!ハッピーバースデー。最高の誕生日にしてあげるわ。」
そして頭痛はゼオンの意識を根まで駆逐し、ゼオンは自我を失った。
◇ ◇ ◇
ゼオンは目を覚ました。飛び起きて辺りを見回す。あの日のように寒くなんてない。ベッドの上だ。
そしてゼオンが居る場所も公園などではなく寮の部屋だった。
朝日の光が射しこみ、鳥の声が聞こえてくる。何の変哲もない朝の光景だった。
「夢…。」
ゼオンはぽつりと呟いて起き上がった。久しぶりに昔の夢を見た。ゼオンが例の杖を貰った日のこと。
…夢。そう、ただの夢だ。それなのに何か嫌な予感がした。黒い霧が渦巻くような気味の悪い感じが消えない。
外の景色は腹が立つくらい爽やかなのに、体はだるく頭も痛い。外の光がとてもまぶしく見えた。
ゼオンは気の重さを紛らわすかのようにため息をついた。そしてふと時計を見た。
「……あ。」
8時30分。授業開始をもう10分過ぎていた。
◇ ◇ ◇
「それにしても、めっずらしーことがあるもんだね。」
キラが言った。ここは職員室の前。沢山の生徒や教師が行き来していた。
皆忙しそうにせっせとキラ達の前目の前をとおり過ぎていくのをキラは呑気に体育座りしてぼんやり眺めていた。
隣にいたゼオンが言った。
「何がだ?」
「あんたが寝坊って初めてじゃん。サボりはよくあるけどさ。」
ゼオンは黙った。キラは少し困った。そこで何か言い返してくれないと会話が続かない。
気まずい。すごく気まずい。どうしてゼオンはこうも会話のキャッチボールが下手くそなのだろう。
「…え、えっと…何で寝坊したの?何か悪い夢でも見た?」
ゼオンはそれを聞くとキラの顔を見てまた黙った。キラはまた困った。やっぱりゼオンと会話はしづらい。
一言だけゼオンがボソッと言った。
「…なんか今日、不吉だな。」
「え、あ、ふきつ?吹きつ?何が吹いてるの?」
「…もういい。」
ゼオンは冷たくそう言った。キラは少ししょぼんと下を向いた。
気のせいだろうか。キラの記憶のことの一件があってからゼオンの態度が前と少し変わったような気がする。
何だかちょっと冷たいような、かと思うとたまに妙に優しい時もあったりしてよくわからない。
キラの記憶、という言葉を思い出した時、キラはあることを思い出した。
「そうだ、あんたさ、この後オズのとこに一緒に来てくれない?」
「何でそんなことしなきゃならないんだ。」
キラはポケットから開封済みの手紙を取り出した。宛名はリラ宛で、差出人の欄にはサラ・ルピアと書いてある。
キラは少し困った顔で言った。
「お姉ちゃんから手紙が来たんだよね。…来週、帰ってくるんだってさ。あんたやオズにも一応言っておこうと思って。」
キラはまた下を向いた。サラに何て言えばいいのか、何を聞けばいいのか不安だった。
本当に復讐しようとしているの?と聞くことが怖かった。事実を知るのが怖かった。ゼオンはキラを見て、少し間が空いた後に言った。
「…行ってやらないこともないけど。」
「ほんと!?」
キラは顔を上げた。そしてほっとして少し笑った。するとなぜかゼオンの表情が少し曇った。
キラから目をそらしながら言った。
「…やっぱやめた。一人で行け。」
「はぁ!?なにそれ、嘘つき嘘つき!」
キラはゼオンを怒鳴ったけれどゼオンは全くこちらを見ていない。
そしてゼオンは何か疲れたようにため息をついた。疲れるのはこっちだよと思う。
ゼオンの態度のこともだが、サラとこれから向き合わなければならないかと思うと疲れる。
だがそれよりも前に疲れることが一つあった。
「はぁ…これからお説教か…やだな…。」
「…確かに面倒だな。」
キラは今学期遅刻23回目。ゼオンはサボり20回と今日の遅刻のせいでこれからお説教だった。
サラが来るという話の報告もその後になるだろう。その時、事務の人がキラとゼオンを呼んだ。
キラはため息をついてゼオンと中に入っていった。