第7章:第24話
ルルカはそう言われてハッと我に返った。そして、やはりこの人には適わないなと思った。自分には真似できないと。
いつもそうだ。サバトは会う度自分よりもはるか上の存在に感じる。ルルカは俯いて暗い感情に捕らわれてばかりだった。
「裏切りが怖くはないのですか?」
「一人の裏切りを恐れて何百万もの民を振り回す王など、それこそ殺されて当然です。」
「じゃあ……もし信頼していた誰かが自分を殺しに来たら、どうするおつもりですか?」
サバトは王の椅子に腰掛け、迷いなく言う。
「戦いますよ、勿論ね。その時に私について来てくれる家臣が居ないなら、僕は所詮その程度の国王だということなのでしょう。」
潔く、そして強い人だと思った。この大国のトップに立つに相応しい人だとルルカは知っていた。また自分がみすぼらしく惨めに感じた。
「お姫様」をやめ、五年の間追っ手から逃げる生活をして、少しは何か変わったかと思った。だが、ルルカは自分は未だに幼い「お姫様」のままかもしれない。
するとサバトがルルカにこう言った。
「そのようなことを僕に尋ねてくるのは初めてですね。」
「そう……かもしれませんね。」
この五年間での自分の「変化」が良いものか悪いものかはわからない。訊かれたくないことを訊かれそうな気がして、思わず腕に力が入った。
そしてその悪い予感は当たった。サバトはそっと、こう言う。
「もし、あなたの気分を害するような質問でしたらすみません。……ネビュラと、何かあったのですか?」
全身が凍りついたように動かなかった。刺されたように心が痛かった。それはルルカが一番聞きたくなかった名前だった。
その様子を見ただけでサバトはどういうことか気づいたらしかった。
「……そうですか。」
責めも庇いもしなかった。ルルカは腕に爪を立てて俯いて黙り込む。サバトは再びルルカの前までやってきて頭を撫でて言った。
「辛かったですね。何があったのかはわかりませんし、無理に言う必要もありません。
ですが、もし僕に何か力になれることがありましたら、いつでも言ってくださいね。」
どうしてこう優しいのだろう。その優しさが痛かった。
「ありがとう……ございます。」
その言葉だけ絞り出し、逃げ出すように席を立ち、扉の方へと急ぐ。
「話はもういいのですか?」
「……はい。失礼しました。」
扉を開け、部屋を出ようとした時、サバトは一言こう言った。
「明日は期待していますよ。」
「……はい?」
「サラ・ルピアが来るかもしれないと言ったら、きっと君達は戦ってくれますよね?」
驚いてルルカは振り返った。自分達は茅の外に置かれるかと思っていたのだが。
そしてルルカは一言言って部屋を出た。
「勿論です。」
◇ ◇ ◇
誰も居ない廊下だと足元や自分の息の音などがよく聞こえる。装飾の施された窓の向こうから来るかすかな月明かりは青白く廊下を照らしていた。
もう真夜中だ。暗くて灯りもついていない廊下をキラはとぼとぼ歩いていた。
階段を上り、上の階へと向かう。特に行き先があるわけではなく、単純に気を紛らわしたいだけだった。
城下町から光は見えない。けれど迫り来る内戦へと備えて確実に多くの人が動いているのがわかる。キラはそれをこんな高い所から眺めているだけだった。
しばらくすると、青白い光の差し込む窓の前に黒いシルエットが見えた。セイラだ。蒼い瞳を見開いて興味深々といった様子で窓の外を眺めていた。
「どうしたの?」
セイラはキラをちらりとも見ずに答えた。
「……窓の外を見ていました。」
それくらいは見ればわかる。キラと話している余裕など無いと言わんばかりにセイラは熱心に窓の外、はるか下を眺め続けた。そしてぽつりと呟いた。
「……高い、ですね。こんなに高いところ、初めてです。高いとこって……怖いんですね。」
きっとこれは素直な言葉だろうと思った。キラは尋ねた。
「お城とかって、来るの初めて?」
「はい。王や兵士が居る所だと情報として知ってはいましたが、実際に来るのは初めてです。」
そこで会話が途切れた。セイラは今度は下ではなく、はるか遠くの空を見つめていた。藍に覆われたような空に白い満月が浮かび、雲が遠くへ遠くへ流れていく。
セイラは空に手を伸ばした。月にも雲にも空の果てにも手は当然届かない。
「………広い、ですね。」
「……ん? 何が?」
「この世界。」
セイラの眼で月の光が燃えていた。不思議な気持ちでキラはその様子を見ていた。いつも嫌味を並べてクスクス笑っているセイラが、今はまるで別の人のように見えた。
無邪気で素直な子供にも、勇ましく現実に向き合う大人のようにも感じる。
その瞳は月を捉えていた。サラでも反乱軍でもない、別の何かを考えているように見えた。
「広いね。高いね。」
キラも窓の外を見る。すぐ下に広がる城下町。暗闇の中で確かに大勢の人が動いている。これから反乱を止める為に、たくさんの人が戦いに行くのだ。
その場所にここからでは手は届かない。
「……遠いなぁ。」
そう呟いて、キラは少し悔しくなった。キラはサラのことを思い出した。あのスカーレスタの街からもうすぐサラがやってくるのだろう。幾万もの大軍と共に。
その時、どこからか足音がした。二人は窓の外を見るのを止め、暗い廊下を見つめる。赤い光が遠くからやってくるのが見えた。ランプの灯りだ。
しばらくして、そのランプの持ち主のシルエットが浮かび上がった。ゼオンだ。ゼオンは二人の姿を見つけるとすぐにこちらにやってきた。キラがゼオンに言う。
「どうしたの?」
「お前らが居ないから探してこいって言われた。」
「へー、でもなんであんたが?」
「最初は城の使用人が探すって言ってたんだけど、なんか押し付けられた。ティーナが言うには、俺が捜しに行くのが一番早いらしい。」
「へぇ…………。そういえばどうしてあたし達がここに居るってわかったの?」
「いや、適等に探してただけだ。ただの勘。」
ティーナ、よくわかってるなあ……とキラは感心した。急ぐ用ではないらしく、ゼオンは窓の隣の壁に寄りかかって尋ねた。
「窓の外がどうかしたのか?」
「どうもしないけど、なんで?」
「……お前らしくないなと思っただけだ。」
ギョッとした。本当にゼオンは鋭い。思っていることを全て見透かされているようだった。ゼオンはキラの様子を見て言う。
「訊いたらまずいことだったか?」
「別にまずくはないけど。……なんか、そんなこと言ってくるのもゼオンらしくないね。前はずけずけ言いたい放題言ってきてたのに。」
一瞬ゼオンはムッとして、それからそっぽ向いてボソボソと言った。
「言いたい放題で悪かったな。無神経なこと言わないように……これでも一応……努力はしてるつもり……」
キラはそれを聞いて思わず笑い出してしまった。ゼオンが更に不満そうな顔をする。
「笑うな。」
「だってっ……ゼオンがそんなこと気にしてるって、なんかおかしかったんだもん!」
「黙れ。万年赤点の馬鹿女のくせに。」
「うわぁ、なんだようばかやろー!」
キラがぽかぽか殴りかかり、ゼオンがひょいひょい避ける。少し前の日常がこの一瞬だけ戻ってきたような気がした。先ほどまでの憂鬱な気持ちは少しだけ消え、気がついたらキラは笑っていた。その様子をセイラが口を出さずに見守っている。
くだらないことを言い合い、笑って、しばらく波が静まるように会話が途切れて静かになった。急に風の音がよく聞こえるようになった。
「あのさ、ブランの街ではさ、助けてくれてありがとう。お姉ちゃんや反乱軍の人に追っかけられた時も、戦ってくれて本当にありがとね。」
「……なんだ、急に。」
「お礼、まだちゃんと言ってなかったからさ。」
キラが笑顔でそう言うと、ゼオンはなにも返さずにそっぽを向く。それがおかしくてキラはまた笑った。それからキラは急に真面目な顔をして言った。
「この借り、必ず返すから。あたしなんかじゃ頼りないかもしれないけど、今すぐは無理かもしれないけど、いっぱい助けてもらった分、いつか絶対返すから!」
叫ぶように伝えた。するとさっきまでそっぽを向いていたくせに、ゼオンは急にこちらを見た。少し驚いているように見えた。
「何言ってるんだ、わけわからねえ……。」
キラから目をそらしてランプの光を見つめながらゼオンは呟いた。「わけわからない」、その意味がキラにはよくわからなかった。
月の光がキラを照らし、床に長い影を作る。ゼオンは光の当たらないところに居た。光の中に居るキラの足元には黒い影、影の中に居るゼオンの手元にはランプの光がある。キラもゼオンも、光と影の両方を確かに抱えていた。
少し離れた所で、セイラがこちらを見ないようにして立ちつくしていた。そして急に黙ってその場から居なくなろうとした。
一人で暗闇の中に歩いていくセイラをキラが引き止める。
「セイラ、どこ行くの?」
「部屋に戻ります。」
「どうして?」
「お馬鹿さん達の馴れ合いが本当に楽しそうですから、私が居てはお邪魔かと思いまして。」
セイラは嫌味っぽくクスクス笑って言う。だが、今の笑い方はなぜだか取ってつけたような偽物の笑いに思えた。だが吐いている言葉が嘘かと言われたらそうでもないような気もした。
嘲笑っているのか、気を遣ったのか、どちらかわからなかった。考えて、考えたがわからなかった。最終的に、これは考えても意味がないと思った。
キラはパッと駆け出しセイラの腕を掴んで月の光の当たる所へ引きずり出した。
「そんなこと気にしなくていいよ。一人で部屋に行ってもつまらないじゃん!」
「余計なお世話です。離してください。」
「それにさ、あたし、セイラにも言いたいことがあるんだ。セイラもこのお城に来てくれて、ありがとね。」
一瞬セイラの目がまあるく見開いて、それからすぐ仏頂面になって言う。
「どういうつもりです?」
「そのまんまだよ。来てくれてありがとう。嬉しいよ。ここに居るってことは、お姉ちゃんを止めるのに協力してくれるってことでしょ?」
笑顔を見たセイラの仏頂面が一瞬崩れた。だがそれからセイラは静かにキラの手を払いのけた。
「クスクス……本当に、キラさんの脳みそって可愛らしいですね。私は私のためだけにしか動きませんよ。偶然目的が一致しただけです。」
そして再びセイラはキラ達に背を向け、暗い廊下の奥へと消えていった。キラは払いのけられた手とセイラの背中を交互に見つめる。
「明日っ、頑張ろうね! あたしも頑張るから!」
暗闇の中に響くその声がセイラに届いたかはわからない。届いてほしいなとキラは願った。
「お前、セイラと仲良くしたいのか?」
ゼオンがキラに言う。キラは頷いた。
「うん。信じてもらえないかもしれないけど、セイラは悪い子じゃないような、そんな気がするの。」
キラがそう言うとゼオンは手元のランプの光を見つめながら言った。
「セイラが何者かわからない以上、良いとも悪いとも言えねえけど……まあ、好きなように考えればいいんじゃねえか?」
キラは少し驚いた。ゼオンはセイラを良く思っていないのかと思っていた。
「ねえ、セイラと何かあった?前はもっとセイラに冷たかった気がするんだけど。」
「いや、別に。特別なことは何も。」
「ふぅん。」
なら、ゼオンの方が優しくなったのかなとキラは思った。だとしたら嬉しいなと思った。
「何笑ってんだ。うっとおしい。」
「べつにーなんでもないよー。」
そう言いながらキラはニコニコ笑っていた。くるっと回ってゼオンの真ん前に立つ。
「あたし、やっぱりじっとしてるの無理かもしれない。お姉ちゃんのこと、あたしが止めたい。もう一回、やれることやってみたいんだ。」
「……それを俺に言ってどうする。勝手にすればいいだろ。」
「うーん、確かにそうかな。でも、なんとなく誰かに言った方が気合い入る気がしたんだ!」
そう言って両手をグーにしてぶんぶん振り回すキラをゼオンはじーっと見つめて、それから急に冷めた様子でそっぽ向いて廊下を歩いていってしまおうとした。
キラは慌てて追う。
「あーもう! なんか反応ないの?」
「……特にない。」
キラがぶーっと膨れると、ゼオンが急に立ち止まってちらっとこちらを見る。
どうしたのかなと思った時、キラは一発凸ピンされた。
「ぶあーっ、ばかーっばかやろー!」
「……そろそろ部屋に帰るか。」
「無視するなー!」
ゼオンは聞こうともしなかった。キラはまた頬を膨らませる。少しくらい応援してくれたらいいのになと思った。
「……そういえば。」
ゼオンがまた立ち止まった。
「どうしたの?」
「セイラに言い忘れた。いや、あいつ言わなくても気づいてるかな……」
「何を?」
「お前らを呼んでこいって言われた理由だ。なんか国王が命令出したらしい。最上階の執務室の真下にある部屋に人を一人も入れないようにしろって言ってた。
もし荷物か何かがあるようなら動かしてくれって。」
キラは首を傾げる。なぜそんな命令を出すのかわからなかった。わからなかったが、とりあえず言われた通りにするしかなかった。