第6章・第27話
潮風を背に受け、ジャスミンの前に立つティーナの顔はきっと普段とは違っていただろう。
血潮のような紅い眼と髪。「シュヴクス・ルージュ」――この街では「紅の髪」を意味する。ティーナにこそ相応しい名前だった。
眼前に立つジャスミンはまあるい目を見開いたまま動かない。ジャスミンはまだ信じられない様子だった。
「ティーナさんが数百年前の怪盗だとしたら……どうして今の時代にここに?」
「まあそれは色々あったんだけど、わかりやすく言っちゃうとタイムスリップかな。ある人に時間を操る魔法で飛ばしてもらったの。」
ちなみにある人とはセイラのことだ。ジャスミンはまだ目を見開いて瞬きすらしなかった。信じられなくて当然だろう。ティーナもそんな期待はしていなかった。
だがジャスミンは素直な子だった。
「ティーナさん、昔どんな怪盗だったの?」
「……信じるの?」
「うん。」
迷いなく言う瞳が眩しかった。「そんな純粋無垢な怪盗があるかよ」と、掃き溜めに石を投げるように思った。
そしてティーナは言う。吐き捨てるように。
「酷い怪盗だったよ。邪魔する奴は片っ端からぶっ殺して、手や顔に真っ赤な返り血つけて、金目のもの奪いとってく……残虐非道な奴だった。
あんたのような優しい怪盗じゃあなかったよ。怪盗というより強盗だね。」
「どうして、怪盗やってたの?」
ため息をついた。これだから金持ちは――ほんの少しだけ浮かんだ本音を殺し尽くしてしまいたかった。
「決まってんじゃん。生きてくためだよ。食ってくためだよ。それ以外ないよ。
物心ついた頃にはもう両親なんて居なかった。顔も知らない。家も無いし、お金もない。だからスラムの子供達を力で無理矢理従わせて、怪盗始めたの。」
ジャスミンは俯き、少し悲しげな顔をする。可哀想な人。そんなことを思ったのだろうか。
だがティーナはそう思われることを何より嫌っていた。
「でもさ、同情なんてしないでよ。」
「え?」
そしてティーナは「普段どおり」の愉快な笑顔を浮かべた。
「そんなの昔の話。あたしもう、可哀想なんかじゃないんだから!」
それを聞いたジャスミンの顔も明るくなり、にっこり笑って言った。
「そうだね、今のティーナさん、すごく楽しそうだし。」
ティーナも笑い返す。そう、そんなの昔の話。今はもう関係ない。
ゼオンがいて、ルルカやキラがいて、それで何となく楽しくやれているのだからもう過去なんて気にする必要はないと思っていた。
本当に思い出したくないもう一つの過去のことも。明るい笑顔の面白おかしい「ティーナ・ロレック」で居る限り、もう二度と触れる必要はないと思っていた。
ジャスミンは怪盗のノートを鞄にしまい、お礼を言った。
「じゃあ、話してくれてありがとう。それとエリスのこと、止めてくれてありがとうね。」
「いやいや、お礼なんて。あたしのゼオンの為にやっただけなんだから。」
「あはは、じゃあね!」
「うん、バイバイ!」
ティーナはニッといつものように笑う。そう、これでいいんだ。
そしてジャスミンはティーナより先に公園を出て行った。ジャスミンが居なくなった後の公園はとても静かだった。さざ波の音だけがする。
ティーナは振り返って出口とは反対側にある公園の中心にある記念碑に言った。
「お待たせ、ゼオン。」
記念碑のような石像の影からゼオンが顔を出す。ティーナはふぅとため息をついた。
ジャスミンが来る前にティーナはゼオンからノートを貰って自分から渡すと言った。その時に先に帰っていてほしいと言ったのに、ゼオンはずっとここに居たらしかった。
「やっぱりまだ居たんだ。」
「悪い、出口はお前らのすぐ近くだったし、正直出ていきづらかった。」
「おお、ゼオンが『気まずい』を覚えた! いやぁでも、人様の過去を盗み聞きしちゃうのもどうかと思うけどねぇー。
あと、いくら家の人から許可されたからって、女の子のノートを勝手に持ち出して怒られなかったのは奇跡だと思うなー。」
「……そ、そうか。」
「あーん、ちょっと言い過ぎたかな、しょげないで! あたしはそんなゼオンも全力で愛してるぞ!」
いつものティーナはそう言った後、ゼオンに背を向けた。
急に波の音がよく聞こえるようになった。突然空いた時間が妙に長く感じた。
「……あと、さっきのこと、キラ達には言わないでくれない?」
「言わねえよ、めんどくさい。」
それを聞いてティーナは少し安心して屋敷へと戻り始めた。ゼオンもティーナと共に公園を出た。
足音がやけに大きく聞こえた。自分が喋っていないからだと気づくのにしばらくかかった。
不意にゼオンが言った。
「お前の正体……本当にそれで全部か?」
全く、本当にゼオンは鋭い。そこが好きなのだけど、都合の悪いところばかり突いてくるところがちょっとだけ玉に傷だ。
これだけ話せば、それで満足してくれるかと思っていたのだが、さすがティーナの心の王子様はどこまでも正直でかっこよかった。
「そうだなあ……半分ってとこかな。」
「残りは教えてはくれなさそうだな。」
「そうだね、これは秘密だな。」
人差し指を唇の前に立て、軽くウィンクして言う。
一つ目は「ティーナ」としての顔、二つ目は「シュヴクス・ルージュ」としての顔、三つ目は――誰も知らなくていい。
ティーナはゼオンに言う。
「ねえ、安心していいよ。怪盗だとか、もう昔の話だから。
今はもういつもニコニコのただのティーナだから。今は幸せだから……もう、可哀想なんかじゃない。」
静かな公園にその声は問い返すようにこだまする。自分の声がよく聞こえるのが少しだけ憎い。
それから、笑って言った。
「ね、だから、もう帰ろう?」
ゼオンは今日も淡々と言った。
「そうだな。」
そう言って屋敷に戻るゼオンの後をティーナは黙ってついていった。
誰も知らなくていい――ティーナが話さなかったもう一つの秘密の根の深さに、このときはまだティーナもゼオンも気づいていなかった。
◇ ◇ ◇
相変わらず派手な部屋だとオズは思った。チャラチャラギラギラしたシャンデリアに大理石の床。
家具の装飾も豪華絢爛で目が痛い。その部屋のソファーに腰掛け、オズは部屋の主のクローディアの方を見る。
クローディアは紅茶を出して言った。
「まずはお疲れさま。悪かったわね、こんなこと頼んで。」
「まあええって。あいつの情報と引き換えなら安いもんや。」
「リディって子のことはまた何かわかったら知らせるわ。」
「ああ、頼む。」
そう言って出された紅茶のカップを取る。リディと人体実験施設との関係――何が目的なのかはわからないが、この街にリディが来たというのは大きな情報だった。
急にクローディアが席を立ち、棚に置いてある袋からワイン瓶らしきものを三本取り出した。
そしてテーブルに置いてオズに言う。
「ルイーネちゃんに見つからないうちに渡した方がいいわよね? はい、どうぞ。お土産の美味しい赤ワイン。」
酷い冗談だった。今の一言でこれが何かはわかった。少なくとも赤ワインではない。
オズは一本手に取り蓋を開けてみる。中には紅い液体、だがワインではなく、むせかえるような鉄分の匂いがした。
「ちょっとしたコネで貰ってきた血よ。固まらないように魔法はかけてあるからしばらくもつわ。
全く、吸血鬼って大変ね。こんな薬じゃあ満足いかないでしょう?」
クローディアは今度は薬の入った瓶を取り出し、オズに投げて渡した。
比較的最近に開発されたらしい、吸血鬼が血を吸わなくても生きていけるサプリメントのような薬だ。
オズはいつもこの薬を飲んで生活している。普段村の中で人様の血を吸うわけにはいかないのでこの薬が食事代わりだ。
正直なところ、屋敷で出されるパンだの肉だのといった食事は吸血鬼にとってはあまり意味はない。
食べても毒ではないのだが吸血鬼には栄養補給の意味は成さないし、オズにとっては大抵不味く感じるからだ。お菓子や紅茶などはオズは個人的に好きだったが。
「念のためこっちも渡しておくわ。あなた村長さんと仲悪いんでしょう? 万が一『薬やらねえぞ』みたいなこと言われた時の為に一応ね。」
意外と気が利くなと思った。吸血鬼用の薬は国からカルディスを通してオズに渡されることになっている。
正直カルディスとは『薬やらねえぞ』と言われてもおかしくない仲だ。薬と血、両方貰えるのは都合が良かった。
オズはワイン瓶の血を喉に流し込む。この血を美味しいと感じる度に、やはり自分は吸血鬼なのだと思った。
瓶を置き、オズはクローディアに言った。
「悪いな、どうも。」
「そのかわりなんだけど、いいかしら?」
またこいつは何か言い出す気だ。
「ゼオンに手出しはしないこと。粗末に扱ったりしたら私が敵に回ると思いなさい。
あなたがもしゼオンが危険な目に遭わせたら、私はもう情報収集も手助けもしないわ。いいわね?」
「しゃーないな。ま、元からあいつは消す気はないんやけど。有能やし便利やし。」
「こらっ、人の弟を物扱いしないでくれない?」
「あーはいはい、わかっとる。」
適等に返事をしてその場をやり過ごした。貰うものは貰ったので麻の袋に瓶を入れて席を立つ。
するとクローディアが言った。
「そうだ、村人や村長さんとはなるべく仲良くしときなさい。」
「嫌や。」
オズは即答した。あんな分からず屋の頭の固い爺さん達と仲良くするなどと考えただけで寒気がした。
そもそもあちらが仲良くする気がない。特にカルディスはオズのことは仇か狂人としか思っていないだろう。
だがクローディアは言う。
「いい、これは忠告よ? あなた、もう少し自分の居場所を守ることを考えなさい。
あなたがどんな好き勝手やらかしてもあなたの勝手だけど、恨みや憎しみはできる限り残さないべきよ。
あなたは確かに強いわ。その力で人を脅せば何でも手に入るでしょうよ。
けど、力で本当に守れるものは身の安全だけよ。それ以外の物を力で手に入れると、恨みと憎しみという代償が残るのよ。
一人に憎まれても何も困らないだろうけど、大勢の人の力というものは強いものよ。
それでもあなたを殺したりはできないわ。でも大勢の人があなたを恨めば、きっとあなたを村から追放したりするくらいは容易いでしょうね。
そうしたら村の小さな図書館はもうあなたの居場所じゃなくなる。
村人を力で脅して無理矢理留まることは勿論できるわ。けどそんな暴君を果たして小悪魔ちゃん達は暖かく迎えてくれるかしら?」
無理だろうな。あっさりとオズは結論づけた。きっかけさえあれば人は簡単に立場を変えるから。
「お前の言うとおりや。多勢っつーもんは強い。神にも死神にも勝る……。
俺を追放なんてちょちょいのちょいや。けどな、一つお前勘違いしとるで?」
オズは笑った。それは本音を隠す仮面のようだった。
「俺は村も図書館も居場所やなんて思ってへん。できるなら今すぐ出て行きたいくらいや。」
あの村に居る意味は無い。守りたい程の居場所なんてとうに無い。
オズはクローディアのため息を無視してドアノブに手を伸ばした。その時、急にドアをノックする音がした。
誰かクローディアに用があるのだろう。ドアを開けるとそこにはゼオンがいた。
「姉貴いるか?」
「ああ、おるけど。」
クローディアがこちらへ来た。
「あら、ゼオン。どうぞ、中入って。」
ゼオンが中に入る。オズはクローディアに言った。
「じゃあ、こっちはこれで。じゃあな。」
ゼオンと入れ替わる形でオズは外に出た。出る時、一瞬ゼオンの目がワイン瓶の入った袋を見た。