第2話 ふわふわモフモフになった私の正体
あれから、私は考える暇もなく走っていた。
一度振り返った時に、視界の端に、黒い影がかすめた。
角のようなものが見えた気もするし、二本足で立っていたようにも思う。
だが、確信は持てない。
ただ一つ分かるのは、相手が何者であれ、逃げる必要があったという事実だけだった。
(……今の、夢じゃないのよね)
◇ ◇ ◇
どれほど走ったのか分からないが、いつの間にか獣の気配は無くなっていた。
また沢に出た。先ほどいた場所より下流のようだ。
水音に混じって、心臓の音がうるさく響いている。
もう追ってきてないよね?大丈夫だよね?
考えたいのに、思考がまとまらない。
こんな時なのに、お腹が思いっきり鳴る。
(こんな状況なのに、私)
どうやら私は、普通のネズミより、明らかに大きい気がする。
私は辺りを警戒しながら、沢の中ほどにある、大きな岩の上に寝転がった。
とりあえず乾かさなくちゃ体が重い。
しばらくすると、日光に温められた岩の上で、びしょ濡れだった毛はすっかり乾いて、ふわふわになった。
短い手足のぽってりしたシルエットが、より丸っこく見える。
明るい茶色の毛並みは、乾くほどに丸みを強調してきた。
(まさに毛玉……)
尻尾は短い。
あまりにも短く、まるでおまけのように、ちょこんと付いているだけだ。
(……切られた、とかじゃないよね)
嫌な想像を振り払うように、私は首を振った。
色々と考えたいことは山ほどある。
けれど今一番必要なのは、きっと水と食料だ。
沢の水は澄んでいるけれど、飲めるのだろうか。
以前、煮沸せずに沢の水を飲んで、上からも下からも大変なことになった――
そんな体験談を聞いた記憶が、頭をよぎった。
ただでさえ、混乱極まりないこの状況でお腹を壊すなんてごめんである。
私は水を飲むのを諦め、代わりに周囲を見回した。
――ふわり。
その時、甘い香りが鼻先をくすぐった。
思わず鼻をひくひくと動かし、匂いのする方へ向かう。
姿勢も動きも、完全に小動物そのものだった。
茂みを掻き分け、森の中をしばらく進むと、赤い実がたわわに実った樹が見えてきた。
「リンゴの巨木!」
地面に落ちた実は踏み潰され、腐りかけているものも多い。
けれど枝の上を見上げると、まだ瑞々しそうな実が残っていた。
私は両手両足を使い、勢いをつけて幹をよじ登る。
思ったよりも体は身軽で、木登りも難しくなかった。
枝先のリンゴをもぎ取り、かぶりつく。
しゃきり、と心地よい音。
甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がり、乾いた喉を潤していく。
甘く芳しい香りが鼻へと抜ける。
シャキシャキとした食感は空腹の胃に満足感を与えた。
(美味しい〜! 水分も栄養も同時に取れるし、果物って最高!)
今の私には、これ以上ないごちそうだった。
ふと周囲を見渡すと、不思議と「目にとまる」リンゴがあることに気づいた。
何となく、特別な出来栄えと直感的に分かる。
試しにその実を取って食べてみると、先ほどのものよりも格段に美味しかった。
瑞々しさと程よい酸味。
皮の苦味がほとんどなく、香りが先に立つ。
これなら、砂糖を使わなくても菓子に出来そう。
どうやら私は、食べ物の良し悪しを嗅ぎ分けられるらしい。
小動物としての能力なのか、それとも他の何かなのかは分からないけれど。
これは生きていく上で、便利な能力かもしれない。
お腹も満たされ、そんな前向きな考えが浮かんだ、その時だった。
そう遠く無い場所で轟音が響いた。
思わず身をすくめてその方を見やると、鳥たちが慌てて飛び立つのが見えた。
金属のぶつかる音も微かに耳に届く。
あまりここに長居しない方が良いのかもしれない。
地面に降りようと、私は両手にリンゴを抱えて、悩ましいことに気づいてしまった。
(これ……持ったままじゃ降りられない。どうしよう。口に咥えていけるかな?)
樹の上から降りるには手を空ける必要がある。
試しに大きく口を開けてリンゴを咥えようとした瞬間――声が、頭の中に直接響いた。
『獲得スキル:ほお袋』
それと同時に、口に押し当てたリンゴが、吸い込まれていく感覚がした。
口の中へ――いや、どこか奥へ消えていく感覚があった。
(……え?)
食べたわけではない。
ほっぺたを触ると、ふっくらと膨らんでいる。
(おや?)
そういえば、ずっと感じていた違和感がある。
丸い体に短すぎる尻尾。
そして、この“ほお袋”。
この時、ようやく理解した。
私はネズミじゃない。
――ハムスターだ。




