第1話 ここはどこ?私はネズミ?
長い歳月、あまたの場所を翔けてきた。
宙の星々を巡り、名を持たぬ世界の境界を、いくつも踏み越えて。
――もう、充分ではなかろうか。
それとも、まだ足りないのか。
その日、王国の夜空に、ひときわ強い光が生まれた。
細かな光を撒き散らし、大きな尾を引くそれは、彗星に似ている。
彗星は、ひととき瞬いたのち――
吸い込まれるように、地上へと落ちていった。
◇ ◇ ◇
意識が、底からゆっくりと浮かび上がってくる。
冷たい土の感触が、背中いっぱいに広がっていた。
鼻をつくのは、湿った草と腐葉土の匂い。
(……ここは、どこかしら?)
声を出そうとしたが、喉からは掠れた音しか出ない。
体が、鉛の塊のように重かった。
無理に起き上がろうとして、くらりと目眩がする。
結局、もう一度仰向けに倒れた。
幼い頃に来たことがある――ここは森だ。
(こんな所で寝ていたら、使用人がびっくりしてしまうわ)
ぼんやりと見上げた視界の先には、空を覆う高い木々。
絡み合う枝葉の隙間から、きらめく陽光が差し込んでいる。
人工物の気配は、一切なかった。
――記憶が、ない。
ここに来るまでの経緯が、何ひとつ思い出せない。
恐る恐る、寝転んだまま体の感覚を確かめる。
手足は動く。問題なさそうだ。
ただ――
異様なほど、空腹だった。
(一体、いつからここに……)
顔に触れようと手を伸ばし、指先が頬に当たった瞬間。
ぞわり、と。
全身が総毛立つような、嫌な感触が走った。
「……え?」
ふさふさ、とした感触。
明らかに毛だ。短いが、密集した毛が顔全体を覆っている。
「な、ななななななにこれ!?」
思わず悲鳴を上げ、跳ね起きようとする。
その拍子に、自分の手が視界に入った。
――凍りつく。
ピンク色の指は、四本しかない。
しかも、掌には肉球があった。
(……ものすごく、毛深い……)
病気?
それとも、夢?
頭の中が一気に混乱する。
視線を落とすと、体にはゴワゴワと色々なものが貼り付いていた。
全身が泥だらけで、草や葉が乾いた泥と一緒に固まっている。
「うわぁ……! やだやだ、汚い……」
掠れた声が漏れた。
理由も分からず森で倒れていた恐怖と、
この姿への嫌悪感が、一気に込み上げてくる。
とにかく、洗いたい。
その一心で立ち上がり、
ふらつく足を引きずるように森の中を進んだ。
◇ ◇ ◇
木々の間を抜けると、澄んだ沢が現れた。
浅く、流れは穏やかだ。
私は迷うことなく、腰まで水に浸かった。
冷たい水が、ぼんやりしていた意識を一気に引き戻す。
固まっていた泥が、少しずつ溶けていく。
(よかった……綺麗になった。……あれ?)
そのとき、ようやく違和感に気づいた。
服だと思っていたものが、どうやっても脱げない。
嫌な予感が、背筋を走る。
恐る恐る、水面を覗き込んだ。
――そこに映っていたのは。
濡れそぼった小さな体。
丸い耳。短い手足。つぶらな黒い目。
どう見ても――ネズミだった。
声にならない声が、喉から漏れる。
手が、小さく震えた。
何度瞬きをしても、姿は変わらない。
記憶はない。
けれど、確信だけはある。
私は、こんな姿じゃなかった。
もっとスベスベの肌で、細い指で――
間違いなく、人間だったはずだ。
しかも貴族の。
(なんで……こんな姿に……)
沢の水が、静かに流れ続ける。
ネズミの姿をした私は、
水を滴らせたまま、その場に立ち尽くすしかなかった。
――私は、一体、何者なの?
そのときだった。
風に乗って、油が腐ったような臭いが漂ってくる。
森の奥から、ゆっくりと。
葉擦れの音が、不自然に途切れた。
鳥の声が、ぴたりと止む。
――来る。
理屈ではない。
本能が、そう告げていた。
この体は、狩る側じゃない。
狩られる側だ。
土の上に落ちた自分の影が、小さく震える。
次の瞬間。
茂みの向こうで、何かが低く唸った。




