第五話:肉の継承
アルトの心臓は、最後の拍動を終えた。
房室結節を流れる電気信号が途絶え、心筋が弛緩する。肺胞を埋め尽くした漿液が、気道を通って口角から一筋の泡となって溢れ出した。
施設長と、二人の男女がその死体を見下ろしている。
アルトの両親だ。父親は、息子の死体に漂う死臭に鼻を突き、母親は血に汚れた床を汚物を見るような眼で見つめた。
「事故死。ということで処理しておきましたよ。本来、これだけの損傷を負わせたのはこちらの過失ですが……まあ、借金の相殺ということで、この件は終わりにしましょう」
施設長が差し出した書類に、父親は迷わず署名した。
アルトが死を賭して守ろうとした「引換証」は、その場でシュレッダーにかけられた。金貨三千枚という数字は、施設と両親の間で、静かに、そして即物的に分配された。
「……あの子、無駄に身体が丈夫だったわね。もっと早く終わると思ったのに」
母親の声には、息子を失った悲哀など微塵もなかった。
彼らにとって、アルトは息子ではなく、金を吐き出す「肉塊」に過ぎなかった。
数日後。
ミリーは、冷たい地下室にいた。
家に戻らなかった兄。届けられた一通の「事故死」の通知。そして、その日のうちに家に押し入ってきた施設員。
「放して! 兄様はどこ!? 兄様は……っ!」
叫び声は、分厚い石壁に吸い込まれ、誰にも届かない。
彼女は、かつて兄が座らされていた、あの受傷椅子に押し付けられた。
ガチリ。
鉄の拘束具が、ミリーの細い手首を締め上げる。
冷たい。
真皮を刺す金属の冷感。それは、兄が毎晩持ち帰っていた、あの死の感触そのものだった。
鼻腔を突くのは、洗浄しきれなかった古い血液の臭い。
椅子の背もたれに、兄の指先が最後に掻き毟ったであろう爪痕が残っていた。
ミリーの視界が、絶望で激しく揺れる。
彼女は悟った。
兄が必死に守ろうとした自分の「清潔な」未来など、最初から存在しなかったのだ。
自分たちは、この肥大した都市の苦痛を吸い取り、浄化するための「濾過装置」として飼われていたに過ぎない。
「準備しろ。今回の受傷は、老富豪の痛風と、落馬による脊椎損傷だ」
白衣の男が、無感情に告げる。
ミリーは、目の前の魔術回路が青白く光りだすのを見つめた。
燐光が網膜を焼き、脳に直接、破滅の予感を送り込む。
「にい、さま……」
その呟きは、励起した魔術回路の高周波音にかき消された。
瞬間。
ミリーの細い腰椎に、数トンの重圧が物理現象として叩きつけられた。
骨膜が裂け、神経束が一気に圧砕される音。
――グシャリ。
彼女の口から飛び出したのは、叫びではなく、内臓の破片を含んだ暗赤色の鮮血だった。
兄が命を賭して拒んだ地獄を、彼女の肉体が正確に継承していく。
地下二階。
石造りの天井から滴る水滴が、新しい「肉」の血を薄めながら、冷たく床を叩き続けていた。




