第四話:終焉の共振
石造りの天井から滴る結露が、アルトの頬を打つ。
地下二階、最奥の受傷室。空気は停滞し、防腐剤の塩素臭と、腐った肉が放つ特有の甘い饐えた臭いが、神経を逆なでするように漂っている。
「これが最後だ。アルヴェイン辺境伯の全呪詛、および全転移癌細胞の受容を開始する」
白衣の男の声が、無機質に響く。
アルトは椅子に固定されていた。手首、足首、そして頸部。冷たい鉄の拘束具が、皮膚に深く食い込んでいる。
もはや抵抗する筋力は残っていない。
アルトの脳裏には、先ほど見た契約書の数字――「金貨三千枚」という無機質な記号だけが、網膜の裏側で点滅していた。
魔術回路が励起する。
パチパチと空気が爆ぜる音がし、青白い燐光が石畳を這う。
接続。
――視界が、爆ぜた。
脳幹を直接、巨大な杭で貫かれたような衝撃。
物理的な質量を伴った「死」が、魔術回路を伝ってアルトの脊髄へと流れ込む。
まず、末梢神経が焼き切れた。指先の感覚が消失し、代わりに高熱を持った鉛を流し込まれたような圧迫感が四肢を支配する。
心臓。
心外膜が、他人の不整脈を強制的に模倣させられる。
ドクン、と不自然に肥大した拍動が、胸骨を内側から叩き割ろうとする。
肺。
肺胞のひとつひとつが、目に見えない鑷子で摘み取られるように潰れていく。酸素の供給が途絶し、血中の二酸化炭素濃度が急上昇する。
延髄が強制的に呼吸を促すが、横隔膜は痙攣し、ただ胃液が逆流して喉を焼くだけだった。
アルトの腹部で、何かが「融解」する音がした。
老貴族の肉体を蝕んでいた癌細胞が、転送というプロセスを経て、アルトの健康な組織を瞬時に侵食していく。
肝臓は硬化し、膵臓は自己融解を始め、腹腔内は壊死した組織と体液で満たされていく。
内圧が高まり、真皮が限界まで引き伸ばされ、ミシミシと裂ける音が鼓膜のすぐ傍で鳴り響いた。
(……一、二、三……)
アルトは数字を数える。
痛みを認識すれば、精神が霧散する。だから、金貨の枚数だけを思考の拠り所にした。
金貨一枚で、ミリーに暖かいパンを。
金貨十枚で、ミリーに新しいドレスを。
金貨百枚で、ミリーをこの泥濘から引き剥がすための、輝かしい身分を。
ガクガクと顎が震え、奥歯が根元から爆ぜた。
眼底出血により、視界はどす黒い赤に染まり、最後には光すら失われた。
だが、アルトは笑っていた。
筋肉の硬直による、引き攣れた笑み。
これさえ終われば。この地獄をすべて飲み込みさえすれば、彼女の未来は保証される。
「……転送、九十八パーセント……九十九……完了」
魔術回路の音が消え、静寂が戻る。
アルトの肉体は、もはや椅子に固定されただけの「死体」に等しかった。
全身の毛穴から血が滲み出し、石畳に真っ黒な水溜りを作っている。
老貴族は、若々しい吐息をつきながらベッドから立ち上がり、一瞥もくれずに部屋を去った。
白衣の男が、アルトの頸動脈に指を置く。
「……微弱。だが、まだ『機能』しているな。報酬の処理に移れ」
アルトの意識の断片は、遠くで響くその声を、まるで水底から聞くように受け止めていた。
金貨三千枚。その数字だけが、消えゆく意識の中で黄金色の光を放っていた。
自分がこのままゴミのように捨てられることも、約束された金貨がどこへ行くのかも知らずに。




