表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
代償の肉塊  作者: わん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/5

第三話:腐朽する貴種


 施設内の最奥。そこは地下の不潔な空気とは異なり、防腐剤(ぼうふざい)と人工的な花の香りが混ざり合った、吐き気を催すほどに「清潔な」空間だった。


「今回の被験体は、アルヴェイン辺境伯だ。この契約書にサインをしろ」


 白衣の男が差し出した羊皮紙には、天文学的な数字が躍っていた。妹が一生、泥を啜ることなく、豪奢な石造りの屋敷で余生を過ごせる額。

 アルトの視球は、その数字だけに固執(こしつ)していた。もはや周辺の景色は、網膜の端で溶けた絵の具のようにぼやけている。


 ベッドに横たわる老貴族は、生きながらにして腐敗(ふはい)していた。

 解呪不能な魔術呪詛――『細胞壊死(さいぼうえし)の共鳴』。

 彼の腹部から足先にかけて、皮膚は紫黒色に変色し、真皮の下で液状化した脂肪が波打っている。壊疽(えそ)した組織から漏れ出る、古いドブ川と甘ったるい内臓の臭いが、アルトの鼻腔の粘膜を焼き、喉の奥を痙攣させた。


「これが最後だ、アルト。これを受けきれば、お前は自由だ」


 男の言葉は、アルトの耳管を通り抜ける無機質な空気の振動に過ぎない。

 アルトは震える指先で、自身の右親指を噛み切った。

 口腔内に広がる粘り気のある血小板(けっしょうばん)の味。

 鉄の拘束椅子に座り、血に濡れた指を契約書の血判(けっぱん)欄に押し付ける。粘着質な血液が羊皮紙の繊維に吸い込まれ、鈍い赤色に変色した。


 儀式が始まった。


 魔導回路が冷徹に、そして暴力的に励起する。

 接続の瞬間、アルトの横隔膜(おうかくまく)が痙攣し、強制的に肺胞から空気が押し出された。

 ――熱い(あつい)

 いや、それは熱ですらなかった。

 自分の腹壁の内側で、数千本の熱焼(ねつしょう)した針が、臓器を一つずつ穿孔(せんこう)していく感覚。

 肝臓、脾臓、大腸。

 それらが自身の体液の中で、ドロドロとした泥濘に変わっていく物理的な確信があった。


 アルトの視界が赤く濁る。眼底(がんてい)の毛細血管が圧力に耐えかねて破裂し、房水が血に染まったのだ。

 「声」が出ない。声帯が過剰な神経伝達物質しんけいでんたつぶっしつによって麻痺し、喉の奥で虚しい空気の音が鳴るだけだった。

 反対に、老貴族の腐った肉からは、みるみるうちに生気(せいき)が戻っていく。

 黒ずんだ皮膚が剥がれ落ち、下から赤ん坊のような、瑞々しくも厚顔な皮膚が再生されていく。


 他人の「死」を、自分の健康な組織で希釈(きしゃく)する。

 アルトの骨盤の中で、大腿骨の頭が(おと)を立てて崩れた。

 自重を支えきれなくなった椅子が、彼の肉に深く食い込む。


 帰宅。

 深夜の廊下を、アルトは四つん這いで進んだ。

 もはや二本足で直立するための前庭器官(ぜんていきかん)は機能を停止している。

 背後には、彼が這った跡に沿って、粘り気のある黒い体液が一条の線を引いていた。


「……にい、さま?」


 部屋の隅で待っていたミリーの手から、ランプが落ちた。

 ガシャン、と床でガラスが砕ける無機質な音。飛び散った油に火が燃え移り、ゆらゆらと不規則な光が、もはや人間としての輪郭を失いつつあるアルトの背を照らし出す。


 ミリーは悲鳴を上げなかった。喉の筋肉が極度の恐怖と悲哀で硬直し、酸素を取り込むことすら忘れたかのように、ただ喘いだ。

 彼女は膝をつき、兄が引き摺った黒い体液の跡を厭うこともなく、その崩壊した肉体へ這い寄った。


「嫌……ああ、にいさま、そんな、そんな身体で……」


 彼女の指先が、アルトの露出した真皮(しんぴ)に触れる。

 熱を失いかけ、腐敗の呪いで粘り気を帯びた兄の肌。

 アルトの指先が、血と膿に塗れた「金貨への引換証」を、震えながら彼女の足元へ差し出す。


「かね……これで……おまえ、は……」


 言葉を紡ぐたび、アルトの肺胞からは泡立った血が溢れ、床を汚した。

 ミリーはその紙切れを、まるで呪われた遺物のように震える手で受け取った。

 彼女はそれを抱きしめるのではない。兄の、崩れ落ちそうな頬を両手で包み込み、自分の額を、死の臭いが立ち込める彼の額に押し当てた。


「いらない……こんなもの、いらないわ、にいさま……っ」


 ミリーの目から溢れた涙が、アルトの剥き出しになった眼輪筋に零れ落ちる。

 塩分を含んだ液体の刺激が、露出した末梢神経を鋭く焼き、アルトの身体を小さく跳ねさせた。

 その痛みすら、アルトにとっては「他人のものではない」唯一の感覚だった。


 ミリーは嗚咽を漏らしながら、兄の欠けた指を自分の胸元に引き寄せる。

 兄が自分の人生を切り売りして得た金。そのあまりの重さに、彼女の細い肩は激しく痙攣していた。

 アルトの視界は、妹の涙で滲んだ。

 最後に網膜に焼き付いたのは、自分を抱いて泣き崩れる、世界で唯一守りたかった少女の、絶望に染まった顔だった。


 アルトの意識は、そこで暗い泥濘へと沈没(ちんぼつ)した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ