第三話:腐朽する貴種
施設内の最奥。そこは地下の不潔な空気とは異なり、防腐剤と人工的な花の香りが混ざり合った、吐き気を催すほどに「清潔な」空間だった。
「今回の被験体は、アルヴェイン辺境伯だ。この契約書にサインをしろ」
白衣の男が差し出した羊皮紙には、天文学的な数字が躍っていた。妹が一生、泥を啜ることなく、豪奢な石造りの屋敷で余生を過ごせる額。
アルトの視球は、その数字だけに固執していた。もはや周辺の景色は、網膜の端で溶けた絵の具のようにぼやけている。
ベッドに横たわる老貴族は、生きながらにして腐敗していた。
解呪不能な魔術呪詛――『細胞壊死の共鳴』。
彼の腹部から足先にかけて、皮膚は紫黒色に変色し、真皮の下で液状化した脂肪が波打っている。壊疽した組織から漏れ出る、古いドブ川と甘ったるい内臓の臭いが、アルトの鼻腔の粘膜を焼き、喉の奥を痙攣させた。
「これが最後だ、アルト。これを受けきれば、お前は自由だ」
男の言葉は、アルトの耳管を通り抜ける無機質な空気の振動に過ぎない。
アルトは震える指先で、自身の右親指を噛み切った。
口腔内に広がる粘り気のある血小板の味。
鉄の拘束椅子に座り、血に濡れた指を契約書の血判欄に押し付ける。粘着質な血液が羊皮紙の繊維に吸い込まれ、鈍い赤色に変色した。
儀式が始まった。
魔導回路が冷徹に、そして暴力的に励起する。
接続の瞬間、アルトの横隔膜が痙攣し、強制的に肺胞から空気が押し出された。
――熱い。
いや、それは熱ですらなかった。
自分の腹壁の内側で、数千本の熱焼した針が、臓器を一つずつ穿孔していく感覚。
肝臓、脾臓、大腸。
それらが自身の体液の中で、ドロドロとした泥濘に変わっていく物理的な確信があった。
アルトの視界が赤く濁る。眼底の毛細血管が圧力に耐えかねて破裂し、房水が血に染まったのだ。
「声」が出ない。声帯が過剰な神経伝達物質によって麻痺し、喉の奥で虚しい空気の音が鳴るだけだった。
反対に、老貴族の腐った肉からは、みるみるうちに生気が戻っていく。
黒ずんだ皮膚が剥がれ落ち、下から赤ん坊のような、瑞々しくも厚顔な皮膚が再生されていく。
他人の「死」を、自分の健康な組織で希釈する。
アルトの骨盤の中で、大腿骨の頭が音を立てて崩れた。
自重を支えきれなくなった椅子が、彼の肉に深く食い込む。
帰宅。
深夜の廊下を、アルトは四つん這いで進んだ。
もはや二本足で直立するための前庭器官は機能を停止している。
背後には、彼が這った跡に沿って、粘り気のある黒い体液が一条の線を引いていた。
「……にい、さま?」
部屋の隅で待っていたミリーの手から、ランプが落ちた。
ガシャン、と床でガラスが砕ける無機質な音。飛び散った油に火が燃え移り、ゆらゆらと不規則な光が、もはや人間としての輪郭を失いつつあるアルトの背を照らし出す。
ミリーは悲鳴を上げなかった。喉の筋肉が極度の恐怖と悲哀で硬直し、酸素を取り込むことすら忘れたかのように、ただ喘いだ。
彼女は膝をつき、兄が引き摺った黒い体液の跡を厭うこともなく、その崩壊した肉体へ這い寄った。
「嫌……ああ、にいさま、そんな、そんな身体で……」
彼女の指先が、アルトの露出した真皮に触れる。
熱を失いかけ、腐敗の呪いで粘り気を帯びた兄の肌。
アルトの指先が、血と膿に塗れた「金貨への引換証」を、震えながら彼女の足元へ差し出す。
「かね……これで……おまえ、は……」
言葉を紡ぐたび、アルトの肺胞からは泡立った血が溢れ、床を汚した。
ミリーはその紙切れを、まるで呪われた遺物のように震える手で受け取った。
彼女はそれを抱きしめるのではない。兄の、崩れ落ちそうな頬を両手で包み込み、自分の額を、死の臭いが立ち込める彼の額に押し当てた。
「いらない……こんなもの、いらないわ、にいさま……っ」
ミリーの目から溢れた涙が、アルトの剥き出しになった眼輪筋に零れ落ちる。
塩分を含んだ液体の刺激が、露出した末梢神経を鋭く焼き、アルトの身体を小さく跳ねさせた。
その痛みすら、アルトにとっては「他人のものではない」唯一の感覚だった。
ミリーは嗚咽を漏らしながら、兄の欠けた指を自分の胸元に引き寄せる。
兄が自分の人生を切り売りして得た金。そのあまりの重さに、彼女の細い肩は激しく痙攣していた。
アルトの視界は、妹の涙で滲んだ。
最後に網膜に焼き付いたのは、自分を抱いて泣き崩れる、世界で唯一守りたかった少女の、絶望に染まった顔だった。
アルトの意識は、そこで暗い泥濘へと沈没した。




