第二話:蓄積する不協和音
三週間後。アルトの肉体は、見えない瑕疵の集積体と化していた。
早朝。強張った指先を動かすたび、関節の隙間で結晶化した尿酸がこすれるような鈍い抵抗がある。
右腕の裂創は塞がったが、その下にある真皮層は分厚い瘢痕組織に置き換わり、皮膚の伸縮性を奪っていた。腕を伸ばすたびに、引き攣れた組織が末梢神経を圧迫し、指先に細かな痙攣を引き起こす。
「……六十二、六十三」
アルトはベッドの中で、自分の心拍を数える。
不規則な期外収縮。時折、心臓が一度だけ強く跳ね、肺胞を内側から叩く。血液が逆流するような不快な拍動が喉元までせり上がる。
それは、数日前に肩代わりした「肥満貴族の心不全」の余波だった。
その日の受傷室は、獣の臭いがした。
依頼主は、落馬で複雑骨折を起こした衛兵隊の中隊長。
アルトが椅子に固定されると、魔導回路が冷たく脈動を始める。
――衝撃。
物理的な衝突はない。だが、アルトの左大腿骨が、内側から爆ぜるような振動に見舞われた。
骨膜が限界まで引き絞られ、カルシウムの構造体が長軸方向に裂ける。
ミシミシ、という音が髄腔の中で反響した。
大腿四頭筋が異常な収縮を起こし、千切れた骨の先端が肉の深層を突き刺す。
視界が白濁する。網膜に焼き付くのは、無機質な石造りの天井だけだ。
呼吸が止まる。横隔膜が硬直に耐えかね、肺から酸素を強制的に絞り出した。
酸素を失った脳が、生存本能として指先に爪を立てさせる。
鉄の拘束具に食い込む指の関節から、パキパキと気泡が弾ける音がした。
「よし、転送終了。次は内臓の浮腫だ。続けられるな?」
白衣の男が、感情の欠落した声で告げる。
アルトは返事をする代わりに、口腔内に溜まった粘り気のある唾液を飲み込んだ。
味覚が死んでいる。舌の表面にある味蕾が、絶え間ない電気信号の過負荷で麻痺していた。
その夜、家に戻ったアルトの足取りは、幽霊のように頼りなかった。
左脚を引きずるたび、接合されたばかりの骨が摩擦熱を帯びる。
「兄様、スープを」
ミリーが皿を置く。
湯気の中に、微かな腐敗臭をアルトの鼻腔が拾った。
いや、スープは腐っていない。腐っているのは、アルトの腹腔内に転送された、他人の不衛生な「腸炎」の記憶だ。
アルトはスプーンを握ろうとした。
だが、中手骨の震えが止まらない。銀色の金属が皿の縁を叩き、硬質な音を執拗に繰り返す。
「……ミリー。来月の学費、これでもう一年分は足りる」
絞り出した声は、声帯の粘膜が乾ききり、砂を噛むような擦れ方をした。
アルトが無理に作った笑みは、頬の筋肉の不随意な痙攣によって、歪な形に崩れている。
ミリーは答えない。彼女は、兄の震える手の甲に浮かび上がった、どす黒い血腫をじっと見つめていた。
彼女は知っている。
この家を支えているのは、兄の「命」そのものではなく、兄の肉体を削り取って抽出された「金」という名の代償であることを。
ミリーはゆっくりと立ち上がり、兄の震える手を、氷のように冷えた自分の両手でそっと包み込んだ。
彼女の手は、恐怖で血の気が引き、指先が小さく震えていた。
兄の痛みを労わろうと触れるたびに、その皮膚の下で軋む骨の破片や、炎症で異常な熱を帯びた組織の脈動が、彼女の掌に伝播する。
「……っ」
ミリーは息を呑み、溢れそうになる涙をこらえるように、奥歯を強く噛み締めた。咬筋が不自然に盛り上がる。
彼女は、兄の壊れた手首に自分の顔を埋めた。鼻腔を突くのは、安っぽい石鹸の香りを突き抜けてくる、凝固しかけた血と、化膿した組織の混じった、暴力的な死の予感だ。
「……わかったわ、兄様。私は、ちゃんと勉強する。学校へ行くわ」
ミリーの声は、細い糸が今にも断ち切れる寸前のような、危うい均衡の上にあった。
彼女は知っている。自分が「拒絶」すれば、兄のこれまでの地獄がすべて「無意味な損傷」に成り下がることを。
彼女はただ、兄の腕にしがみつき、その崩壊していく生体組織の重みを、自分の記憶に刻みつけることしかできなかった。
アルトが優しく微笑むたび、ミリーの胸の奥では、目に見えない楔が打ち込まれるような、鈍い圧迫感が膨らんでいった。




