第一話:鉄の抱擁と代行の産声
地下二階。濾過しきれない湿気と、古びた鉄錆の臭いが肺胞の奥にまとわりつく。
石畳に刻まれた魔術回路が、微かな燐光を放っていた。中心に据えられたのは、厚い牛革と鉄輪で補強された一本の椅子。
「座れ」
白衣を着た男の短い命令。
少年、アルトは無言で応じた。座面は氷のように冷たい。
手首と足首に拘束鎖が回される。ガチリ、という硬質の音が鼓膜を叩く。肌に触れる金属の質感は、体温を容赦なく奪い去った。
「今回の受傷、右前腕部。深度三ミリ、長さ十五センチの裂創。患者は豪商、アルベール。準備しろ」
部屋の隅、結界の向こうに肥満体の男が横たわっている。その右腕には、鋭利な刃物で叩き切られたような深い傷口があった。
男の荒い呼吸が、沈黙した地下室に不快なリズムを刻む。
魔術回路が明度を増した。
瞬間。
アルトの右腕に、電気的な衝撃が走る。
――真皮が爆ぜた。
感覚受容器が過負荷を起こし、脳中枢へ異常な信号を送りつける。
筋肉が意志に反して収縮し、骨を内側から締め上げる。目に見えない刃が皮膚をなぞるように、肉が左右に割れた。
「痛い」という概念を抱く余裕すら与えない。ただ、物理的な破壊現象がそこにあった。
毛細血管が次々と破裂し、赤い飛沫が石畳に弧を描く。
肉を割く鈍い音。
アルトの歯根が激しく鳴った。奥歯が削れ、鉄錆の味が唾液に混じる。
対照的に、結界の向こうの豪商は、喉から安堵の吐息を漏らした。
彼の右腕の傷が、嘘のように塞がっていく。肉が盛り上がり、皮膚が癒着し、最後には何事もなかったかのような滑らかな肌へと戻った。
アルトの右腕には、今しがたまで豪商を苦しめていた「傷」が、寸分違わず再現されていた。
断面から溢れ出す鮮血。熱を持った血が、腕を伝い、指先から冷たい石畳へと滴り落ちる。
ポツ、ポツ、という湿った音が、静まり返った地下室に響いた。
「転送完了だ。止血して帰れ。報酬は親に渡しておく」
拘束が解かれる。
アルトは麻痺した指先で、用意された包帯を巻いた。止血帯を食い込ませ、神経を麻痺させる。視界が明滅し、焦点が合わない。
壁に手をつき、一歩、一歩、石の階段を上がる。
背後で、魔方陣を洗い流す水の音が聞こえた。
家路につく。
宵闇の冷気が、微熱を帯びた傷口に刺さる。
小さな石造りのアパート。扉を開けると、安っぽいランプの光と、薄いスープの香りが鼻腔を突いた。
「お帰りなさい、兄様」
妹のミリーが椅子に座っていた。
彼女の視線が、不自然に固定されたアルトの右腕に吸い寄せられる。
布越しに滲む赤黒い染み。
鉄錆の臭いを隠しきれない。
「……転んだだけだ。学校の学費、次の納付分は確保した。心配するな」
アルトは短く吐き捨て、奥の寝床へ向かう。
ミリーは何も言わなかった。ただ、兄の背中を、感情を排した冷めた眼で見つめていた。
彼女は知っている。兄が洗面所に投げ捨てたシャツに、自分のものとは違う、老いた男の脂臭い血が混じっていることを。
兄の肉体が、少しずつ「他人の苦痛」で埋め尽くされていく。
その崩壊の足音を、彼女は毎晩、隣のベッドで数えていた。




