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タマと赤いきつね  作者: 紫藤しと


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8/12

8.先生の歌

 朝起きて姐さまと朝食を作っていると、先生がニコニコ顔で台所に顔を出しました。

「あったよ、ほら。夜中さがしてなかったのに朝目が覚めるとすぐ横にあったんだ。」

「よかったね。」

 姐さまが冷たい声で返事をしました。私はひょっとしたら見つけたのは姐さまではないかと思いました。口には出しませんけれども。

 先生はよっぽど嬉しいらしく鼻歌をうたいながら私たちの後ろに座って本を読み始めました。

「…なんという歌ですか?」

 少し手が空いたので私は先生に尋ねました。

「歌?…あぁ、これね。昔友人が酔っぱらうと歌っていたんだ。本当はドイツの歌なんだけど、集まった奴らで即興で歌詞をつけるのが流行ったんだ。…うん、もう何十年も前の学生の頃の話だよ。懐かしいな。この歌はね、喜びの歌なんだ。」

「はいはい、センセの話は長いんだよ。卓袱台用意して。もうできるから。」

 姐さまはそう言ってセンセを台所から追い払いました。確かに姐さまは女中や使用人ではないようです。だって先生に対して高圧的過ぎますもの。

 この日の朝食は干物と味噌汁と白米と漬物でした。味噌汁は姐さまにお願いして作らせてもらいました。味噌は前の家と感じが違いましたが概ね美味しく作れたのではないかと思います。姐さまは一口飲んで「ふーん」と言い、先生は無言で頷きました。それだけで舞い上がるように嬉しかったです。

 食事の後片付けをしていると、二階から外套を着た先生が降りて来られました。お見送りしようと玄関にでましたら、先生は上がり口に腰を掛けたままこう言いました。

「さっきの歌の話ありがとう。おかげで忘れかけていた古い友人を思い出したよ。」

「とんでもありません。お役に立ててよかったです。」

「あの歌が好きだった奴はね、人一倍明るくて学問に情熱的な奴だった。流行り病で若くして死んでしまったが…僕は、あの情熱を受け継ぐと決めたんだった。」

 独り言のような先生の言葉に、私はなんと返していいのかわかりませんでした。

「では行ってくるよ。しばらく留守が多くなるかもしれないがよろしく頼む。」

「はい!」

 頼まれたことが嬉しくて、大きな声で返事をすると先生は少し笑って出ていかれました。

「な?あのセンセは学問の事しか頭にないんだよ。」

 振り返ると姐さまが呆れた顔で立っていました。

「ご立派なことだと思います。」

「人間は本を食べて生きられないのにさ。短い寿命で生き急いでどうするってんだい。」

 姐さまはなにやら怒りながら中に戻って行きました。どうして姐さまが怒っているのでしょう。

 食事の後片付けが済んだので掃除に取り掛かろうとすると、姐さまは買い物に行こうと言いました。

「掃除なんてつまらんよ。センセはそれなりの金を置いてったから二人でパァッと使おうよ。」

 先生のお金を散財するのは如何なものかと思いましたが、外出は楽しそうです。なにせ私はここがどういう町なのか全く知りませんので。

 身支度を整え外に出ようとすると姐さまは渋い顔をしました。薄着過ぎると言うのです。

「外套は今日買うにしても、それまでに風邪ひいちまうねぇ…そうだ、二階にショールがあったね。」

 姐さまはそう呟くと階段を上がって行きました。後ろをついていくと姐さまは箪笥の中から大きな布を取り出しました。その布を体に巻かれた時、なんとも言えない心地がしました。この長い間しまい込まれていたようなショールは、きっと、姐さまのものではありません。

「まぁ、物に罪はないからね。」

 姐さまはそう言うと私の頭を軽く撫ぜました。

 楽しみにしていた道中を、私は足元ばかりを見て進みました。大きなショールは大きな分ずれ落ちやすくて、私はそれの端を握りしめながら歩きました。

「…あたしも聞いた話だけどさ、センセは貧しい武家の生まれらしいよ。どうしても勉学をしたかったけど家にお金がなくて、あの家に一人で住んでた先生の先生の養子に入ったんだってさ。それで大人になって見合いして嫁をもらって、三人で暮らしていた時期があったんだと。でもセンセの先生が亡くなってしばらくすると嫁が消えたんだって。ここいらの口の悪いのは好き勝手理由を詮索してたけど…まぁ、逃げられたってのは事実みたいだよ。で、そのショールはその嫁が置いてったやつだ。」

 私は黙って頷きました。声を出すと涙も出そうだったので。

「まぁそんな感じだからさ、あたしはここいらじゃ先生の嫁ってことになってんだ。否定するのもセンセが気の毒な気がしてね。あんたも適当に合わせておくれ。」

「…姐さまではなく、奥様と呼んだ方がいいでしょうか。」

「いや親戚の子を引き取ったのには違いないから…あたしが義母になるのか。母さんとか呼んでみるかい?」

 私は本気かと尋ねるつもりで背の高い姐さまを見上げました。姐さまは遥かな頭上から私を見下ろしました。

「…良きように配慮致します。」

「聡い子で助かるよ。」

 それからは他愛もない話をしながら道を歩きました。鼻先の冷たさに雪の気配を感じました。



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