3.先生の魔法
玄関には大柄な男の人が立っていました。姐さまと同じぐらい大きな背丈、恰幅も良く顔には無精髭がたくさん生えていました。
「戸締りなんかしたことなかったのにどうしたんだい?」
「子供がいるんだから戸締りぐらいするだろ。」
姐さまがぶらっきぼうにそう仰ると、隠れて見ていた私と先生の目が合いました。私はゆっくりと進み出て平伏し、先生にご挨拶申し上げました。
「このような格好で申し訳ございません。この度は先生の広い御心で私めを拾い上げていただいたこと、心より御礼申し上げます。」
「…七歳だって聞いてたけど、ずいぶんしっかりした物言いだねぇ。」
「しっかりどころの騒ぎじゃないよ。中身はきっとばあさんだね。」
先生は私の方へかがむと優しい声で言いました。
「まあまあ、そんな冷たい所に座らなくて大丈夫だよ。このキツネを見習いなさい。女中ってことになってるがどっちが主人だかわからないんだから。」
先生はそう言って私の脇に手を差し込み、そっと立たせてくれました。とても温和な笑顔でしたが、少しの酒臭さが私を怯えさせました。ご主人様が私を殴るのは、いつもお酒を飲んでらしている時だったので。
「酒飲んできたのかい?」
姐さまはそう言って先生の鞄を持つと部屋の中へと向かいました。
「付き合いでね。飯も食ってきたから要らないよ。」
「急に帰ってきて飯なんかあるわけないだろ。カメも寒いんだから早く中入んな。」
姐さまの声に促され私も急いで部屋に入り障子を閉めました。
「カメ?カメっていうのは君のことかい?」
先生は上着を脱ぐと胡座をかいて私を見上げそう言いました。私は急いで先生の前に正座しました。
「はい。以前のお家ではそう呼ばれておりました。」
「あの家ね…」
先生は少し困ったように顎を撫でてこう仰いました。
「僕が君のお母さんから聞いた名はそんなんじゃなかった。だが君はずいぶんとしっかりしているようだし、なんと名乗るかは自分で決めてもいいかもしれないね。君は、なんと呼ばれたい?」
「…私の、本当の名前をご存知なのですか?」
「君が生まれた時君のお母さんがつけた名前なら知っているよ。私と君のお母さんは長い間手紙のやり取りをしていたからね。なんなら君が生まれる前のことも教えてあげよう。君のお母さんはね、福の神なんて呼ばれて人気者だったんだよ。」
先生が話す言葉を聞いていると自然と涙が溢れてきました。これまで、母さまのことをこんな風に笑顔で話してくれる人はいなかった。みんな、おたふくそっくりな顔を、笑いものにするだけだったから。
「なに泣かしてんのさ。」
私が何も言えずにいると、姐さまがお盆を片手に部屋に入ってきました。そして先生にお猪口を渡すとアチチと言いながら酒を注ぎました。
「なんだずいぶん用意がいいな。」
「これはあたしが一人で飲む予定だったんだよ。あんたは白湯だ。飲みな。」
姐さまは私の前にとんと湯呑を置きました。それはとてもあたたかくて私はまた泣きそうになりました。
「よく泣く子だねぇ…」
姐さまが手酌で飲んでいるのを見て私は慌ててとっくりを手に取りましたが、すぐに姐さまに取り上げられました。
「あたしは手酌が好きなんだよ。そんなことはどうでもいいから続きを話な。あんた、カメじゃなかったのかい?」
私は大きく息を吸って頷きました。少し怖いけれど、温かい湯呑が力を添えてくれました。
「わ、私は、私の名前はタマです。母さまはそう、よ、呼んでくれました。」
泣かずに話したいのに勝手に涙が溢れて上手く話せません。
「でも、あのお家では、母はおたふく、私のことはカメと呼ばれて、い、ました。顔が、似てたから。」
喉の奥がキュッと締まって鼻水も出てきました。姐さまが手ぬぐいを渡してくれました。
「せ、先生は、遠縁の方だとお聞きしました。過ぎたる願いとは存じておりますが、私を、どうかここへ置いていただけないでしょうか。私は、もう、母さまを悪く言われることに耐えられないのです。」
ああ、初対面の方にするお願いではないことはわかっています。それでも願わずにはいられなかった。私は何を言われてもいいのです。でも、母さまの悪口はイヤです。もう本当に、聞きたくないのです。
私がしくしく泣く間、二人は黙っておられました。私は頭の片隅だけへんに冷静で、これで断られたらあの家に戻る心づもりをしておりました。本当は罵られても蹴られても仕方ないことはわかっています。私はのろまなカメですから。母さまの悪口だって聞き流せばいいのです。いつかはみんな忘れてくれるでしょう。だってもう母さまはいないのですから。私だけ覚えていればいいのです。
「…うん。君のお母さんの話をしようか。名前はふくと言ってね、とても可愛らしい子だった。小説が好きでね、よくこっそり隠れて読んでいたようだ。私と文をやり取りするようになったのも何かの本を呼んで文通に憧れたかららしい。他愛もない日常の話ばかりだったが、僕はそれを読むのが好きだったよ。」
私が知らない母さまの話。そうか、母さまにも少女の頃があったのか。
「最初は子供っぽい字だったが徐々に字が大人びていって、そして嫁入り先が決まったと書いて寄越した。慌てて祝に駆けつけたよ。嫁入り先は遠いとも書いてあったからね。…とても幸せそうだったよ。相手は遠くから何度も熱心に通って両親を口説き落としたらしい。親もそこまで言うならってねぇ…今考えれば、お互いの商売が上手く言ってたからこその勘違いだったんだろうね。あの娘は福の神なんかじゃなくて、普通の女の子だったのに。」
先生はそこで大きなため息をつきました。「亡くなられたこと、残念だったね。」
私はまた目にじわりと涙が滲みましたが、慌てて振り払いました。
「ありがとう、ございます。先生のような方が親戚にいたとは存じ上げませんでした。」
「嫁にいってからも手紙を書くと言ってくれたのに、一向に届かなかったんだ。それで両親に見に行ってもらって…両親が亡くなってからは手紙と一緒にお金を送る代わりに、絶対に返事をくれるようにって書いて送ってたんだよ。…そうしておいて良かった。死に目には会えなかったが、君が酷いことになる前に引き取れたからね。」
胸の奥がざわりとして急に苦しくなりました。確かに私は救われたのかもしれません。ならばなぜ、母さまは救ってくださらなかったのでしょう。
胸を押さえて黙り込んだ私を、姐さまは鼻で笑いました。
「…自分じゃなにもできなかったくせに、他人を責めるのはお門違いだよ。」
心を見透かされたような言葉に私は真っ赤になりました。確かに、母さまを救えなかったのは私の力不足てした。
「申し訳、ございません。」
「米つきバッタみたいによく謝る子だよ。まったく。」
姐さまはそう言うとお盆を手に部屋を出ていきました。
「タマ」
優しい声に顔を上げると先生は微笑んで言いました。
「ふくはね、君が玉のように可愛らしいからタマと名付けたと言っていたよ。ギョクかジュかどちらの漢字にしようか迷っていた。今度見せてあけようね。どちらの字も宝物という意味なんだよ。」
また鼻の奥がツンとしてきましたが、私は唇を噛み締めて我慢しました。もう泣きません。泣いて人を責めるだけなんて、そんな酷い子には私はなりません。
それでも鼻水は止まらなくて啜っていると、先生は私の近くへにじり寄りポンと肩を叩きました。
「色々あっただろうが僕から言えることは一つだけだ。これからは僕が君の保護者となる。君は好きなだけこの家にいればいい。君はまだ七歳でおまけに怪我人だ。寝て遊んで暮らせばいいさ。冬の間はゆっくりと体を休めて春から学校に通うといい。この辺りはね君の故郷と違って春が来るのが早いんだ。そうそう、少し歩くけど近くに大きな川があってね、川べりにずらっと桜が植えてあるんだ。満開になるとそりゃあ見事なもんだよ。みんな朝から呑んで歌って踊って大騒ぎさ。咲いたら行こうね。キツネと三人で弁当でも持って…その頃には、君の傷はすっかり癒えてるだろうさ。」
近くで見る先生の目はキラキラしてとても綺麗でした。私が先生を好きになったのはきっとこの時です。私は先生が話す満開の桜の幻にすっかりと虜になってしまったのです。
「先生」
「…うん。その先生というのはキツネの真似かい?おじさんと呼んでくれても構わないのだけれど。」
「先生、私一所懸命働きます。だから私をお嫁さんにして下さい。」
先生は驚いた顔でゆっくりと仰け反りました。
「いやそれはちょっと…僕はもう五十で、君は孫の歳だよ。それに書類上では養父と養子としてもう届出したんだ。勝手に話を進めて悪いが僕はこの手のことはきっちりやりたい質なのてね。ええと、つまりだね。」
オロオロと狼狽える先生はなんだか可愛らしくて笑ってしまいました。
「参ったな…君、本当に十歳ほど鯖読んでるんじゃないの?」
「私が十七歳だったらすぐお嫁さんにしてくれますか?」
「いやー…どうだろう。未来ある娘さんがわざわざこんな老い先短い男に嫁ぐことはないよ。ちゃんとした男を探してあげるから。」
「私は先生がいいのです。」
コホン
わざとらしい咳払いの後、障子が開いて姐さまが立っていました。
「おかわり持ってきたよ。さあさ、これからは大人の時間だ。子供はもう寝な。」
追い払わられるように部屋を出る時、最後に先生と目が合いました。私はにっこり笑ってから障子を閉めました。母さまが死んでから初めて笑った気がします。
母さま、私はもう泣きません。だって先生に出会えたんですもの。




