非論理の拳と、究極の執務
北の大地での修行を終えたグリムが戻った数日後、シエルは重い足取りでマスターの喫茶店に姿を現した。
グリムは、カウンターの席に座る俺を一目見た瞬間、全てを演算したかのように表情を硬くした。彼の瞳には、いつもの憎たらしさではなく、張り詰めた緊張が宿っていた。
「おい、裏の執事。お前の顔は、『安息の数式』が重大なエラーを起こしていると告げているぞ。何があった?」
俺は、コーヒーカップを静かにテーブルに置いた。その音は、喫茶店の静けさの中で不自然に響いた。俺は、賢者の森で古老から受けた提言と、七賢者の秘宝の喪失、そして勇者一族の短命の呪いの真実を、ありのままに話した。
「つまり、精霊と再契約することで、絶大な力を得られる。だが、その代償は短命の呪いの完全な復活だ」
グリムは、椅子から立ち上がった。彼の背後から、ポーションの化学的な匂いではなく、怒りの非論理的な熱量が立ち上るのが感じられた。
怒号と非論理の拳
「……そして、もし俺が再契約を選んだ場合、生存期間が保証できない。だから、何かあった際は、アリア様のことを頼むと、お前に告げようとしていた」
その言葉が口をついた瞬間、グリムは爆発した。
「ふざけんじゃねえよ!」
グリムはカウンターを飛び越え、俺の胸ぐらを掴み上げた。その手には、鍛え抜かれた弓兵の力が漲っていた。
「オメェのやってることは、ホムンクルス共のやってることと大差ねえんだよ!」グリムの瞳は、怒りで燃えていた。「世界の破壊じゃねえ、自己破壊だ! 自分の命を粗末にする奴は、大切な奴を守ることすら出来ねぇ!」
「だから俺に丸投げだと? ふざけんなクソ野郎!」
グリムは怒鳴りつけると、そのまま俺の頬を思い切りぶん殴った。鋭い痛みが走り、俺の演算回路が一瞬停止する。
最後の数式と冷徹な現実
「グリム! やめなさい!」
奥から現れたマスターが、すぐにグリムの腕を掴み、私たち二人の間に割って入った。
マスターは、殴られた俺を心配そうに見るが、その視線はすぐに俺に向けられた。
「シエル、貴方も答えを出すのは早いんじゃないか? 短命の呪いと引き換えに得た力で、貴方の命がいつ尽きるという演算は出ていない」
俺は、痛む頬を押さえながら、冷徹な現実をマスターに突きつけた。
「いいえ、マスター。何かあったら遅いのです」
俺は静かに、しかし、決意を込めて告げた。
「現に今、短命の呪いの呪縛から解放され、この世に生存している勇者の末裔は、片手の指で数える程度でしかない。これは、祖先たちの生存戦略が破綻しているという数理的な現実です。俺が再契約を選ばず、ビアスが七賢者の秘宝を集め切れば、その数すらゼロになる。俺には、安息を維持するという最後の執務を放棄する選択肢はない」
俺は、自身の命と世界の安息という二つの数式を天秤にかけ、非論理的なグリムの感情とは無関係に、最も効率的な解答を選ぼうとしていた。




