裏の執務と、喫茶店の弟子
1. 覚悟の確認と修行着
約束の日、グリムは緊張した面持ちで王都の裏通りにある喫茶店の扉を開けた。カウンターの奥では、マスター(シエルの母)が背中を向け、静かにグラスを布で拭いていた。
「……来たからには、簡単に安息の場所へ戻れると思わないことですよ」
マスターは振り返らず、厳格な声で釘を刺してきた。その声は、優しげな喫茶店のマスターではなく、一族の秘密を守る勇者の母のものだった。
「そんなの言われる前から分かってる!」グリムは即座に言い返した。彼の瞳には、シエルに勝つための強い覚悟が宿っていた。
マスターは、初めてグリムの方に向き直ると、静かに一つの包みを差し出した。
「その格好では動きにくいでしょう。まずはこれに着替えてください」
包みの中には、勇者の里に伝わる弓道着と、弓を引くための**ゆかけ(手袋)**が入っていた。
「そして、こちらが修行道具です」
マスターが渡したのは、金属製のシンプルな腕輪だった。「これは、勇者の一族の修行道具の一つで、弓矢にのみ変形します。この腕輪は、勇者の力を一般の魔力回路を持つ者でも利用できる優れ物。ただし、主人として認められたら弓に変形しますが、それまでは里に伝わるこの弓道着とゆかけを着て、魔力を込める動作を体で覚えない限り、グリム様にはその力を扱うことはできません」
グリムは、シエルの最小消費の技術に繋がるかもしれない**「特別な武器」**を前に、興奮を隠せなかった。
2. 山での挫折と三つの欠点
マスターは、グリムを人里離れた王都の郊外にある秘密の山へと連れ出した。そこには、修行用の単純な木製の的が設置されていた。
グリムは、早速腕輪に魔力を注ぎ、弓道着を着て的を狙った。しかし、グリムが放った矢は、的を大きく外れたばかりか、途中で魔力の制御を失い、光の粉になって消えていった。
グリムが何度試しても同じ結果に終わる中、マスターは静かに弓道着を纏い、腕輪を装着した。マスターの腕輪は、即座に美しい黄金の弓へと変形した。
ヒュン、ヒュン、ヒュン……。
マスターが放った矢は、一本たりとも外れることなく、的に全て真ん中に突き刺さった。
「馬鹿な……!」グリムは、目の前の圧倒的な実力差に愕然とした。
マスターは、冷めた視線でグリムを振り返り、数理的な指摘を行った。
「シエル様に勝つための覚悟はあるようですが、肝心の技術の数式が圧倒的に不足しています。貴方には、魔力を扱う技術と身体的な体力、そして細かい調整をする集中力が圧倒的に足りていません。特に、心(感情)の揺らぎが、矢を非論理的に破壊している。これでは、シエル様の最小限の演算には遠く及びません」
3. 喫茶店の裏の執務
グリムの甘い覚悟は、初日で完全に粉砕された。マスターは、腕輪を元の状態に戻すと、新たな修行の提案を突きつけた。
「いいですか、グリム様。貴方の基礎的な欠陥を補うには、生活そのものから変えなければならない。今日から、貴方はこの喫茶店で働くことで修行とします」
「はぁ!?喫茶店で!?」グリムは声を荒げた。「なぜ、王都の軍事アカデミーでもトップの俺が、こんなところで!?」
マスターは、有無を言わせぬ冷徹な目でグリムを見据えた。
「帰ってくれても構いませんよ。その程度の覚悟であれば、シエル様にも永遠に勝てないでしょう。シエル様が完璧な執事を完璧な修行としてこなしてきたように、貴方にも裏の執務として完璧な基礎を学んでもらう。魔力の消費と無駄のない動き、そして顧客の非論理的な要求に完璧に対応する精神力をね」
グリムは、帰るという選択肢がシエルへの敗北を意味することを知っていた。彼は、怒りと屈辱に顔を歪ませながらも、渋々と受け入れた。
「……わかった。やってやる!その裏の執務とやらを!」
こうして、グリムはシエルの母が営む喫茶店でバイトとして雇われることになり、シエルの知らない「最小限の演算」を体得するための非論理的な修行が始まったのだった。




