動き出す矢印
翌日の昼休み。美音に一言断りを入れてから彼に声をかけた。特に嫌がられたり拒否されることはなく、後ろに付いて学食まで大人しく案内されてくれている。だがしかし。
「学校はどう? なんかわからないこととかない?」
「……」
──やっぱりなんっにも喋らないじゃんこの人!
話しかけてはみるものの、やはり無言を貫かれており何も返ってこない。私が立ち止まれば立ち止まって、進んだら同じ速度で付いてきて、一定の距離感を保たれている。これじゃまるでRPGでマップ移動中、黙って付いてくるパーティメンバーだ。こんな距離感で人と歩くことなんてないから変な感じがする。振り返っても真顔。ビクともしない。怖いとかの以前に、何を考えているのかわからない人という判定にすらなりつつある。周りからも妙な視線を感ているのは、多分昨日のことがあって彼はすっかり有名人になってしまっているからだろう。いつもこんな感じとなると大変だろうなと思う。早く噂が収まってくれればいいのだが。
沈黙が辛く、また次の話題を考え始める。いっそ何故黙ったままなのか尋ねてみようと思い立った。
「椿紅くんてさ、割と静かだよね。もしかしてこうやって話しかけられるの嫌だったりする?」
「……」
──やっぱりダメかー
不快ならばやめようというのは本音だったのだが、それさえ答えてくれないらしい。この作戦も駄目かと溜息を吐きかけたとき、昨日放課後に聞いた声が喧騒に紛れて聞こえた気がした。
「……それ」
「え?」
振り返ると、不機嫌そうな目で睨まれている。やはり気に触ることを言ったのだろうか。それ、というのが具体的にどれなのかわからず私は首を傾げた。
「そのオドオドしてるやつ。腹立つ」
「オドオド……」
「俺がなんかしたみたいじゃねーかよ」
──なんかはしたと思いますけどね!?
どうやら私の態度が気に入らなかったらしい。なんかしたかしてないかで言ったら、睨まれてるし舌打ちされたし、殴っているところも見たしまあまあ何かしていると思うが、彼にはその自覚がないようだ。けれど私の態度は確かによくなかったと思う。これじゃまるで腫れ物扱いしているみたいだ。
「ごめんね。人見知りで……つい……」
「だったら話しかけてくんなよ」
「ご、ごもっともです……」
自分でも随分矛盾した言動だとは思う。それでも仲良くなりたいという気持ちが勝ったのだ。立ち止まると彼も立ち止まり、やはりRPGのパーティーの距離感は保たれたままだった。
「でも、椿紅くんと仲良くなりたかったんだよね、私」
「……なんで」
「なんでか……うーん……」
意外にも返事が来て会話が続く。今回は衝動的な部分も多かったから、あのときのことについて改めて考えた。椿紅くんは急かすことはせずに黙って私の返答を待っている。彼の言うオドオドした態度というやつを隠していれば、イライラしたオーラは出されなくなった。まだ怖さはあるけれど、彼のためなら頑張って隠そう。そう。あのときもそうだった。もちろん仲良くなりたいのもあったけれど、自分が話しかけるべきだと思ったんだ。
「もし椿紅くんが何かに困ったときに、頼れるきっかけがあればいいなって思って。席隣になったんだから、その役目は私が担うべきかなと」
「……大層お優しいんだな」
「それ多分褒めてないよね?」
「一応バカじゃないみたいで安心した」
皮肉めいた褒め言葉はやはり聞き間違えではなかったようだ。冗談が通じたことでにやりと笑った顔は初めて見るもので、多分この学校では私しか知らないものなのだと思う。それが何故だか嬉しくて、優越感のようなふわふわとした感覚を得る。脈が少し早くなったのがわかった。恥ずかしい気持ちになってきて、それらを打ち消すように突っ込みを入れる。
「失礼だな!? それに翡翠先生からも頼まれてたから。仲良くしてやってくれって」
「慧……あっ」
「けい……?」
今の流れで、けい、という字列から想像できるのは、翡翠慧悟先生しかない。聞き返してみたのだが、はぐらかされてしまう。
「何でもねえ。てかさっさと学食連れてけ。食う時間なくなる」
「あ、ごめんね。ちょっと急ぎます」
「おーい!」
歩き出そうとすると、進行方向からよく知った声が聞こえてくる。大きく手を振りながら近付いてくるのは叶冬だ。叶冬は私の目の前に来ると足を止める。少し息が切れているようだった。
「今から学食だろ? 俺も一緒に行くぜ」
「あれ? バスケ部の助っ人は?」
叶冬はよくバスケ部の助っ人に呼ばれている。今日の昼休みもその予定のはずだった。
叶冬は親指をグッと立てて肘を曲げ、後方の体育館の方向を指す。
「断ってきた! あくまで助っ人だしな! ほら、行こうぜ。椿紅も」
「……」
私の後ろにいる椿紅くんの方を覗き込んで言う。話しかけられた張本人はまた黙ってしまった。デフォルトに戻ってしまったと言えばいいだろうか。
歩き出すと叶冬は、このなんとも言えない空気を特に気に留めることもなく話題を振ってきた。
「次のホームルーム、いよいよ宿泊研修の班決めだな」
「だね。学級委員長に聞いたんだけど、グループ、くじで決めるらしいよ」
そこまで話すと、叶冬は後ろに振り返って椿紅くんにも話を振る。
「椿紅は宿泊研修の内容聞いたか?」
「……」
「なんだよ〜。やっぱりだんまりか?」
叶冬が一歩後ろに下がって椿紅くんに肩を組みにいく。私も歩くスピードを落として横について、私、叶冬、椿紅くんの順で横並びになった。彼は無表情のままボソリと呟く。
「聞いてない」
「そうだよな。毎年大体山登りがあってさ、結構キツイらしいんだよなあ。椿紅は体力ある方?」
「……」
「って、また黙るのかよ!」
雰囲気からして答える気がなさそうだ。叶冬は冗談めかして返す。
「どんだけ省エネなんだよ。はいかいいえくらい言えるだろ?」
「うるさい」
「おっ、その調子その調子。じゃあもっかい! 体力ある方? ない方?」
「……」
「無視かよ!?」
組んでいた肩を解いて、両手を開き嘘だろといったポーズを取った。椿紅くんはどこ吹く風といった感じでスタスタと歩いている。試しに私も質問することにした。
「椿紅くんはどこか部活に入る予定はあるの? 運動得意そうだけど」
あのときの感じからして運動神経はよさそうだ。彼はこちらと目を合わせることはなく、前を向いたまま答える。
「ない。……あんまり人と関わりたくねえ」
「そっか。まあ、人それぞれだよね」
「なんだよなんだよ! 恋の質問には答えるのかよ!」
「たまたまだよ、たまたま」
声を上げる叶冬を宥める。椿紅くんは少々気まぐれなところがあるのかもしれない。答えてくれたのはラッキーだと思っておこう。
昼休みを終え、予定通りホームルームが行われた。宿泊研修用の簡単なしおりが配られ、大体の流れを説明される。その後班を決めることになった。
「それじゃあ班決めのくじ引きをします。男子は出席番号の早い方から、女子は遅い方から引きにきてください」
学級委員長の指示に従ってみんなが順に席を立っていく。男女それぞれの学級委員長が持っているカゴの中から、四つ折りにされた白い紙を選ぶ方式だ。私は番号が後ろの方なので、比較的早くくじを手に取る。先に戻ってみんなが引き終わるのを待った。
「それじゃあ番号を見てくださーい。そのあとは班ごとに集まってください」
開封の合図と共に紙を開いていく。私の班の番号は五番。番号的には一番最後の班で、確か男子が四人、女子が二人構成の班だ。
美音が真っ先にこちらに向かってくる。
「れんれん! 番号何!?」
「五番だったよ」
私が聞き返す前に食い付いてくる。目をキラキラと輝かせ、テンションマックスといった様子だった。
「え! 五番!? ウソ同じじゃん!?」
「ほんと!? やったー!」
ふと、隣で席から動く様子のない椿紅くんの存在が目に留まる。席に近付いて声をかけた。
「椿紅くんは何班?」
「……ん」
番号が見えるように紙がこちらに向けられる。そこに書いてあったのは、同じく五という数字だった。
「椿紅くんも同じ? 嬉しいな」
「俺も同じだぜ!」
「わっ。叶冬も!?」
後ろから肩を組まれて吃驚して声を上げる。眼前には叶冬のくじの紙が差し出されており、同じ番号であることを示された。
「叶冬も一緒なのすごく嬉しい! 一緒に楽しもうね!」
「おう!」
首を捻って見上げながら言うと、叶冬が破顔して頷いてくれる。こんな奇跡ってあっていいのだろうか。私が今望む最高の班だと言っても過言ではないメンバーだ。
残り二人は誰だろうと思い辺りを見回す。すると男子二人がこっちに近付いてきていた。そのうちの一人の顔を見てハッとする。そのうちの一人が、美音の元彼の虎沢くんだったのだ。
「あっ……」
「どうした? 恋」
異変に気が付いたのか、叶冬から尋ねられる。耳打ちをしようと思って背伸びをすると、向こうから少し屈んでくれた。周りには聞こえないような小さな声で囁く。
「残りのメンバーのうちの一人が美音の元彼で……」
「どっち?」
「虎沢くんの方。別れてからも結構しつこくされてるらしくて、ちょっと……」
「そういうことな……」
私に聞こえる程度の声で返事をして、横目で虎沢くんの姿を確認する。叶冬は元の姿勢に戻り、私と同じく彼と美音の二人を視界に映した。二人は隣り合って立っているものの、絶妙な距離を空けている。虎沢くんに至っては、ちらちらと美音の方を見ているようだ。
学級委員長が新たな指示を出し、机をくっつけて班のメンバーで固まって座ることになった。そこから班長や係を決めて、それからレクリエーションという名の自由時間に何をするかも決める。私たちはレクリエーションではトランプをして時間を潰すつもりだ。それらの計画や役割分担をプリントに書き、教卓に提出する。これらのプリントは全クラス分私と叶冬も後で確認するもの。今日の放課後に早速取り掛かることになるだろう。すべての班が提出し終わり、委員長と翡翠先生の簡単な確認を経て、話し合いは無事終わりとなった。
それから約一週間後。私たちはバスに乗って宿泊施設へと向かっていた。バスの席も班ごとに座る形だ。女子は女子、男子は男子で座ろうということになり、私と美音が隣に、叶冬は椿紅くんと座っている。縦に三列並ぶ形で座っていて、女子が一番先頭、二番目が叶冬たちだから美音と虎沢くんの接触は避けられていた。美音は気にしていないというように気丈に振る舞っているが、実際は不安な気持ちもあると思う。この研修中は私と叶冬で、出来るだけ二人が関わらないように気を配るつもりだ。
向こうについて、持参のお弁当を食べた後、班でレクリエーションを行った。
「んー……どっちだ……」
「……」
何回目かのババ抜きで私と椿紅くんが残ってしまい、じーっと睨み合いをしている。残った二枚のカードを交互に掴んでみるものの、椿紅くんの表情筋はピクりともしない。これでは埒があかないから、ええいままよと向かって左側のカードを引き抜いた。
「じゃあこっち! ……わああ! ババじゃん!?」
「ヘッ。弱」
「椿紅くんが全く顔に出さないからでしょ!?」
馬鹿にしたように笑われて、反射的に噛み付く。すると呆れたように溜息を吐かれた。
「はー。それを読むのがババ抜きだろ」
「くうー! もう一回やろ! もう一回!」
「どうせお前の負けだけどな」
「なにをー!」
「じゃあカード繰るよ〜」
トランプをやるなんて久しぶりで、随分盛り上がったものだ。負けてばっかりだったけれど。
レクリエーションの後は炊事棟でバームクーヘンを作る。生地を温めた竹に回しながら掛けて、それを釜戸で焼く。火が通ったらまた生地を掛けて、焼いて。それの繰り返しだ。班の中で二手に分かれて作ることになり、チーム分けは私、美音、叶冬の三人と、残りの男子三人だ。私よりも几帳面な叶冬は、生地を均等になるように竹に掛けていく。焼くときも、普段家で自炊をするから慣れているのか、いい感じの焦げ目が付くようにアドバイスをくれた。
「こう?」
「そうそう。いい感じ」
「これ終わったら美音に渡すね」
「うん。ありがとう」
回すスピードが速すぎないよう注意してくれたり、焚き火の強さの調整をしてくれたりした。出来る人がそばにいるとその人がどのくらいすごいのかわからなくなりそうなところだが、隣の釜戸を見れば差は歴然だった。男子三人、主に椿紅くん以外の二人がメインで作っているらしく、焦げた焦げたと騒いでいる。
「うわー! 真っ黒じゃねえかよ! お前が火強くしすぎるからだろ!?」
「なんだよ。火が弱いって言ったのそっちじゃねーかよ」
「……」
──さっきから椿紅くん、何もさせてもらえてない気がする……。
椿紅くんがちゃんと混ざれていないのが気になるけれど、班を分けてしまったので口を出しにくい。本人はバームクーヘン作りにはあまり興味がなさそうだ。でもこのまま終わってしまうのはよくないと思い声をかける。
「椿紅くん、よかったら次の私の番のときやらない?」
「……なんで」
「一回もやってないでしょ? せっかく来たんだから、やろ?」
「……」
「恋、次恋の番だぞ」
「了解! ほら、こっち!」
「……はあ……」
気怠げそうに溜息を吐きながらこちらの釜戸の方へ付いてきてくれる。しかし、やってくれそうだと喜んでいたものの、未完成のバームクーヘンを前に竹を掴もうとする様子が全くない。これでは生地も垂れてしまうし、出来が悪くなってしまう。思い切って椿紅くんの手を掴み、竹を掴ませた。結果的に二人で一緒に持つような形になる。
「お、おい」
「だって、椿紅くんなかなかやってくれないから」
椿紅くんの手は冷たい。ずっと火の近くにいる私とは違って、冷えていた。普通よりも冷たい気がするから、もしかすると冷え性なのかもしれない。
「お熱いねえ、二人ともっ」
「だからそういうのじゃないって!」
竹を回しながら、変に揶揄ってくる美音に返す。ひゅーひゅーと男子高校生のような揶揄をしてくるので、もう無視を決めることにした。面白くなくなったのかそれ以上は言ってこなかったけれど、ニコニコとした視線を向けられていて集中できない。回すスピードはこれで大丈夫だろうか。
火が強くなってきた気がする。さっきまでならそうなる前に叶冬が教えてくれていたはずだ。どうしたのだろうと思い振り向いて尋ねる。
「叶冬、火強くない? 気のせい?」
「……ああ……ごめん。ちょっとぼーっとしてた。今から調整する」
叶冬は我に返ったように言う。硬い表情からして体調が悪いのかもしれないと心配になった。
「大丈夫? 体調悪かったら言ってね」
「おう。ありがとう」
叶冬が横から腕を伸ばし団扇で仰ぐ。無事調整をしてくれたおかげで、焦げかけたところが狭い箇所で収まった。
その後叶冬は男子たちの方の火加減の手伝いもし始めた。もし今回のバームクーヘン作りのMVPを決めるなら、満場一致で叶冬に決定だろう。焦げた焦げたと騒いでいたけれど、無事にいい感じのものが完成したようだ。
焼き終えたら、竹からバームクーヘンを外す。ボコボコとした少し歪な筒を叶冬が包丁で切っていく。まな板に包丁の刃が当たる音がする。切り口を見えるように動かしてくれて、あのよく見る穴の空いた形が露わになった。
「おおー!」
「お〜!」
みんなで感嘆の声を上げる。意外と作業に時間がかかったし、集中力を使ったのもあり、疲労感も伴ってより大きな感動を得る。人数分に等分して、この後みんなで食べる予定だ。
おやつを食べた後は暫く勉強の時間だ。お腹もいっぱいになって眠いタイミングで講義を入れてくるなんて鬼畜なスケジュールではないだろうか。しかもうちのクラスは数学。案の定寝てしまって注意を受けている生徒が何人かいた。特に男子。女子はやっぱり翡翠先生のおかげであまり寝ない。それに私としては、三日目の朝にテストをするらしくそれに向けての講義だから気が抜けなかった。明日もまた講義の時間がある。宿泊研修に来てまで時間さえあれば勉強させられるところがやはり進学校といった感じがする。
普段の席とは違い、椿紅くんとは同じひとつの長机を使っていた。私よりも速いシャーペンの振動に毎回驚いてしまう。彼の頭のよさは本物なのだろう。
今日の講義は、ペア学習でもなければ、グループ学習でもない。個々で講義を受けていることに変わりはないけれど、いつもより身近に感じられる彼の存在が何だか心地よかった。
もうすぐ寝る時間。今日はとても楽しい日だったなと寝る支度をしながら一日のことを脳内で振り返る。子供の頃みたいにトランプで遊んで騒いだり、みんなで協力してバームクーヘンを作ったり。普段はなかなかできないことだ。トランプは幼い頃叶冬とよく遊んでいたことを思い出させてくれて、彼も同じだったようで、夕食隣り合って座ったときにそんな話をした。食堂で食べたカレーも野菜たっぷりですごく美味しかった。明日はどんなメニューが出てくるのか今からワクワクしている。
しかし、ひとつ気掛かりなことがある。美音が元カレの虎沢くんからちょっかいをかけられていることだ。晩御飯を横から取られたり、自習時間中にしつこく話しかけられたり、夜のミニテストの結果を無理やり見られたり、微妙に嫌なことをされ続けているのだ。幼稚なところがあるとは聞いていたがその通りで、美音が嫌がるところを楽しんでいるようだった。止めに入りたいけれど、それ自体を美音から止められている。私も気にかけていたし、叶冬も気を遣ってくれていたけれど、すべての接触を避けさせるということは難しく、これがあと二日続くと思うと心配だ。
「美音、大丈夫?」
「……なんの話?」
点呼が終わり、消灯時間を迎えた。間のスペースを挟んで置かれている、向こう側のベッドに向かって話しかける。
美音は寝るために髪を結いながら、少し考えるような間を置いて返事をした。その沈黙が、本当になんのことか考えている間なのか、それともはぐらかそうとした結果なのかはっきりと判断はつかない。でも私には後者に聞こえていた。
「虎沢くんのこと」
「……ああ、それね。別に大丈夫よ」
名前を言うのすら憚られる彼のこと。確か彼は美音にずっと復縁を迫っているらしく、断り続けた結果、あんなふうに揶揄ってくるようになったみたいだ。
──あんなことしても逆に嫌がられるだけなのに……。
好きって感情は不思議なものだ。好きが故に相手を傷付けたくなるなんて。彼は彼なりの理由があるのかもしれない。でもそれを肯定することはできなかった。
「翡翠先生に相談してみたらどうかな。付き合ってたってこと言わなくても、されたこと伝えるだけで助けになってくれると思うよ」
私が関与することは美音本人に止められてしまっているからできない。私が関与することで複雑化してしまう可能性だって考えられたから、それは仕方ないことだと思う。だったら先生になら相談したっていいはずだ。翡翠先生ならきっと味方になってくれる。現場を見かけたる注意してほしいとお願いしたら上手くやってくれるだろう。でも美音は頷きはしなかった。
「いい。大丈夫。これは自分で招いたことだから、あたしがなんとかする」
「でも……」
「恋愛ってこういうものだからさ。相手のこと対して好きでもないのに踏み込んじゃった代償なんだよ、あたしの場合」
「……傷付くことが、傷付けられることが恋愛なの? 本当の意味で美音のこと好きじゃないのは虎沢くんの方でしょ……? 本当に美音のことが好きなら嫌がらせなんてしないし、無理に迫ったりもしないよ」
作り笑いをする美音にそう問いかける。痛々しい笑顔を見てどうにか助けたい気持ちになって、黙ってはいられなかった。美音の口ぶりはまるで全部自分が悪いみたいな言い方だ。それは違うと伝えたかった。
本当に好きだったら、美音を大切にして、美音の嫌がることだってしないはずだ。それなのに彼女の気持ちを無視してその上嫌がらせもしてくるなんて、本当の意味で彼女を愛していないのは向こうだと思う。
「だから美音は悪くない。悪くないよ、絶対」
「……ほんと、恋は真っ直ぐだなあ」
編んだ三つ編みの端を柔らかいゴムで止め、ベッドから立ち上がる。こちらに近付いてきて、頭に手がぽんと触れた。
「どうかそのままでいてね」
優しく撫でられて顔を覗き込まれる。慈愛の籠った目付きにまた胸が痛くなった。まるで一線を引かれているみたいだ。
美音はパンっと手を叩き、場の空気を一新させた。
「私の話は終わり! そんなことよりさ、恋バナしようよ恋バナ!」
「え〜……いいけど……私あんまりわかんないよ?」
きっともうこの話をしたくないのだろう。まだ心配だけれど、美音にとって嫌な話をしつこくするのも酷だなと思い話を合わせることにした。
「いいのいいの! 今日は未来の話しよ、未来の話!」
「未来の話?」
「そう!」
机のほうに行って椅子に座り、足で地面を蹴りながらローラーの力に任せてベッドのそばまでやってくる。背もたれに両方の前腕をクロスするように置き、そこに顎を乗っけた。
「ずばり、れんれんにとっての理想の人ってどんな人?」
「理想の人かあ〜」
人を好きになったことがないから、具体的な例は浮かばなくて、なんとなくの理想を思い浮かべる。
「やっぱり、優しい人かなあ」
「どんなふうに優しい人?」
「みんなに優しい人がいいな」
「えー! 自分だけの方がよくない?」
美音はありえないといったふうに身を乗り出してくる。椅子がガタリと揺れて、彼女の勢いを物語っていた。
美音のいうことも一理あると思い一度考えてみる。けれど、よくある別れたら悪口を言われたり、今の美音みたいに嫌がらせをされたりしているのを見ると、自分にだけというのは危ない気がしてしまう。はっきり言うと美音の傷を抉ってしまいそうだったので、オブラートに包む言葉を探した。
「ん〜……それって、好きじゃなくなったら優しくなくなるんでしょ? よくあるじゃん、別れた後に酷いこと言われてとか……ああいう人は嫌だなって」
「でもみんなに優しかったら嫉妬とかしちゃわない?」
「付き合ってなかったらそういう部分込みで好きだろうし、付き合ってたら信頼してるからしないかな。予測だけど」
「恋愛ってそう理性的にはいかないんじゃない? って言いかけたけど……れんれんいつも冷静だし、予想できないかも。れんれんある? 身体が勝手に動いちゃってたみたいなこと」
そう言われて逡巡する。確かに私は考えてから動くことの方が多くて、無茶はしたとしてもあまり無鉄砲な行動は取らない。けれどふと最近、考え不足で飛び出してしまった記憶と思い出した。
「あるといえばあるかも」
「え!? いつ? 最近の話?」
「この間の、椿紅くんの……」
「あー」
納得したような返事に、彼女も同じ記憶を思い起こしているのだと窺えた。でも彼女も今は真面目に話を聞くモードなのか揶揄ってはこず、冷静な分析をされる。
「あれは正義感? 最近れんれん気を張ってるよね。生徒会に任命されてから」
「うん」
言われた通りだったので素直に頷く。美音は目で斜め上を見て、ひとつひとつ思い起こしながら人差し指を振る。呆れの滲む口調には、どこか心配の色が見えた。
「荷物持つの手伝ってあげるとか、相談に乗ってあげるとか、放課後勉強に付き合ってあげるとか、忘れ物貸してあげるとか……まあ前からそういうとこあったけど、最近のはちょっと目に余る。優しいのはいいことだけど、目安箱じゃないんだからさ」
肩を掴まれて真っ正面から顔を覗かれる。
「無理したらダメだよ、ほんと」
「うん……気を付けるよ」
気を張りすぎている自覚はあったけれど、治せと言われてもどうすればいいのかわからない。どうにかできる自信はなかったので、ただ彼女の気持ちに感謝するように返事をした。
気持ちを切り替えて美音に話を振ってみると、迷うことなく返答がきた。彼女の中ではもう答えが決まっていたようだ。
「美音の理想の人は?」
「一途な人! あたしのことちゃんと愛してくれる人がいい!」
「そういう人に出会ってほしいと思うよ、私も」
「でしょでしょー。顔良し性格良しの優良物件なんだから、もっといい男が寄ってきたっていいと思うのよね〜」
美音の苦労を知っていると誰もがそう願うだろう。こんなふうに冗談めかして話しているけれど、本人は相当悩んでいるはずだ。じゃないと、ちゃんと愛してほしいなんて言葉出てこない。私にはない感情だからこそ、それを顕著に感じた。
「今は気になる人はいないの?」
「今はいないかな〜。もし出会ったら速攻アタックするつもりではいるけどね!」
テンポよく話を進めていく。美音はノリノリで答えてくれた。
「アタック? 何するの?」
「まずは好きな人がいるかを聞く」
「ほう」
「それで、脈ありかどうかを確認して、最終的に告白させる!」
「めっちゃアバウト……」
「あとは臨機応変にね」
今度は私の方に質問を返される。だが言いかけたところで美音が答えを出してしまった。
「れんれんの気になる人は……聞くまでもないか」
「そうだね」
どうにか話を広げようとしてくれているのか、別の視点から切り口を広げられる。
「じゃあなんかこう、特別に思ってる人とかもいないの? 恋愛的な意味じゃなくてもさ、心を許せる人、みたいな」
「心を許せるって意味なら、叶冬かなあ……」
幼馴染の朝陽叶冬。小さい頃からずっと一緒で、何かあったときはお互い助け合ってきた。今も毎日一緒に登校しているし、我ながら話せないことはないくらいに仲が良いと思う。
美音は不思議そうな顔で尋ねてくる。
「朝陽のこと意識したことないの? あんたらめっちゃ距離近いけど」
「うん……ないかな……ずっと一緒にいたいとは思うけど」
「それって十分好きじゃない?」
「でも私美音にも思ってるよ。ずっと友達でいたいって。そういうのと同じだと思う」
「それはあたしも思ってる」
「えへへ」
同じ気持ちだと返してくれたことが嬉しくて、メインの話題から逸れた話なのに、つい笑いを零してしまう。美音も口ではとぼけたことを言いながら、頬を緩ませていた。
「何、急に」
「なんか、嬉しいなーって」
「そうね」
座ったまま地面を蹴って、椅子が元あった位置まで戻っていく。どうやら寝る気分になったようだ。
「明日もあるし、もうそろそろ寝るか」
「うん」
「付き合ってくれてありがと」
「ううん。私も楽しかったよ」
「そっか」
お礼を言われるようなことはしていない。けれど、彼女にとってこの時間が少しでも癒しになったのならばよかった。
「昨晩の雨で滑りやすくなってるそうなので、足元には気を付けるように」
「はーい」
翡翠先生の指示を聞くと、登山口に集まったみんなが返事をする。殆どの人がこのハイキングを面倒に思っているのか、気怠げな声ばかりが聞こえてきていた。かくいう私もそこに紛れるようにしておざなりな返事をした。
研修二日目。朝から講義が続き、昼食後はハイキングという苦行の日。夜にもまた講義が待ち受けているし、ここからは地獄しかない。
班の番号に沿って順番にハイキングが始まる。私たちの班は三組の五班だから一番最後だ。
登山道に入ると、紅葉しかけているモミジやカエデの景色が間近に広がる。密に集合したそれらの色に圧倒されて、季節の美しさに心が静まった。普段こんな自然に囲まれることはそうそうないから、たまにはこういうのもいいかもしれないと思ってしまった。きっと見頃を迎えればもっと美しいのだろう。そうして仮説を味わっていると足取りが軽くなる気がして、憂鬱だった山登りも楽しいものに思えてくる。
しかし、そう感じられていたのも序盤だけで、一向に変わらない景色とガタガタとした歩きづらい道に、否が応でも疲労が生じてくる。他のメンバーもそうなのか、億劫そうにこの山登りについて話し始める。態々山登りのことを話題に上げるのも、それしか浮かばないくらいにこの行為に飽き飽きしているからだろう。
「文武両道ってのはわかるけどさー。結構ハードだよな、この山登り」
「だねー……」
前を歩く叶冬の言葉に相槌を打つ。歩く順は、女子を置いていかないように真ん中にしろという隣のクラスの先生の指示で美音と私が真ん中だ。
叶冬は文句を言うのかと思ったけれど、振り返ってこちらを気遣ってくれているようだった。
「この研修、別名勉強合宿だぜ? それなのに山まで登らされるとか……女子は特にキツいと思うし。恋、疲れてないか?」
「うん。今のところ大丈夫だよ」
今は大丈夫だけれど、この後のことを思うと不安になって私は苦笑いを浮かべた。
「平和なのは一日目だけだったね。これ終わったらまた講義だし……」
「わかるー。なんかご褒美用意してくれっての!」
俯いて静かにしていた美音も、顔を上げ話に乗ってくる。隣を歩く彼女も最初は景色に感動していたけれど、今じゃすっかり元気をなくしてしまっていた。それがこんなふうに話し出すのだから、美音もきっとこの後の講義のことを憂鬱に思っていたのだろう。
「実は先生に掛け合ったんだけど、予算的に無理って言われたんだよな。じゃあバームクーヘン今日でいいだろって思う」
口を尖らせて不満を訴える叶冬に美音も同意する。
「それな〜」
「でも変更されたとしても勉強量は変わらないわけだよね」
「それもそう。ああ〜。早くニ年生になりたーい!」
美音は冗談混じりに嘆いてみせる。だがハッとしたように目を見開き、恐ろしいと表現してビクビクと震えてみせる。
「え。まさか修学旅行まで勉強とか言わないよね?」
「さすがにないよそれは。……待って、なんか心配になってきた」
何も考えず返してから、私もハッとして不安を募らせる。すると叶冬が入ってきて安心させてくれる。
「ねえと思うよ。バスケ部の先輩に、お前ら可哀想って憐れまれたから」
「つまり、憐れみたくなるキツさであることを先輩たちは知ってるわけね」
「伝統ある黒百合高校の宿泊研修ですからね、なんせ」
私は最近部活にあまり顔を出せていないため、先輩たちとそんな話をすることはなかった。生徒会で会う空乃会長も蒼藤副会長もそんなことは一言も言わなかったので、あの二人からするとこの勉強量はどうってことないのかもしれない。
「でも山登りが増えたのって共学になってからなんでしょ?」
「そうなの?」
初めて聞く話に聞き返す。
「そうそう。だからこんな無茶なスケジュールなわけ。いっそもっと勉強に集中させろっての」
うちの学校は元々女子校だ。共学になってからはもう十数年が経ち、今じゃ私たちのように男子の人数の方が多い学年もある。ただ校名までは変えなかったようで、黒百合というどこか女性らしい名前は当時のままだ。
美音は思い出したように新しい話を切り出す。どうやら男子や女子といった性別の話から、昨夜の事件に繋がったようだった。
「そういえば、昨日男子の誰か怒られたんでしょ? 何があったの?」
「ああ。女子寮に行こうとしたやつがいたんだよ。なんか用があったみたいでさ。借りてたプリントを返したいとかなんとか言って」
「え。それだけ? かなり絞られたって聞いたんだけど」
美音伝手に私も聞いた話だった。昨晩点呼後にかなり怒られた男子がいたらしい。指導したのは怖いことで有名な学年主任の先生で、みんなから災難だと憐れまれていたはずだ。その先生は今日ピリピリしていたから昨日のことを引き摺っていたのだろう。
「数年前からその辺厳しくなったらしいからな。前は点呼前なら行き来できてたらしいぜ」
「なんで厳しくなったの?」
「なんでってそりゃ……」
叶冬が言いづらそうに口籠ると、虎沢くんと仲の良い、もう一人のメンバーである男子が口を挟んでくる。
「いちゃついたカップルがいて、それで禁止になったんだよ」
「ああ……そういう……」
彼は彼方とは正反対にさらりと言ってのけた。美音はげっそりとして返す。だがその男子は、あまりその話に興味のない私や聞きたくなさそうな美音には気が付けないようで、得意げに話を続けた。
「しかも昨日行き来しようとした奴らがちょうど元カレと元カノだったらしくてさ。余計に疑われてたってわけよ。別れてからも仲良いって珍しいよな。お前らとは正反対」
「……」
お前ら、というのが誰を指しているのか、この場の全員が理解したのだろう。空気が変わったことを感知し、息のしづらさに胸が詰まる。どうかこれ以上話が広がらないことを祈ったが、それは叶わず、とうとう黙っていたはずの虎沢くんが口を開いてしまった。
「美音が逃げるから仕方ねぇだろ。より戻してもいいって言ってんのに、毎回無視だし」
「その話しないでくれる?」
乱暴な言い方に人柄が滲み出ていて不快な心地になる。冷たく言い放った美音の横顔も声音も初めて知るもので、心臓がキュッと縮まるようだった。それは多分、彼女の心の閉ざした声を受けてしまったからでもあるし、そうなるくらいに傷付いているのも一瞬にして理解してしまったから。美音はよほどでない限りあんな人を突き放すような言い方をしない。美音の歩くスピードが速くなっている。それでも虎沢くんは言葉を留めず、試すような愉快な調子で続けた。
「その反応、メッセージ一応見てんだ」
「ブロックしたら不便なこともあるからしてないだけ。クラス同じなんだし」
「未練なかったら消すタイプじゃなかったのかよ」
「そうだけど、時と場合ってものがあるでしょ。誰があんたみたいなやつに未練持つって言うの」
「はあー。可愛くねぇの。いい加減素直になれよ」
「何が」
「素直になれば可愛いのになあ。顔だけが取り柄なんだから。その強情な性格どうにかしろよ」
「虎沢から聞いてた通りだな。確かに全然可愛くねー」
もう一人の男子まで参戦してきて、二人して上から目線で美音のことを嘲笑う。本当に嫌な気分にさせられる笑い声だ。
会話を聞きながら沸々と湧いていた怒りが膨らんで、虎沢くんたちを止めることを考える。強がっていても、美音が傷付いているのは容易に見て取れた。昨日みたいな楽しそうな顔はしていなかったから。
大丈夫だ。どんな立場であろうと、人を侮辱するような言い方は間違っていると言えば筋は通せる。怖い気持ちを押し殺すようにして、喉から声を絞り出す。
「ちょっと──」
「お前ら、いい加減にしろよ」
たまたまタイミングが重なって、私よりも大きく声を張った叶冬に私の勇気はかき消される。
「元彼だかなんだか知らねえけど、言っていいことと悪いことくらい区別つくだろ。そういう言い方感じ悪いってか、考え方自体が非モテの典型だな」
まるで挑発するような口ぶりに、ぎょっとしてしまう。正論だけれど、これでは喧嘩が始まってしまう。
「はあ? 何様だよお前」
「思ったこと言っただけ」
「はあー?」
「あ、あの」
思った通り彼は荒い気性を露わにして、叶冬に掴みかかるのではないかという迫力を放つ。このままではまずい。仲裁に入らなければと思い二人の顔を交互に見る。そうして気を取られた瞬間のことだった。木の太い根に足を滑らせてしまい、足首があらぬ方向へぐきっと曲がった。
「痛っ」
「大丈夫か!?」
「うん……うっ……」
痛みでしゃがみ込んでしまうと、咄嗟に叶冬が寄ってきて視線を合わせるように屈む。怪我の場所を確認して、先ほどとは違う冷静な顔を見せた。
「下山しよう。俺がおぶって行くから」
「いやいい。実行委員が二人とも離脱するのはよくないし……それに……」
「駄目だ。その状況で歩かせられない」
これは決定事項だというように言い切られる。でもここで折れるわけにはいかない。私からすると一番気がかりだったのはお互いが実行委員であることではない。それを声に出して伝えることは状況的に難しいため、視線で伝えることにした。
「でも……」
「……」
叶冬が私の視線を追いかけて虎沢くんたちの方を見る。彼らは私の怪我には興味がないらしく、先ほどの件で苛立った様子でそっぽを向いていた。視線で察してくれた叶冬は頭を悩ませて黙り込む。私も今すぐ大丈夫だと言って立ち上がりたかったけれど、かなり足が痛んでいてそれは難しかった。ちょっと休ませてもらって無理をするか、みんなに置いて行ってもらうか。状況を考えれば後者しかないだろう。そうだとして、私は一人で下山できるのか。そんな不安が過ったとき、思わぬ人のある一声で状況が一変する。
「俺が行く」
「え」
「乗れ」
椿紅くんが私の前に背中を向けてしゃがみ、乗れるように両腕を後ろに伸ばしている。私は恐る恐る尋ねた。
「い、いいの……?」
「ん」
肯定だと取れる短い返事が来て、私はそっと体を動かす。思っていたより足を引きずる格好になってしまい、ここで漸く怪我の重度さを自覚した。彼の背中になんとか身体を凭れさすと、同じ視線で心配そうな顔していしゃがんでいる叶冬にこっそりと伝える。
「美音のこと、お願い」
「……わかった」
数秒の間を置いて、決断するように了承してくれた。
足に腕を引っ掛けられて、ぐっとその場に立ち上がる。浮遊感に恐怖を感じて椿紅くんの体にぎゅっと捕まった。
「気を付けてね」
「無理すんなよ」
「うん。ありがとう」
美音と叶冬が交互に声をかけてくれる。じんじんとした足の痛みに耐えながら、できるだけ笑って礼を言った。
椿紅くんは黙ったままみんなの間を通って折り返したけれど、なんとなく目で返事をしているように見えた。
「椿紅くん、ごめんね、こんなことになって……」
「別に」
みんなの声が聞こえなくなってから話しかける。短くても返答があったことにホッとする。それから珍しく、椿紅くんの方から話を切り出してきた。
「お前気負いすぎ。いつもそんななのかよ」
昨日の美音との会話が頭を掠めた。しかしうまく答えられなくて謝って濁してしまう。
「あはは……迷惑かけちゃってごめんね」
「話逸らすな」
元々どこか不機嫌だった彼を、どうやらもっと不機嫌にさせてしまったようだ。それを申し訳ないと思いながら、今は返す言葉が見つからなくて、今度は私が黙る方になってしまった。
それから山を下ること約四十分。下りだったとはいえ、私を背負っているせいで本来よりも多く時間をかけて入り口まで戻った。椿紅くん一人で降りていればこんなにかからないだろう。
何かあったときのために備えてくれていた救護の先生が、私たちを見て慌てた顔で心配してくれる。いつもとは違う環境下に対する心寂しさや、みんなに対する申し訳なさが、先生のおかげで少し紛れた気がした。
治療をしてもらった後、みんなが戻ってくるのを登山口の近くで待つ。全班がハイキングを終えたら、大回りして宿泊施設があるこちらへみんなで帰ってくる予定だった。腰掛けたベンチには一人分座れる空間を開けて椿紅くんが座っている。
「椿紅くん、ありがとう」
「ん」
感謝を伝えると、また彼らしい返事がきた。無駄な会話を好まないのであろう彼との会話だと思えば、この短い一文字が返ってくるだけでもとても特別なものに思える。でもそんな彼が、どうしてあのとき私のことを助けてくれたのかが気になった。
「どうして助けてくれたの?」
答えてくれないだろうなと思いつつ、直球で聞いてみる。すると意外にも長文が返ってきた。そのことに驚きながら、彼の言葉にしっかりと耳を傾ける。
「昔、好きな人に、困ってる奴は助けろって言われたから」
その横顔には赤が刺しているように見えた。彼の口から恋の話が出てくるとは思わず呆けてしまう。初めて見る思わぬ彼の姿に、もう少し踏み込みたくなって質問を投げかける。
「今でもその人のこと好き?」
「……」
肯定と取れるような無言の時間が訪れる。彼の人間らしいところを知って、自然と笑みがこぼれた。それにきっとあまり喋らない彼のことだから、このことを知る人は他にはあまりいないだろう。そんな優越感に似た何かが胸の内にふっと浮かんでくる。こんな感情を得るのは二回目だ。
彼にこんな顔をさせることのできる女の子がこの世にいるのだと思うと、一度会ってみたい。椿紅くんはその人に心を開いているのだろう。そういう顔をしていた。どうにかしてその人と結ばれてほしいと願う。
「素敵だね。私、応援してるよ!」
にっこりと笑いかけてそう言う。しかしそのとき、自分が認識している感情の中に何か違和感を感じた。胸がチクリと痛んだ気がした。
机の上に勉強道具だけを残し、他の荷物はキャリーの中へ粗方片付ける。明日はあまりゆっくり帰り支度をしていられる時間はないだろうから、今のうちに大体の整頓は済ませておいた。リュックから取り出した財布を手に取って、サイドのファスナーを開き適当な金額の小銭を取り出す。それをポケットに入れつつ、まだ片付け中のれんれんに話しかけた。
「あたしちょっと飲み物買ってくる。れんれんも何かいる?」
「じゃあお水お願いしていい?」
「りょーかーい」
就寝時間になれば部屋の外へは出られなくなる。この後は暫く明日のテストに向けて勉強をするつもりなので、今のうちに水分補給できるものを買いにいくことにした。
部屋を出て通路を左にまっすぐ進み、右に曲がる。何人かがトイレから出てきたのか左奥の方から歩いてきていた。時間が結構ギリギリなのもあって今から向かう生徒は少ないようだ。トイレは既に行ったので、寄り道はせず反対側の右奥にある階段を上っていくと、階段の踊り場にある自販機の前に辿り着いた。お金を投入した後、自分用に紅茶のボタンを押す。次にれんれんに頼まれた水のボタンへと手を伸ばした。
今日はれんれんに迷惑をかけてしまった。あの子が怪我をしてしまったのはあたしのせいだ。正義感が強くて優しいあの子は、あたしのことを気にかけて、どうにか助けてくれようとして、その結果足を滑らせてしまった。元々はああやって巻き込まないために口を出さないでくれと頼んだはずだった。それにあの日、態々嘘を吐いたのは、そうまでしてでもれんれんを守りたかったからだったのに──
「よぉ」
「……」
ごとりと落ちてくる二本のペットボトル。それと同時に聞こえてきた不愉快な声によって、意識が思考から現実へと引き戻される。
「おいおい無視かよ。目の前にいるのにそれはねぇんじゃねえの」
スリッパを引き摺るようなかったるい柄の悪い足音の発生源は、元彼である虎沢。偶然とは思えない鉢合わせ方に、まさか付けてきたのかと疑いたくなってしまう。振り返って冷静に問うことにした。
「何の用」
「俺も買いに来たんだよ」
虎沢は人差し指の第一関節でコツコツと自販機のパネルを叩く。どうやら付けてきたのかという疑念は思い過ごしで、同じ目的でここにやって来たらしい。それはおかしなことではないからこれ以上の問答は不要だろう。さっさとこの場を立ち去ってしまおうと思い、元の向きに戻って取り出し口へ手を伸ばす。
「あっそ。じゃああたし行くから」
「ちょっと待った」
後ろから手が伸びてきて、手に取るはずだったペットボトルのうち、れんれんの分である水が攫われてしまう。
「返してよ」
「話聞いてくれたら返してやる」
「……。早くして」
自分の分が取られたなら放置してもよかったけれど、恋に頼まれたこともあって、このまま何も手にせず帰ることは難しい。仕方なく要求を聞き入れることにして、代わりにキッと睨むような視線を向けた。虎沢はそれに動じることなく話題を切り出してくる。
「なんで無視すんだよ」
「あんたがしつこいからよ」
一歩迫られて後退る。するとすぐ後ろに自販機しかないことに気付き、自由のある階段側へ方向転換をする。虎沢は自信のある顔で言う。
「何度も言ってるけど、ヨリ戻してやったっていいんだぜ、俺は」
「何その上から目線な言い方。あんたなんかと復縁するわけないでしょ」
こんな言われ方される筋合いはないと、文句も込めてキツめの返答をする。だがまるで話が通じていないようで、見当外れの答えが返ってくる。
「上から目線も何も、お前が素直になれねぇみたいだからこっちから言ってやってんだよ」
「いつあたしが素直じゃなかったって? いつでもあたしはこの上なく素直よ。だから言ってやる。あたしはあんたのことが嫌いで、復縁する気はない」
キッパリと言い切ると、呆れたような口調でまた昼間のような煽られ方をされる。私も売られた喧嘩を買うように、本音である諦観を口にした。
「お前本当に終わってんな。顔だけが取り柄だってのに」
「終わってんのはあんたの方じゃない? 付き合う前はそんなだとは思わなかった」
最初は明るくてノリが良くて素直でいい人だと思っていた。それがいざ付き合ってみると、都合のいい部分だけ見てしまっていたのだと気が付いてしまった。こんなふうに人のことを悪くいう人間だなんて思わなかったのだ。そうして、見る目のない浅はかな自分に失望するのは何度目だっただろうか。
虎沢はもうひとつ深く踏み込んだ声音で迫ってくる。
「そもそも、俺は別れた理由にも納得いってねぇ」
生物的な危機を感じる威圧感に冷や汗が滲む。揶揄うような余裕を無くした口ぶりはどこか性急で、苛立ち方が先程までとは違った。声も次第に大きくなってきていて、傲慢な目があたしのことを詰問しようとしている。
別れた理由と言われて、あの日のことが頭を過った。怒りと共に嫌悪感に飲まれたあの瞬間のことは忘れもしない。たとえ何度謝られたって許せない決定的な瞬間。
だが虎沢はまたここでも見当違いなことを言い出した。
「謝っただろ? 急に押し倒したりなんかして悪かったって」
「それはもうどうでもいい。あの時も許すって言ったでしょ」
「だったらなんで!」
「そりゃ友達の悪口言うやつのこと好きなわけないでしょ!?」
カッとなって声を荒げる。脳内では、隣に並んで歩く虎沢が気の抜けた顔をしてあの子の名前を口にしていた。
──「れんれん? あ〜」
誰のことだかわかったのか、思い出したような声を上げる。友人のことをどう思っているのか気になって、期待に胸を膨らませたのは一瞬。虎沢は想像とは全く反対の考えを言ってのける。
──「アイツ優等生ぶってて嫌いなんだよな。あの会計の当選だって、誰もやりたがらねぇ立候補者一人の人数合わせだろ? それなのに調子乗りやがって」
心底馬鹿にしたような言い方で、れんれんの努力を軽視する発言。あたしはその場で別れを切り出し、最低だって言った。でもこの男には結局何も伝わっていなかったらしい。
「俺は事実を言っただけだろ!? なんで俺とお前の問題にあいつが関わってくるんだよ!」
「恋はあたしの親友よ! 親友のこと悪く言う奴は絶対に許さない!」
また一歩、虎沢が近付いてくる。挑発のような嘲りにあたしは強気で返す。短気なこいつなら絶対に乗ってくるはずだ。
「随分と心がちっせぇんだな」
「あんたみたいなクズにだけは言われたくない!」
案の定綺麗な舌打ちをし、周囲に響き渡るような怒号を上げた。虎沢の怒りは手に負えなくなっている。これは賭けだった。この声を聞けばきっと誰かが来てくれる。
しかしここで想定外の問題が起こってしまう。
「チッ。マジで腹立つ女だなァ!」
「わっ!」
振り上げられた手が見えたとき、思わず怖さで目を瞑ってしまった。次の瞬間、体が浮遊感に襲われる。目を開けたときには世界がスローモーションになっていて、段々遠くなっていく虎沢の姿がゆっくりと見えた。足は宙を舞い地面を探すことすら叶わない。もうダメだ。そう思って諦めかけると、後ろからドタドタと大きな足音が響いてくる。
「ぐっ……!」
背中に何かが触れて加速が止まった。それについ呆然としてしまうと、優しい声が耳を撫でる。顔を上げるとオレンジ色の瞳と視線がぶつかる。その声の主は、昼間にも助けてくれたれんれんの幼馴染である朝陽叶冬だった。
「大丈夫か」
「う、うん……」
二段跨いだ足を支えにしていた朝陽が、落ちかけたあたしの体を元の体制に戻してくれる。それから踊り場まで上がって虎沢の前に立ちはだかった。
「虎沢。お前何してんだよ。女の子に手上げようとして」
「そいつが勝手に落ちたんだよ」
「手を上げようとしたのは事実だろ」
「……」
考える間もなく即座に言い返され、虎沢は正論に返す言葉を失っている。
朝陽は足を踏み出したかと思うと、虎沢の胸ぐらを掴む。虎沢に奪われた水の入ったペットボトルがゴトリと地面に落ちた。
表情は見えずとも聞こえてくる声は怒りに染まっていて、どんな顔をしているのかは想像がついた。そしてそれはあたしを助けるための怒りだと思うと、傷口に得体の知れない熱が沁み渡っていく。
「お前、こいつのこと好きなんだろ。だったらこんなことまでして本気で好きって言えるのかよ。本気で好きなら、葡萄原の思い受け止めろよ」
その堂々とした背中は、月光によって輪郭を煌々と露わにする。あたしの中で何かが動く音がした。
「……チッ」
悔しそうな舌打ちを最後に、虎沢はその場を後にする。階段を下りていき、やがて姿が見えなくなると、朝陽の方に体を向ける。朝陽も何か話そうと思ったのかこちらを向いてくれていた。それが嬉しかった。
「ありがとう」
「いや。俺は何にもしてねえよ。はい」
拾ってくれたペットボトルを差し出されて受け取る。朝陽は先ほどまでの覇気を消し去り、ケロッとした顔で笑っていた。
「これ、お礼」
「おっ。サンキュ」
元々持っていた紅茶のペットボトルを受け取ってもらえるように前に出す。渡すとき、一瞬指が触れ合って、そこから血が騒ぐように体中が火照っていく。あっさりと受け取ってくれることすら朝陽の優しさに見えて、眩しい笑顔に心が占拠されていた。それ見ていれば、思いの向くまま口から問いがするりと流れ出ていく。
「ねえ朝陽」
「なんだ?」
こうなってしまえば聞かずにはいられなかった。たとえその答えが、望むものではなかったとしても。
「あんた、好きな人いる?」