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「れーんー、早くしないと置いていくぞー」

「あーっ、ごめんごめん! 待って!」

 プリントを急いでクリアファイルに入れながら、廊下まで聞こえるように声を張って返事をする。授業後にクラスメイトに勉強を教えていたから、いつも以上に帰り支度に時間がかかってしまっていた。気付けば教室にはもう誰もいない。一人でいるには広すぎる空間に自分の声がよく響いた。

 今日から始まった十月と共に、私たちの新しい日々がスタートしようとしている。先月行われた生徒会選挙の結果、会計に就任した私は、書記に選ばれた幼馴染である朝陽叶冬(あさひかなと)と共に生徒会室へ向かうことになっていた。遅刻ということはないが、先輩たちを待たせてしまっているかもしれない。急げ急げと心の中で唱えながら、バタバタと出しっぱなしのノートたちもスクールバッグに詰めていく。全部しまい終えると、片手でファスナーを閉めつつ叶冬の元へ向かった。

「お前ほんと要領悪いよなー。ホームルーム中も片付けすればいいのに」

「先生にばれたら注意されるでしょ。一応ルールなんだから」

「別にそんくらいバレねえって」

 窓枠に腕を掛けていた叶冬は姿勢を正しながら言う。私が敷居を跨ぐと、リュックのショルダーを掛け直して隣に並んだ。

「んじゃあ、行きますかー」

「うん」

 中庭が見える窓からは西陽が差し込んできている。最近園芸部が校名に因んだ黒百合の種を花壇に植えたらしい。今は殺風景だが、来年にまた開花するのが楽しみだ。朝は毎日一緒にここを通っているけれど、放課後を共にするのは久しぶりで新鮮。ふと横を見上げると、橙色の瞳に同じ色の光が反射して眩しく光って見えた。

廊下の人通りはまばら。大体の人は部活に行っているだろうから、それもそうだろう。今日は生徒会があるからと美術部は欠席させてもらった。これからはそういう機会も増えていくかもしれない。個人活動の多い部活だから、みんなにも迷惑をかけず調整が効きやすいのが幸いだ。

 うちのクラスは、帰りのホームルームが始まったら、一旦手を止めて先生の話を聞かなくてはならないルールがある。叶冬がたまにそのルールを無視して何か作業をしているときがあるのは知っているけれど、生憎私はその要領の良さは持ち合わせていない。授業中うっかり眠ってしまったときも、私は注意されたけれど、叶冬は注意されないのだ。多分、出席番号順である席の位置的に彼の位置はちょうど死角なのだと思う。私は一番後ろなので、意外と目を付けられやすいのだ。とはいえ、もし私の苗字が朝陽でいくら先生から見えにくい位置だったとしてもルールは守るだろう。特に今日からは生徒会のメンバーになるのだから、いついかなるときも生徒のお手本でなくてはならない。そう思ったら急に実感が湧いてきて、気合いを入れ直す。

「ついに今日から生徒会だね!」

「そうだな〜。選挙頑張った甲斐があったな〜」

「まだ始まってもないのに、随分嬉しそうだね」

「おう! だってさ」

 前を向いていた声がこちらに向く気配がして首を捻る。叶冬は快活な笑顔を見せた。

「これから恋と一緒にいっぱい思い出作れるんだぜ。最高じゃん!」

「思い出って……」

 嬉しさはあるものの、生徒会としての自覚が足りていないことに呆れて溜息を吐いてしまう。階段を先に一段上り、振り返って釘を刺す。

「もう。遊びに行くんじゃないんだからね」

「わかってるって。でもとにかくすげー楽しみってことだよ」

「それは私も」

 横に並ぶように、一段飛ばして階段を上ってきた叶冬。縮んでいた身長差が元に戻って、再び見上げながら返した。返事を聴くと、満足したように微笑み返される。そんな叶冬のテンションとは反対に、私は不安から緊張を生じさせていた。

「なんか緊張してきたな……何せ、メンバーは空乃先輩と蒼藤先輩だし……先輩たちに迷惑かけないように仕事できるかな……」

 今年も生徒会長は空乃優希先輩。生徒会副会長は蒼藤凛花先輩だ。前生徒会にも務めていた二人は、選挙にて今年も生徒会メンバーに選ばれた。頭脳明晰、容姿端麗、聡明叡智と三拍子の並ぶ校内でも有名な先輩たち。いつも成績は一位二位を争っているようだし、先生たちからの評判もいい。生徒会長に至ってはファンクラブなんかもあるらしい。二人が選ばれたのは誰もが納得する結果だと思う。お似合いだなんて噂が流れるほど、何もかも完璧な先輩の横に並ぶに、自分が相応しいとは到底思えない。

「恋なら絶対大丈夫だって! それに、この役目だってみんなが選んでくれたんだぜ。だから自信持てよ」

「励ましてくれてありがと。でも、確かに叶冬は他の人と競って選ばれた結果だけど、私は違うから。ちゃんと認めてもらえるように頑張らないとなんだ」

 励ましてもらったことに礼を言いつつ、自分を叱咤する。会計の立候補は他にいなかったから、全校生徒の過半数の賛成票が集まったことで私が会計に就任することになったのだ。あんなの余程でない限り態々反対に票を入れる人なんていないから、立候補した時点で殆ど確定していたに等しい。何人かの候補の中から選ばれた先輩たちや叶冬とは違う。みんなにちゃんとこの人でよかったと思ってもらえるような仕事がしたい。

「さすがだな、恋は」

「もしかして、バカにしてる?」

 ニマニマと笑って言ってくるものだから、空気を壊さないように私も冗談めかして尋ねる。

「してないしてない。本音だよ」

 すると思ったより真面目な温度で返ってきて、意表を突かれた気分になった。

 生徒会室は最上階の四階。話し込んでいるうちにあっという間に二階分の階段を上り終える。目の前に現れた教室から話し声が聞こえてきていた。やはり既に先輩たちは集まっているのだろう。緊張で一瞬足が竦むと、叶冬が後ろから手を伸ばしてきて引き戸のドアノブに手を掛ける。

「そんな緊張すんなって。俺もいるんだからさ」

「……ありがとう」

 反対側の手で肩をポンと叩かれる。気遣いに礼を言うと目が細められた。

「よし。行くぞ」

 ガラガラと引き戸が引かれる。するといきなり気の立った声が聞こえてきて、吃驚して挨拶をし損ねる。

「ほんっと、なんでまたあんたと仕事しなきゃらならないのよ!」

「僕だって、出来ることなら君みたいな口煩い人とは仕事したくないよ」

「はあぁ? 言ったわね?」

 言い合いをしているのは、空乃先輩と蒼藤先輩。いつも冷静沈着でお淑やかな蒼藤先輩は、声を張り上げ眉も吊り上げている。空乃先輩はそう大きな変化はないものの、わかりやすく相手を煽っていて、見たことのない挑発的な目付きをしていた。てっきり仲が良いものだとばかり思っていたのもあって、予想外の姿に度肝を抜かれ入り口で一時停止してしまう。しかも、私たちがやって来たことにも気が付かないくらい視野が狭くなってしまっているようだ。遅くなってしまった私たちも悪いが、このままでは仕事に取り掛かれない。何を言っても会話に割り込むことになってしまうし、空気的にもそれは難しそう。どうやって室内に入るか迷ってあわあわとしてしまう。

 そんなとき、後ろから聞きなれない大人の声がした。

「お前たち、また喧嘩してるのか……」

 振り向くと、生徒会担当の翡翠慧悟先生が呆れ顔で立っていた。

「後輩が困ってるぞ」

 振り向いた先輩たちは顔色を変える。蒼藤先輩は我に返ったようにわかりやすく青ざめ、空乃先輩は対照的ににっこりと人好きの笑顔を見せた。

「ごめんなさい。全く気が付かなくて……」

「見苦しいところを見せて悪かったね。どうぞ入って」

 揃えられた四本の指で室内に入るように指し示される。それに従って進むと、ホワイトボードから見て前から二番目の席に座るようそれぞれ案内された。叶冬はドサっと音を立てながら雑にリュックを地面に置く。私は相変わらずの緊張と、ちょっとした警戒心もあって、そろりと肩掛けのバッグを下ろした。隣に座る副会長に言われ椅子に腰掛ける。叶冬は既に座っていたので肝が据わっているなと感心した。

「まずは自己紹介をしようか」

 起立したままだった生徒会長がそう言うと、先陣を切って名乗り始める。

「今回、生徒会長に就任しました。空乃優希(そらのゆうき)です。よりよい学校にしていけるよう精一杯努めさせていただきます。生徒会全員で力を合わせていきましょう。よろしくお願いします」

 礼儀正しく、場にふさわしい三十度の角度で礼をする。座っている三人はぱちぱちと拍手をした。細やかな拍手をしていた蒼藤副会長は、音が止んだ頃に会長と目配せをしてその場に立ち上がる。丁寧に椅子を机の方に押した。

「副会長の蒼藤凛花(あおふじりんか)です。伝統ある黒百合高校生徒会の名に恥じぬよう、誠心誠意学校と生徒の皆さんのために尽くしていきます。一年間よろしくお願いします」

 同じく拍手をしていると、それもそこそこに叶冬が椅子を引く。先輩たちのように机の中にしまうことはしなかった。

「次俺っすね」

 床に置いていたリュックにスリッパが引っ掛かったようで、「おっと」と零す。脱げかけたスリッパをきちんと履き直してから話し始めた。

「書記を務めさせていただきます、朝陽叶冬です! よろしくお願いしまーす」

 先輩たちとは違い、軽く手短に済ませて席に着く。叶冬らしい挨拶だけれど、このくらいのテンション感で大丈夫なのだろうかと内心不安に思う。そしたらふと隣の副会長の顔が目に入って、叶冬に向けられたじとりとした視線に、不安どころか恐怖を感じた。そりゃこんな軽いノリの後輩が入ってきたら嫌にも思うだろう。ヒヤヒヤしつつも拍手の音が鳴り止んでしまい、ついに自分の番が回ってくる。蒼藤先輩を視界に入れないよう肩を縮こまらせながら、立ち上がった。

「えっと、会計の桃瀬恋(ももせれん)です! 未熟者ではありますが、生徒のみなさんのために精一杯頑張らせていただきます! ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!」

 頭を勢いよく深く下げ礼をする。手を叩く音たちが聞こえてきて、少しホッとして顔を上げれば、蒼藤副会長も穏やかにこちらを見つめている。どうやらお眼鏡にかなったようだ。空乃会長は相変わらずずっと同じ笑顔でみんなの様子を見ていた。私がつい拍手をしてもらった嬉しさでもう一度礼をしてしまうと、手を出されて座るように指図される。変わらない笑顔にはどこから違和感があって、掴みどころがない。こんなふうに先輩を間近で見るのは初めてで、噂とは違う何かを感じ取っていた。

 会長が私の後方に目を向ける。振り向けば先生がいて、軽く会釈をして一歩前に出てきた。

「昨年に引き続き、生徒会顧問を担当します、翡翠慧悟(ひすいけいご)です。みんなのサポートをしていけたらと思っています。よろしくお願いします」

 名前と同じ翡翠色の瞳が細められる。

 翡翠先生は数学の先生で、とても優しいと評判だ。数学の担当が翡翠先生の年はラッキーだと言われている。翡翠先生が担当した学年は女子の成績が異様に上がるらしい。そしてこの先生は、叶冬と私のクラス担任でもある。翡翠先生は評判通り実際にとても優しいし、何か間違えても怒らないし、生徒想いのいい先生だと思う。若いのもみんなから好かれる理由のひとつなのではないだろうか。翡翠先生が担当ならば、困ったとききっと力になってくれるだろうし、色々やりやすいだろう。怖い先生に変わったらどうしようという気持ちもあったので、正直安堵している。

 先生が元の位置まで下がると、入れ違いになるように生徒会長が再び立ち、ホワイトボードの前まで移動する。まずは一年間の生徒会の流れを確認するとのことだ。

 それから約三十分間これからについての話があった。まず最初に取り掛かる行事は、一年生は宿泊研修、二年生は修学旅行。生徒会のそれぞれの学年の二人が実行委員となって動くようだ。次は文化祭。文化祭は学校全体でだけでなく生徒会としても大きな仕事となる。あと一ヶ月もすれば始まるので今からワクワクだ。

 一通り話が終わると、会長が先生に話を振る。先生は特に問題ないと言ってから、ひとつ知らせを付け加えた。

「そうだ。明日から一年に一人転校生が入ってくるんだ。僕のクラスだから、仲良くしてやってね」

 叶冬と私に向けて言われる。私は先に教えてもらえるということに生徒会に入った実感を持ちつつ、責任感から返事をした。

「了解っす」

「わかりました!」

「二年の二人も関わる機会は……なんだかんだであると思うから、頼むよ」

「わかりました」

「わかりました……っ……」

 翡翠先生は途中で考える素振りを見せてから、苦笑いを浮かべて言う。それに対し、会長と副会長は息ぴったりの返事をした。あっ、と思って振り向くとやはり予想通り。重なった音にハッとした副会長は、聡明な面持ちを崩し、生徒会長を睨み付けるのであった。


 翌日の朝、いつも通り叶冬と学校に登校した。天気は晴れていて、すっかり秋空だ。気温も落ち着き大分過ごしやすくなってきたと思う。

教室の扉を開けると、何やらざわめいている。みんなの視線を辿れば、窓際の一番後ろに机がひとつ増えていた。昨日聞いた転校生の席だろう。その席の隣である自分の座席へ向かうと、親友である葡萄原美音(えびはらみおん)が高いテンションで名を呼びながらやってくる。ハーフアップとせっかくの巻き髪が崩れてしまわないか心配になる勢いだ。

「れんれーん!」

「美音、おはよー」

「おはよ! ねえ聞いた!? うちのクラスに転校生来るんだって!」

「あー、うん。昨日生徒会室で先生から聞いた……てか近い……」

「アッ、ごめんごめん〜」

 顔をぐっと近付けられ、仰け反って避ける。こんな時期にこんなイベント発生することがないから、楽しいこと好きな美音からすると興奮状態なのだろう。

 相変わらず睫毛が長いし目が大きい。唇だって女子なら誰しも羨むだろうというくらい綺麗な形をしている。美音は割と男女問わず人との距離感がバグっているので、こういうことは日常茶飯事だ。整った顔にこの至近距離で見つめられれば、勘違いしてしまう男子が多いというのも頷ける。要するに彼女はとてもモテるのだ。一緒に過ごす中で、そりゃモテるだろうなあと思うことは多々あるが、今日はそれを朝一番から味わわされている。

「で、それがどうしたの? なんか教室のざわめきよう、それだけじゃない気がするんだけど……」

 先程から気になっていたことを問いかけた。ただ転校生が来るにしたら、かなり騒々しい気がする。高校生にもなって一人新しいクラスメイトが来るくらいでこんなに盛り上がるだろうか。しかも自分の席に来て気付いたけれど、隣に向けられているものはあまりいい空気ではない。

 やはり情報の早い美音は真相を知っていたようで答えてくれる。言いづらい話なのか、耳元に口を寄せ周りに聞こえないように小さな声で話し始めた。

「それがね……転校してくるの、男子らしいんだけど、前の学校で暴力沙汰起こしたらしくて……」

「暴力!?」

「ま、あくまで噂だけどね」

「それホントなの!?」

「噂だってば〜。そんなにピリピリしないの」

 信じたくない話に驚いて、思わず聞き返してしまう。本当は悲鳴を上げてしまいしそうなくらいに恐怖を感じているのに、対して美音といえば、全然平気そうな顔をしている。噂なんて言っているが、もしそれが本当だとしたらこれから一緒に過ごしていくのは自分たちだ。しかも私は席が隣。関わらないわけがない。なんと恐ろしいのだろう。

「どうしよう……私席隣なのに……」

「まあ大丈夫だって。本当にヤバいレベルなら、うちの学校転校してこないでしょ。少なくとも頭はいいってことだし、出会って早々殴ってくるとかはないんじゃない?」

「それは確かに……」

 前の学校で重大な問題を起こして辞めさせられたのであれば、うちに入ってこられたのがおかしな話になる。そう考えれば、何か訳ありなのかもしれない。

 それに美音の言う通りうちは所謂進学校だ。転校してくるとなれば試験を受けるはずだから、そこそこの成績がないと入っては来らればいはず。美音の言う通り、いきなり殴ってくるような人ではないと願うしかない。

 美音は怖がっていた私を勇気づけるように諭してくれる。少し冷静になってきて、弱気だった心が元気を取り戻してきた。

「友達になるのは難しいかもだけど……噂が本当かなんてまだわからないし、きっとうまくやっていけるよね!」

「そうそうその調子! れんれんはそうじゃないと!」

「うん! ──って、怖がらせるようなこと言ったの美音だよ!?」

「だって何かあってからじゃ遅いでしょ? あんた変なところで鈍いし。警戒しなよってこと」

 キーンコーンカーンコーン。このタイミングで、朝のホームルームの時間を知らせるチャイムが鳴る。美音は片手をひらひらと振りながら自分の座席へ戻っていく。

「じゃあまた後でねー。健闘を祈る!」

「うん。またあとで」

 美音が席に着いたところで、前の扉が開いて翡翠先生が入ってくる。今日はほぼ時間通りの登場だ。

 学級委員長の号令で立ち上がり、朝の挨拶をする。こうやって改めて見てみると、去年よりも女子の動きが俊敏な気がする。これも翡翠先生効果だろうか。

 みんなが座ると早速転校生の紹介に移った。

「もう知っている人もいると思うんだけど、このクラスに転校生が来ます。みんな暖かく迎えてあげてくれ。どうぞ」

 翡翠先生が常より声を張って廊下に呼びかける。そうすれば一人、背の高い男子生徒が教室に足を踏み入れた。

 教卓の元までやってくると、自己紹介をするように言われる。

「自己紹介、お願いしてもいい?」

「……うす」

 聞こえないような声で先生に返事をする声は穏やかだ。だがクラスメイトの方を向いた途端、やけにキツい形相へと変化した。

椿紅怜(つばえれい)。お願いします」

「改めて、椿紅怜くんです。みんな仲良くしてやってくれ。じゃあ、椿紅くんはあそこの席で」

 思っていた通り、私の隣の席が示される。彼は小さく会釈をするとこっちの方向へと歩き出した。

 真っ白のツンツンした髪に、ぶっきらぼうな喋りと猫背な柄の悪い歩き方。目つきの悪い瞳は険しい赤色をしていて、その上身長があるせいで余計に怖い。これではどこからどう見ても噂通りの人ではないか。しかし、人を容姿で判断してはならない。油断してはいけないけれどこれは早計だと思い自分を心の中で叱る。偏見を持っていては見える世界が狭くなってしまうだけ。それに先生の前ではちゃんと会釈もしていたではないか。まだ可能性はある。

 彼に失礼がないよう、口角が下がらないように気を付けて席まで来るのを待つ。こういうとき、私は顔に出やすいやすいから、それの対策だ。

 彼が席に着くと、今日は特に他には知らせがないようで、すぐにホームルームが終わった。起立して挨拶を済ませた後、そのまま椿紅くんに話しかけにいくことにする。

 正直なところ怖いけれど、このタイミングを逃したら人見知りの私は多分一生話せない。それに昨日先生からも頼まれたから、隣の席である以上はこれは必要なプロセスのはずだ。そうやって色々理由付けて自分の背中を押す。これは彼のために必要なことだ。勇気を振り絞り、彼の元までギリギリ届くであろう声量をなんとか出した。

「……あ、あの、椿紅くん……」

「ァア?」

 着席した低い位置から睨まれ、びくりと肩が跳ねる。上目遣いになっているのにかわいいのかの字もない。話しかけた手前引き下がることもできず、勢いに任せて名乗ることにした。

「はっ、はじめまして! 私、桃瀬恋って言います。これからよろしくね」

「……」

 繕った笑顔はぎこちないかもしれない。それでもなんとか言い切れた自分を褒めてあげたい。そうでもしないと心臓がもたなさそうだ。よろしく、と一言、そう返してくれるだけでいい。何なら、ん、とか一文字でもいい。

睨まれ続けても逃げずに、ただただ願って彼の言葉を待つ。しかし、発されたのは想像していたものとは違う形をしていた。

「チッ……」

 ──は、はいいいいい!?

 綺麗だねと褒めたくなるくらいの盛大な舌打ち。一文字でもいいとは思ったが、この一文字は歓迎していない。あまりの衝撃に固まっていると、椿紅くんは席を立ちどこかに行ってしまった。



 お昼休みになり、美音の机にお弁当を広げる。今日も母の手作り弁当。中身は昨日の夕飯の残りと卵焼きとその他野菜。あとは麦の混ざったご飯。いつも通りのラインナップだ。たまに唐揚げが入っている日があって、タイミングはテストの前後はご褒美として入っていることが多い。中間テストが終わってからまだ一度も入れられてはいなかったので、ちょっと期待していたのが本心だ。また明日に期待しておこう。

 椿紅くんが横を通って教室を出ていく。この時間に手ぶらで出ていくということは学食へ向かうのだろうか。だとしたら学食は別の棟で場所がわかりづらいから、ちゃんと辿り着けるか心配だ。私もたまに行くけれど、未だに迷子になりそうになる。気になったせいで箸を進められず、教室の出入り口をぼーっと眺めていた。

「気になるの?」

 美音は朝買ってきたのであろうパンを食べる手を止める。

「いや……お昼ご飯どうするのかなって思って。学食行くなら、場所わかりづらいだろうし……」

「あれ。あたしもしかしてお邪魔だった?」

「違う違う! そういうのじゃない!」

 こういう話題に関係ない誰かを巻き込むのはよくない。言い方が悪かったと思い慌てて否定した。真面目な顔をしていた美音は一気に表情を崩し、いかにもつまらないといった態度を取る。

「なーんだ。れんれんにもついに春がやってきたのかと思ったのに」

「またその話?」

「またって何よ。あたしたち花の高校生よ? 恋バナなんていくらしたって飽きないでしょ」

「私に聞いたって面白くないでしょ? 付き合った経験もなければ、好きって気持ちすらわからないんだから」

「それがいんじゃーん。そんな何にも経験のない、恋から縁遠いれんれんがどんな人を好きになるのか、めっちゃ興味ある」

「うーん」

 悩みながら卵焼きをひとつ口に運ぶ。

 美音は恋バナが大好きだ。私にもよく振ってくるし、クラス内の恋愛事情は大体把握している。それどころか他クラスの噂まで知っていることもあり、とにかくこの手の話題に関しては耳が早いようだ。

 対する私は、恋バナは嫌いじゃないけど、自分に話を振られるととても困ってしまう。高校生にもなって未だに人を好きになったことがないのだ。最近は劣等感に近い恥ずかしさを持つことも増えてきた。だが何を言われようとやはりピンとこなくて頭を抱えてしまう。

「本当に椿紅のこと何とも思ってないの? 転校生と隣になるなんて、漫画でよくあるシチュエーションじゃん!」

「気になるとか好きとか、やっぱりよくわからないんだよね」

 ここでちょうどいい話題の途切れ目を察知する。美音がパンを口に含んで喋れない間に話題の中心人物を変えた。

「私のことよりさ、美音はどうなの? 最近彼氏とうまくいってる?」

「別れた」

「へ?」

「だから、わ・か・れ・た」

 美音はわざとらしく一音一音をはっきりと立てて喋る。今回付き合っていたのは確か、同じクラスの虎沢くんだ。今回はいい感じだから長く続きそうだと嬉々として報告してくれたのはちょっと前のこと。そのときのことを思い出し、受け入れ難くて反応に困ってしまった。

「え、まだ付き合ったばっかだよね? 確か……」

「一週間」

「ええ……何で別れちゃったの?」

「いつものやつだよ。相手がそういう目的だったから。しかも、別れてからもちょっとしつこくて困ってるんだよね」

「ああ……」

 美音は所謂モテるタイプで、且つ彼氏が途切れないタイプだ。でもそのスパンがとても短い。最短三日とかもあったはず。別れる理由は毎回殆ど同じ。今回のように、復縁を迫られて困っているというのも初めてではない。

 明るく振る舞っているけれど、次第に目から元気が消えていく。無理しているのだなと察して胸が痛んだ。

「私キスでさえ嫌いだからさー。ハグで満足だっつーの。それなのに盛っていきなり押し倒してきてさ。ホント最悪だった」

「そっか……それは大変だったよね……」

「あたしに寄ってくる男、みんなそんなんだから。まあ慣れてはいるよ」

「慣れていいものなの? それ」

「さあ?」

 諦観したような言い方が気になって、心配で問いかけるものの、はぐらかされてしまう。別れる度にこんな会話をしているような気がしてやるせない気持ちだ。彼女にはたくさんの人が言い寄ってくるのだ。それはとてもすごいことなのに、美音自身が苦しむ理由になってしまっているのがどうにも納得いかない。美音をちゃんと理解して大切にしてくれる人に早く出会ってほしいと思う。

「でも美音がモテてるのはすごいと思う。それだけ人望があるってことだから。私は全然だし」

「いい感じに褒めてくれるねえ。けどれんれんが思ってるのとはちょっと違うと思うよ」

 美音は自嘲を含ませた口ぶりで続ける。私は箸を置いて、美音の話を聞くのに徹した。

「あたしは丁度いいんだよね。男子にも平気で距離詰めちゃうし、ノリも我ながらいい方だと思うし、面倒なことはテキトーに誤魔化しちゃうしね」

「別にそれはどれも悪いことじゃないでしょ。テキトーだとも思ったこともないし」

「悪くはないけど……よくもないでしょ。あとテキトーなところはれんれんの前では見せてないだけだよ」

 そう言って目を逸らすと、パンを食べるのを静かに再開した。さっきよりも元気がないように見えて居た堪れなくなってくる。そんなふうに自分を悪く言わないでほしかった。

「テキトーなのかはわかんないけど……でもやっぱり、私はいいことだと思う! 美音はみんなを明るくしてくれるよ!」

 美音は食べる手をゆったりと止めた。幾らか目が見開かれているように見える。

「……そう言ってくれてありがとう」

 朗らかに笑ったのを機に、元気を取り戻したのかハキハキと喋り始める。

「あれだよなあ〜。れんれんがモテないのは、こういうところを知られる機会がないからだよなあ〜。れんれん、あんまり男子と関わらないもんね」

 こういうところを知られたとして美音みたいにモテるとか思えない。単に思っていることを伝えただけだし、こういうのって人によったらお節介に感じるものだろう。私がこんなふうに喋れるのは、美音が言葉を好意的に受け取ってくれるからこそだ。それも美音の魅力だよなと思いつつ、それを言っては話が脱線してしまいそうだったので、そのことには触れずに話に乗ることにした。

「昔から関わってこなかったから、耐性がなくて……」

 男子と関わるのを避けがちであることは明白だ。親友である美音とは正反対の部分。大きな理由があるわけではないが、気が付いたらそうなっていた。今更慣れるのも難しく、特に困ることもないのでそのままになっている。

 揶揄うような目をして美音が身を乗り出してくる。

「でも椿紅のことは気にするんだ? もしかして危険な男の方がタイプ?」

「だからそういうのじゃないって! というか私、朝自己紹介したら何も言わずに舌打ちされたんだから」

 ドン引きした顔で一時停止される。ぽかんと開いた口が広角を下げたまま動いた。

「舌打ちマジか」

「マジです」

 正真正銘マジだ。話しかけたことが後から恥ずかしくなって、何度無意識に思い出してしまったかわからない。

 その頃、教室の外が騒がしいことに気が付く。いつもの休み時間特有の騒々しさとは違って、人が群がっているように窺えた。

「外、騒がしいね」

「何だろ」

 会話を中断して、耳を澄まして必要な情報を探す。

「なんか揉めてるぞ」

「どうしたの?」

「あれ転校生だよね?」

 転校生というワードが聞こえてドキリとする。最近転校してきた人などあの人しかいない。まさかと思って立ち上がり、窓から廊下を覗き込んだ。

「なんか彼が普通科の先輩突き飛ばしたみたいだよ」

「ええ……? まじ?」

「マジマジ」

生徒たちが次々に話を広めていく。

「ごめん。ちょっと行ってくるね」

「え、うん……」

 聞いてしまったら見過ごせるわけがない。まずは状況を把握しなければと、急いで教室の外に出る。人混みの間を縫っていけば、特徴的な白髪がチラリと見えた。人だかりが円形に開けた場所までやってくる。

 そこでは椿紅くんと先輩が言い合いをしていた。あのズボンとネクタイの色からして普通科の二年生の生徒だろう。

「だから俺はやってねえって。勝手にぶつかってきただけだろ」

「あ? わざとぶつかって来たのはお前だろ?」

 明らかな喧嘩腰で椿紅くんを詰めている。先輩は人を不快にさせるような独特な音吐で凄んだ。

「そういえばお前、前の学校で暴力沙汰起こしたんだってな。そんなやつがうちの進学クラスに転校してくるなんて、一体どんなコネ使ったんだ?」

「……お前にはカンケーねえだろ」

 後ろからまた別の噂話が聞こえてくる。

「あの先輩、確か内申点が理由で進学クラスに入れなかった人だよね?」

「妬みってこと? 怖……」

「高校入ってからずっと荒れてるらしいよ」

 すると、それらの話は彼にも聴こえてきたのか、弱味を利用するようにして先輩を煽る。

「というか、後輩に突っかかってる暇があんなら、一秒でも真面目に多く勉強したほうがいいんじゃないすか? センパイ」

「ああ!? 後輩のくせに生意気な口利きやがって!」

 図星だったのか、急激に怒りをヒートアップさせた先輩が腕を振り上げる。このままではまずい。気が付けば体が動き出していて、二人の間に立って両手を広げて静止をかけた。

「ストーップ! 落ち着いてください!」

 殴ろうとしたのを途中で辞めた先輩は、苛立ちながら尋ねてくる。

「何だお前」

「えっと、私は新生徒会会計の者です! 正式な任命式は明日ですが……」

「その会計が何の用だよ?」

「ひっ……」

 低い声で威圧的に言われて小さく悲鳴を上げてしまった。そんな場合ではないのに情けない。生徒会としての責任感に勇気を借りて、気持ちを持ち直す。胸の辺りに出した両手を上下させ、手振り身振りを合わせて落ち着いてほしいと伝える。

「えっと、一旦落ち着いていただきたくて……ここで言い合っていても埒が開かないので、良ければ一度先生を挟んで話し合いませんか? できればここにいた方の証言もちゃんと集めてから──」

「何だよ。生徒会のくせに生徒のことを疑うってのかよ」

「そういうわけではなくて!」

 ──一体どうしたら……

 ああ言えばこう言ってくるタイプのようで、どうするべきかを考える。一旦場を収めることが目的だが、それでどちらかが不利になってしまうのは良くない。頭を悩ませ俯くと視界に足先が映る。

 場を収めるために出てきたはずなのに、これでは生徒会の名にも傷が付いてしまう。疑って不快な思いをさせるのは違う。けれど椿紅くんが違うと言っているのならば難癖をつけられている可能性が高い。幸い周りに人はいたはずだからちゃんと証言をもらえたらいいのに、その隙さえ与えてもらえなさそうだ。それにこんな怖い人相手だと真相を知っている人がいても言い出せないだろう。

 そのとき、背中に悪寒が走った気がした。なんだと思って顔を上げた瞬間、目の前を何かが横切り先輩が唸り声を上げて倒れた。

「うっ!?」

「えっ」

 予想外のことに言葉を失ってしまう。今、見間違いでなければ、椿紅くんが先輩を殴った。いっそ見間違いだと思いたかったのに、先輩が殴られた左頬を擦っていることがこれを何よりの現実だと証明している。椿紅くんは殴った拳を引いて立ち尽くす。そんな彼を見上げながら先輩は叫んだ。

「コイツ、とうとう手を挙げやがったぞ! お前らも見てたよな!? 先生呼んでこい!!」

 騒ぎ声を掻き消すように、よく知っている声が飛び込んできた。

「こんなに集まって、一体何の騒ぎだ」

「先生……」

「翡翠先生! コイツが殴ってきたんだ!」

 違うと言いたいのに言えない。殴ったことは事実だ。でも理由もなくそんなことをしたとは思えなくて、それをどうにか伝えたいのに、理性が全部引き止める。ここで肩を持つことは間違っていると、冷静な頭は正しい選択を選んだ。

「椿紅。本当かい」

「……」

「無言は肯定と取るよ。行くよ」

 椿紅くんは黙ったまま、何も言わずに翡翠先生に付いて歩いていく。すれ違いざまに目が合った。

「なんで……」

「……」

 呟くような問いかけには、やはり返事は返ってこなかった。



 今日は、明日の生徒会任命式の準備の打ち合わせのために生徒会室へ向かっている。生徒会に行くの自体は楽しみなのだが、教室から生徒会室までの距離が遠いのだけがちょっと不満だ。階段を二階分も上るのは意外と疲れる。これが真夏になればもっと大変だろう。

「階段しんどい……」

 そんなことをぼやいていれば、叶冬が唐突に別の話題を振ってくる。

「そういえば、転校生くんとはどう? 朝なんか喋ってたよな?」

「え?」

 いつもなら話に乗ってきて、お前の体力がないからだろ、とか軽口を叩いてきそうなものだ。思っていたのとは違う話の振り方に吃驚して、一度疑問符を飛ばす。それから質問の内容を理解して、朝のことを思い出した。

「うん。喋ったよ。でも顔見て早々に舌打ちされた……」

「あははっ、そっか」

「笑わないでよ! すごい勇気出して話しかけたんだからね!」

 軽快に笑い飛ばされてしまい、小さな怒りを訴える。でも叶冬は全然気にしていないようだ。

 朝のことを思い出したら、流れで昼間のことも浮かんでくる。目の前で誰かが殴られるというのはなかなかにショッキングな光景だった。暫くは忘れられないだろう。あのとき、彼はどうして殴ったのか。理由なしに殴るというのは理解できなくて、本当は何かあったのではないかと一人で悶々としてしまう。

 叶冬が急に私の顔を覗き込んでくる。真顔で見つめられ、距離の近さに驚く。その場で立ち止まると叶冬も足を止めた。まるで品定めでもしているような視線で、何かを探られているようだ。

「なに……」

「……」

 数秒の沈黙。気が済んだのか、私から離れて階段をトントンと一気に上がっていく。人のいない階段に響く芯のある声は、何を考えているのか読めない声音だった。

「なんでもない!」

「えー?」

 階段の踊り場に辿り着くとこっちに振り向く。

「早く行こうぜ。今日は先輩たちより早く行くのが目標なんだろ」

「そうだけど……」

 それを言い出したのは私だ。昨日先輩たちを待たせてしまった結果入室しづらくなってしまったので、先に行けばその心配もないだろうという算段。

 叶冬がにやりと悪戯な笑みを浮かべた。何だか嫌な予感がする。

「じゃあ、どっちが早く着くか競争な!」

「ハア!? 走るってこと!?」

「競歩だよ競歩! よーいドン!」

「ちょっと!」

 私よりも長い足のリーチを活かしてどんどんと階段を上っていく。急いで階段を駆け上がったが全然追い付けそうにない。

「叶冬速い! 帰宅部のくせに!」

「俺はお前と違ってちゃんと鍛えてるからなー」

「もー!」

 息を切らしながら大きな声で文句を言うものの、煽り返されてしまった。いつの間にか半階分差がついてしまい、もう距離は縮められそうにない。走らないギリギリで追いかけたが、生徒会室の扉の前に着いたときには、ドアの前で足踏みをされて更に煽られる始末だ。

「おせーぞ!」

「そっちが、はぁ、っ……速いんでしょ」

 膝に手をついてゼェハァと息を吐く。叶冬そんな私を一瞥してから、ガラガラっと速いスピードで扉を引いた。

「よっしゃ! 俺がいっちばーん! ……あ」

「は……っ、はっ、今度は何……」

 何かに気付いたように気の抜けた声が落ちてくる。今度は何をしようとしているのかと思い、姿勢を真っ直ぐに戻しながら叶冬を見れば、生徒会室の手前側の左奥へ目を向けていた。視線の先を見てみると、思わぬ人物が机にリュックを置いて椅子に座っている。

「椿紅くん……?」

「……」

「なんで椿紅がここにいんの? なんか用事?」

「……」

 私が次をしゃべる前に叶冬が椿紅くんに近付いていく。響く足音が気のせいか冷たく聞こえて、違和感を覚えた。

「なあ、喋らねーとわかんねえんだけど」

「……」

 詰め寄るとまではいかないが、言い方に棘があるように聞こえる。悪戯だと思っているのかもしれない。真意はどうであれこの状況があまりいい空気とは感じられなくて、二人の間に入ることにした。椿紅くんの座る席の元へと近寄っていく。机の横に立って笑顔を心がけながら二人の顔を交互に見る。

「まあまあ、そう焦らなくても……転校したてだし、多分緊張してるんだよ。ね、椿紅くん」

「……」

 同意を求めてみるものの、椿紅くんは喋ってくれない。これじゃあ昼間と同じだ。事を収めようにも収まらないからどうにか喋ってほしい。そう願っていたら、唐突に叶冬が私の名前を呼ぶ。

「……恋、そうやって昼もコイツの肩持ったんだろ。クラスの奴らから聞いたぜ。危ないことするのやめろよ」

「えっ……」

 聞いたことのない厳しい声に呆然とする。いつもニコニコとしている叶冬のこんな顔を見るのは初めてだった。まるで怒っているみたいで、しかも私が思っているよりも大きな怒気を孕んでいるように見えて、我知らず息が止まっていた。今感じているこれは何だろう。心臓がドクドクと何かを知らせている。

 ハッとして、口が開いていたせいで乾燥していた口を潤すために唾を飲み込む。何か返さなければと思い、あのときの思いを伝えた。

「けど誰かが止めに入らないとだったから……私だったら、生徒会って立場を盾にして守れると思ったの」

「だからってお前が危ないことするわけないだろ。相手は上級生だし、後輩に突っかかってくるようなやつだぞ」

「それは……」

 言われた通りで、返す言葉が見つからなくなる。本来の私なら、飛び出さずに先生を呼びに行っていたかもしれない。それなのに助けたいという一心だけで、中途半端な考えを元に動いてしまった。そんなことをしてしまった理由はわからない。でも反省すべきことだろう。今度はそれを何と伝えようか迷っていたら、横から思わぬ声が聞こえてくる。

「お前らって付き合ってんの」

「え?」

 あまりに脈略のない話題と、椿紅くんが言うとは想像も付かないような台詞に頓狂声が出る。私が動揺で答えられないでいると、叶冬が益々怒気を強めた声で否定を口にした。けれどその怒気は私に向けるものとは違う気がする。敵意と言ったらいいのだろうか。今から喧嘩でも始めてしまいそうな雰囲気だ。

「……付き合ってねーけど。だったら何」

「……なら、言う必要ねえか」

「言う必要ねえって、何の話だよ」

「……」

 付き合っているのなら言うべきこと。椿紅くんが再び黙ってしまった間に思考する。私と椿紅くんの関わりなんてあの昼休みの出来事しかない。だとしたら。

「椿紅くん、もしかしてそれって、昼休みの──」

「椿紅、もう来てたのか」

「翡翠先生!」

 遮るように先生が生徒会室に入ってくる。先生は私たち三人の状況を見て、何かを察したようだった。

「あー……ごめんね。多分びっくりさせただろ。本来なら生徒指導室を使うところなんだけど、生徒会の方も見ないとだから、僕がここに呼んだんだ」

「でも生徒指導は天道先生じゃ?」

 生徒が何か問題を起こしたとき、基本的に指導をするのは生徒指導の先生だ。翡翠先生は生徒会担当の先生だから、あれ、と思って訊く。先生は少し考えるような素振りを見せてから、私を納得させるように話した。

「椿紅の生徒指導は、特例で俺が受け持つことになってるんだ。ほら、担任だしね」

「そうなんですね」

 私がそう言って頷いたとき、くう〜、と可愛らしいお腹の音が聞こえてくる。聞こえてきた方向からして、誰から発されたものかは明白だった。じわじわと振り向いていくと、唇をへの字に曲げた椿紅くんと対峙する。

「……なんだよ……」

「今、お腹……」

 言うか迷ったことを叶冬が零すように言う。視線は同じく彼の方を向いていて、同じ人が出所だと思っているようだ。

 私の中でひとつの可能性が浮上する。彼が騒ぎに巻き込まれた時間からして、果たしてお昼ご飯を食べる時間があっただろうか。

「ねえ、違ったら申し訳ないんだけど、もしかしてお昼食べてなかったりする?」

「…………た……んだよ」

「え?」

「だーかーら」

 ダンっと机を叩いて立ち上がる。椿紅くんは顔を赤くして声を上げた。

「学食が見つからなかったんだよ!」

 置かれていたリュックが机と一緒に震え、どさりと床に落ちた。悔しそうに歪められた顔は私たちを睨んでいるようだけれど、昼間のような怖さの片鱗はどこにもない。

「ははは。それじゃお腹が鳴るのも当たり前だな」

 数秒の沈黙を経て先生が場の空気を和ませるように軽やかに笑う。その後、何かを思いついたようで私の方に視線が向く。

「そうだ。桃瀬、明日学食の場所案内してやってくれよ」

「は?」

「私ですか?」

 私と椿紅くんはそれぞれの反応で聞き返した。先生は頷き、いい案だという風に言う。

「ああ。席も隣だし、ちょうどいいだろ? 他にも何かあったら桃瀬に聞きなさい。桃瀬、頼んでいいかい?」

「わかりました」

「チッ……」

「また舌打ち……」

 断る理由もないし、心配だったから、任されたことに対しては寧ろ嬉しさもある。けれど椿紅くんは不満なのか、また朝のような舌打ちをされてしまった。だが昼間に何も返されなかったことを思えば、これも彼にとってコミュニケーションのひとつなのかもしれない。あまりいい気分ではないが、そうでもしないとメンタルがもたなさそうなので、無理矢理前向きに捉えることにした。




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