再開のコーヒーとワンちゃんの夢
美咲はスケッチブックを見ていた。
色あせたページには、ポメラニアンのマメが着る小さなセーターや、リボン付きのドレスのイラストが並んでいる。祖母の走り書きが、まるで昨日のことのように美咲の胸を締め付けた。
「好きなものを作りなさい。それが人を幸せにするのよ」。美咲はスケッチブックのページを撫で、深呼吸した。
「私、ワンちゃんのお洋服屋さんを始める。もう、ブラック企業には戻らない」
窓の外では、商店街の八百屋のおじさんが「新鮮なキャベツ、安いよ!」と声を張り上げ、子供たちが自転車で笑いながら通り過ぎていく。
地元の小さな商店街は、冷たい工場とは別世界だった。美咲の故郷、静かなこの街で、祖母の遺産を元手に新しい人生を始めようとしている。
「美咲! 遅いじゃん! もうコーヒー冷めちゃったよ!」
喫茶店のドアがカランと鳴り、美咲がひょっこり顔を出した。
肩にかけられたトートバッグには、スケッチブックや色鉛筆が無造作に突っ込まれている。彩花は美咲の高校時代からの親友で、自由奔放なイラストレーターだ。
最近は小さなデザインの仕事を細々とこなしながら、「いつか自分の絵で食べてやる!」と息巻いている。
「ごめん、彩花。ちょっと…スケッチブック見てたら時間忘れてた」。
美咲が苦笑いすると、彩花はカウンターにドカッと座り、マスターに「いつものミルクティー!」と注文した。
マスターは白髪交じりの笑顔で頷き、慣れた手つきでティーポットを準備する。
「で? 急に呼び出して何? まさか、例の遺産で海外旅行でも計画してる?」
彩花が目をキラキラさせながら言う。美咲はスケッチブックを彩花に差し出した。
「これ見て。祖母の…ワンちゃんの服のデザイン。こんなお店、やりたいの。私、決めた。ワンちゃんのお洋服屋さん、開くよ」
彩花の目がスケッチブックに釘付けになった。カラフルなリボン、ふわっとしたスカート、小さなマント。ページをめくるたびに、彼女の口元に笑みが広がる。
「めっちゃ可愛いじゃん! これ、めっちゃいい! でもさ、美咲、ビジネスとかやったことないよね? 私もだけど」彩花が笑いながら言うと、美咲は少し肩をすくめた。
「うん、だから…彩花、一緒にやらない? あなた、デザイン得意でしょ? 店のロゴとか、服の柄とか、彩花の絵があったら絶対素敵になるよ」。
美咲の真剣な目に、彩花は一瞬言葉を失った。いつもふざけてばかりの彩花が、珍しく真顔になる。
「…マジ? 私、計画とか苦手だよ? すぐ飽きるし、ミスばっかだし」
「いいよ、それで。彩花のアイデア、いつも大好きだったから。私にはないもの持ってるよ、彩花は」
喫茶店の窓から差し込む午後の光が、スケッチブックを照らす。彩花はミルクティーを一口飲み、にっと笑った。
「よーし、乗った! 店名は…ほら、『Paw Couture』ってどう? なんかオシャレで可愛くね?」
彩花がバッグからスケッチブックを取り出し、即興でロゴを走り書きする。犬のシルエットにリボンが巻かれた、シンプルだけど心躍るデザイン。美咲の胸が熱くなった。
「いいね、それ! じゃあ、まずは店舗探しからだ。商店街に空いてる物件、あったよね?」
「うん、八百屋の隣のボロいとこ! あそこ、めっちゃ安いってマスターが言ってたよ!」
二人は顔を見合わせ、思わず笑い合った。
その夜、美咲はアパートで祖母の古いミシンを引っ張り出した。試しに、マメの古いセーターを参考に小さなワンちゃん用のマントを縫ってみる。
ぎこちないステッチだったけど、布を手に持つ感触は、工場でのあの冷たい針仕事とはまるで違った。
「彩花と一緒に、絶対やってやる。ワンちゃんも、飼い主さんも、笑顔にできるお店にするんだ」。
美咲はマントを手に、そっと呟いた。窓の外では、商店街の街灯が優しく光っていた