夜のミシンと祖母の遺した糸
夜の10時を過ぎた工場は、蛍光灯の白い光とミシンの単調な音だけが響き合っていた。美咲は、目の前の高級ドレスの裾を縫う手に力を込めた。指先には小さな針の傷がいくつも刻まれ、親指の腹は硬く荒れていた。
「佐藤! そのステッチ、雑すぎ! やり直し!」
主任の鋭い声が工場内に響く。美咲は反射的に肩をすくめ、「はい、すみませんでした」と小さく答えた。主任の目は、まるで値札のついた商品を見るように冷たかった。美咲は唇を噛み、ほどいた糸をゴミ箱に放り投げる。このドレス、誰が着るんだろう。きっと、こんな服を着る人は、こんな時間まで働かなくていいんだろうな。
時計の針が11時を指したとき、ようやく終業のベルが鳴った。美咲はコートを羽織り、冷たい夜風が吹く路地裏へ足を踏み出す。コンビニの袋を握りしめ、アパートの階段を上る。
ワンルームの部屋は、裁縫道具と古い雑誌で散らかっていた。美咲はベッドに倒れ込むように座り、コンビニ弁当の蓋を開けた。だが、箸を持つ気力すら湧かない。
ふと、机の上の写真立てが目に入った。祖母と、祖母の愛犬だったポメラニアンのマメ。ふわふわの毛に赤いリボンを結んだマメが、祖母の膝の上で笑っているような顔でこっちを見ていた。美咲の胸が締め付けられる。
「おばあちゃん…」
祖母は一年前に亡くなった。美咲がまだ中学生だった頃、祖母は古いミシンでマメの小さな服を縫ってくれた。「美咲、好きなものを作るのよ。それが人を幸せにするの」と、笑いながら言っていた。あの頃の自分は、祖母の言葉を信じていた。服を作るのが、こんなに苦しい仕事になるなんて、想像もしていなかった。
スマホが震え、画面に知らない番号が表示される。こんな時間に誰? 不審に思いながらも通話ボタンを押す。
「佐藤美咲様でしょうか? 佐藤ハナ様のご遺産について、ご連絡差し上げました…」
美咲の心臓が跳ねた。遺産? 祖母がそんなものを残していたなんて、聞いたこともなかった。弁護士の落ち着いた声が、遺産の詳細を告げる。小さな金額ではあるが、アパートの家賃を数年払える程度の現金。そして、祖母の家に残された裁縫道具一式と、デザインのスケッチブック。
電話を切り、コンビニ弁当を放置したまま、美咲はクローゼットの奥から古い段ボール箱を引きずり出した。中には、祖母からもらったハンドメイドのワンちゃんの服が入っていた。マメが着ていた小さなセーター、カラフルなリボン付きのドレス。布の端には、祖母の丁寧なステッチが残っている。美咲の目から、ぽろりと涙が落ちた。
「私、こんなところで、こんな仕事、いつまで続けるんだろう…」
指でセーターの毛玉をそっと撫でながら、美咲は呟いた。
「おばあちゃん、私、やり直したい。もう一度、好きなものを作りたい…」
その夜、美咲はスマートフォンで「ペット服 作り方」と検索し始めた。画面の向こうには、カラフルな犬の服を着たワンちゃんたちの写真が並んでいる。美咲の唇に、久しぶりに小さな笑みが浮かんだ。